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神の怒りから愛の歌へ

4月26日午後、加藤常昭先生が召された。縁のある教会である。牧会したということではなかったが、あるいは、最も近いところにあった教会である。生涯最後の説教も、ここで語られた。歴史的礼拝だった。その説教は、ドキュメントとして公開されている、18年前の説教とパラレルなものだったが、視力を失った中で、原稿もなしに語るものだった。
 
黙示録の講解説教中である。だが、その初めと終わりは、加藤常昭先生に触れながらのものとなった。もちろん、それは取って付けたようなものではなく、内容に自然に重なるものとしてだった。説教者がさすがである。一日でそのような説教を引き寄せたのである。
 
多くの人に知って戴きたいと私も思うことがあった。説教者が薦めた、加藤常昭入門の本だ。200を超える著書があるが、最初に読むなら、『自伝的説教論』がよいのではないか、という。2009年の発行である。私は2023年8月7日付けで、この本について詳しく触れている。
 
説教者はこの自伝が、教会経験からスタートしているところを強調した。矢内原忠雄先生の説教者だった。そのことから始め、説教者としての矜持、というと語弊があるかもしれないが、加藤常昭先生が、預言者の一人として生涯を終えたことで、黙示録に入ってゆくのだった。
 
黙示録の筆者もまた、一種の預言者であろう。旧約聖書で預言者といえば、神から言葉を受けて、それを人々に告げた者である。それは、神のほかに頼りにする味方のない生き方だとも言える。エレミヤのように、協力者が危機のときに現れて助けられるという経験をした預言者もいるが、それも元来神のみを頼りとしていたからではないかと思われる。もちろん、エレミヤのように自伝を語り尽くした預言書はほかには殆どないので、それぞれの預言者も、何かしら味方はいたかもしれない。それでも、神はわが櫓、という生き方が根柢にあることには違いない。
 
さて、黙示録は16章になった。ここには神の怒りがまともに描かれている。七人の天使が七つの鉢をぶちまける。ずぶな語り手だったら、これら一つひとつを、どこかでお勉強した通りに詳しく説明して、自己満足することだろう。だが、神の言葉を取り次ぐということは、この神の怒りの意味を説き明かさなければならない。しかも、それは他人事ではなく、語る者自身においてそれが何であるか、を経験しつつ語るのだ。この違いを、説教者は後半で、科学についてだが、なぜ起こるかのメカニズムは明らかにするが、どうしてそうなるのかの意味は教えてくれない、というような言い方で相対的に捉えていた。しかし今見つめる必要があるのは、神の怒りの意味である。
 
神の怒り。これを聞いて誰もが引っかかる可能性がある。神は愛ではないのか。早く自分の心を落ち着かせたい場合には、新約は愛で、旧約は怒りだ、などと自分の心を納得させて安心するかもしれない。いや、愛と怒りは私たちでも同居するではないか。説教者は問う。愛するが故に、怒りをぶつけることがあるだろう。
 
愛の反対は憎しみではない。有名な言葉が一人歩きしている観もあるが、確かに愛と憎しみとは対義語には違いないが、そう捉えて終わってはならないことは確かだ。愛の反対は無関心だ。逆説めいたその指摘は、人生の真実を言い当てている。私たちは愛するが故に怒り、あるいは憎しみさえ懐くことはあるわけだ。怒りもしない対象は、愛してもいないというのは、確かにそうなのだ。
 
神の怒りの現れについて、説教者は二つの道を示した。「神は死んだ」というニーチェの指摘だ。これにより、神は人間を滅びに任せる道を備えたのである。ニーチェが死んだのは19世紀最後の年だが、次の20世紀は、殺戮の世紀となった。人間中心主義、ということで説教者はさしあたり片付けたが、これは相当に奥が深い。近代思想がそれを作っていたことは確実である。デカルトが道を示し、カントがそれを舗装道路に仕立て上げた。それは、神が不在の世界を説明する、ということだ。ヨーロッパの思想には、中世を通じてそれは考えられないことだった。だが特にカントに至ると、神という原理を用いずに世界を説明するようになった。それは当時の科学の説明についても同じである。科学も、当初は神を原理としていたのだ。
 
脇道へ逸れすぎた。もうひとつ、神の怒りの現れについては、滅びてはならないとするために、歴史に介入することが挙げられた。七つの鉢は、私たちの理解の仕方からしても、思い当たるふしのあることが多い。それが何を表しているか、が問題なのではない。私たちが、それぞれをどう受け止めるべきか、受け止めてよいのか、各自が問い直すことである。
 
