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心を病む牧師

牧師自身の心は、誰が世話をするのだろうか。
 
プロテスタント教会では、牧師という。礼拝説教を担う。教会員の魂の配慮を司る。教会を訪ねる人を迎える。中には、心を病んだ人も来る。そもそも自分の罪に気づいたからこそ、聖書や教会を求める、というのが筋だ。心の悩みをもつのは当然かもしれないし、実際精神疾患を患っている人も来るだろう。
 
だから牧師は、カウンセリングも学ぶらしい。「牧会心理学」などの名前であるかもしれない。ただ、それを少し学んだくらいでは、心理療法ができるわけではない。素人に毛が生えた程度であるだろう。それでも、教会を訪ねる、精神的に問題を抱えた人のためにどうすればよいか、は大切なテーマの一つである。そこで、検索すれば、その手の本にはいろいろ出会うことができる。
 
だが、牧師自身が心を病んでいる、という観点からの本には、出会うことがない。牧師の家族の心理を考えよう、というものはあったが、牧師自身のメンタルについて踏み込んだものは、見当たらない(あったらぜひ教えて戴きたい)。
 
精神医学が日常の中にあるというアメリカにおいては、牧師の心をケアするものもあるようだ。だが日本にあるのは、牧師が当事者として患者となった、という告白がせいぜいであって、一般に牧師の心を治療する方向性で援助しようという本は、ちっとも盛んでない。
 
牧師という立場は、精神的に辛い。昔は、ワンマンな人もいたし、どうかすると神格化され、誰もがひれ伏す、というような構造もあったというが、いまは殆ど見られない。そればかりか、教会という組織に雇われた職員であって、信徒の信頼を失ったら簡単に解任されることになる。何かと代表者として矢面に立つことは必定で、しかも基本的に高給取りとはならないのが日本の実情であるし、どうかすると自分の食い扶持を副業で稼がないと生活できないケースが実際多いようだ。
 
役員の顔色を見ながらサラリーマンとして働き、不満を一気にぶつけられもする。何かあれば時間に関係なく呼び出されるし、団体に属していれば、あまり意味のない会議へ走り回ることもある。対外的にも「いい顔」をしなければならないし、ささやかなことでも問題を起こすわけにはゆかない。
 
正直、聖書を読んでいる暇もないくらいであろう。これで、聖書からの救いの経験があればまだしも、中にはそれのない「牧師」もいる。案外それは気楽にビジネスをしているだけなのかもしれないが、中には、心をやられる人もいる。
 
実際、精神疾患に冒されている(としかいえない)人がいる。実際、一般市民の目から見て、その言動が「おかしい」と見られている例がある。
 
しかし、精神的ケアをする立場の牧師という存在を、逆にケアする立場にいるような人は、基本的にいない。誰も対処できない。その人には家族もいることだし、徒に解任させるのも忍びない、という感情的な背景があると、辞めさせるわけにもゆかない。腫れ物に触るような扱いで、なんとか礼拝を続けていくしかない、というところであろうか。
 
そんな牧師が、福音を語っていれば、それはまだよい。だが、病んでいる心は、だんだんと自分の思い込みばかりを語るようになってゆくこともある。そもそも聖書からの体験がなく、親からいい子いい子と甘やかされてきた人であれば、そうした勘違いも起こりやすい。キリスト教はすべての宗教と仲良く世界平和を目指すべきで、罪だの贖いだのということはもはや関係がない――こんなことを、礼拝説教で毎回訴えるばかりであるような教会が、嘘のようだが、現実にあるのである。
 
長らくそこの教会を支えていた方がいた。豊かな生活をしていたわけではないが、全財産を注ぎ込むような形で、教会や牧師館を建ててきた。新しく招いた牧師が、いま挙げたような人物であったことに、20年ばかり耐えてきた。だが、病状はどんどん酷くなる。教会員がどんどん去ってゆくのはもちろんだが、それでも相変わらず自分の教えばかりを講壇で語るのを前にして、うつむき自分の膝を叩いて涙しながら礼拝を過ごす、そんな信仰生活を続けてきた。
 
だが、ついに耐えられなくなった。教会を移った。それまで歩いて行ける場所に教会があったので、目や耳が不自由であったのもまだ大いに困るということはなかったのだが、今度は電車を乗り継いで礼拝に行かなければならなくなった。しかし、そこでの礼拝説教は、もう夢のようだ、という。心は晴れ晴れとし、喜びの日々が与えられたのだそうだ。
 
そこの牧師は若い新任に近い方であるが、非常に素朴に、福音を語る。特別に説教の名手であるわけではない。だが、そこにはあたりまえの福音があった。それが、命となったのではないかと思う。
 
牧師という立場にいる人は、誰もが同じような福音理解をしているわけではない。だが、自身がいうなれば悪霊に支配されているようにしか見えない状態であるとなると、誰かにそれを追い出してもらわねばなるまい。悪霊などというと、それは医学を知らなかった時代の迷信だ、と決めつける神学者もいるが、それほど医学が何もかも解明しているわけではない。
 
中井久夫先生は、その医学の立場からではあるが、悪霊などとは呼ばず、精神疾患について数々の研究と実践を重ね、貢献してきた。その故郷特有の精神的な背景を調べ、新興宗教の背景に潜む精神疾患についても考察している。こうした方が、牧師という立場の人間の心について、どうケアすればよいのか、アドバイスしてくれていたら良かった。そうでないと、多くの教会が死んでゆく。ただでさえ、人数からすれば、消え去る教会がどんどん現れることが必定となっている中で、別の意味で死滅しようとしている教会があることは確かである。
 
あるいは、簡単に言う人がいる。牧師の心は、神さまがケアしてくださるのだから、信仰をもてばよいのです、などと。傍観者が、他人事で、そんなことを言う。それ自体が、病に巻き込む者の企みであるように思えてならない。語る者が病んでしまうと、聴く側も病んでゆく。救いのない説教ばかり聴く会衆の信仰がどうなるか、想像すると恐ろしい。その罠から助かる道が、いま困難を覚え悩んでいる人々に、与えられるようにと、まずは祈るしかない。
 
なお、牧師を精神病者呼ばわりするとは何たることか、とお怒りの方がいるかもしれない。しかし、宗教者たるもの、須く尋常ならざるものを見聞きする者であり、精神的に問題を抱えているということは、何も不思議なことではない。パウロもそうだが、イエスは何度