二千年近く前の人の語彙と知恵であるが、ただの宗教的な幻想と呼ぶにはもったいない指摘があるように見受けられる。「持続可能な開発目標」は、専ら「SDGs」として人口に膾炙する用になったが、その達成目標の期限があと6年しかないことは、殆ど話題に上らない。誰もが他人事だと思っている。もしかすると黙示録に挙げられている人間の姿は、このように何もかもが「他人事」だとしている人間の有様ではないか、とも思えてくる。聖書の読み方にしても、「他人事」として読むのが当たり前だ、という態度をとっている教会もある。それが正しい、と信じ、むしろ聖書を俎に載せているつもりでいるらしい。しかし、聖書は、そういう態度をとる人間を、つねにすでに描いている。
 
ここには「ハルマゲドン」が登場する。オウム真理教で有名になったことへの誤解を解く必要があるだろうことにも触れる。なお、説教者はしばしば、実名を出さない。ニーチェもオウム真理教も、この説教内では言葉に出していない。単にトラブルを避けるという目的があるというよりも、その本質が、固有名にのみ帰せられることを避けているように思われる。つまりここにも、固有名のみを批判すれば、私たちにはそれが「他人事」になるのである。私たちにとり、そのどれもが「他人事」であってはならない。そのように受け止められなければならないのだ。
 
だから、私たちは「悔い改め続ける」のでなければならない。これが説教者を通して神が訴えていることとしたい。祈る、それはよいことだ。だが、その祈りが、「自分を変える祈りになっている」のでなければならない。それが「他人事ではない」ということなのである。
 
このようなひとつの結末から、再び説教者は加藤常昭先生の話題に戻る。加藤先生は長く鎌倉雪ノ下教会で牧会していたが、そこに黒柳朝(ちょう)さん(朝ドラ「チョッちゃん」はその自伝を基にしている)がいた。無邪気な朝さんは、加藤先生の祈りの顔が、「人を殺したかのように」祈っていた、と言う。難しい顔をしていた、ということだろう。
 
神の前に厳粛にしていることは当然あってよい。が、確かに信仰は苦しいものだ、というパフォーマンスになってしまうのもどうか、とは思う。それでも、私はやはり思う。自分を責めることにおいては、苦しい顔つきでもよいのではないか。いくら口では美しいことを言おうと、自分が愚かで哀れな者であることを、それなりに分かっている。この自己認識があることだけでも、キリスト者は貴重な存在だと私は考えている。
 
だが、それだけで終われば絶望にしかならない。自分の罪、そして人間の罪というものを、心にしっかりと結わえつけておかなければならない。それはごまかしてはならないのだ。神は確かに沈黙しているが、滅びるままにしているのだろうか。あるいは、なんとか怒りを静めようとしているのだろうか。否、その怒りをイエス・キリストにすべてぶつけたのではなかったか。
 
人間は、当事者である。人間の愚かな滅びへの道を、放置しておくことはできないだろう。もちろん神に委ねるということはある。だが、人は祈り、言葉と行動で、世界に知らせることができるだろう。
 
加藤常昭先生は、若き神学生時代に初めて説教をしたとき、戦後の焼け野原同然の風景があった。少なくとも、人々の心に鮮明にそれが残っていた。しかし、人は歌うことができる。希望の歌を歌うことが赦されている。黙示録に描かれたような悲惨な情景を招くのも人間であるが、神に賛美を献げ続けることができるのも、人間なのだ。
 
最初に挙げたドキュメント動画でも、加藤先生は、自分は子どもの頃から死を怖れることが人一倍強かった、と語っていた。それが哲学を学ぶことへとつながっていったのであろうことは、理解できる。私もそうだった。私と違うのは、加藤少年が信仰を与えられた後に哲学へと進んだ点である。私は逆の順だった。比較すること自体失礼極まりないことだが、いくら能力の優劣が極端に異なっていても、見せられた風景の点では、近いものがあると感じている。
 
地上でのはたらきを終えた中、それは平安なのだろうか。すでに世に勝っている、という信仰が、正にここに結実したのである。歌については専門的に学ばれた加藤先生である。この世界で歌っていた愛の歌を、いまも後も、歌い続けているに違いない。悲しくて呆然としている私だが、立ち直ったら、そこに歌声を合わせることを、始めたいと願う。

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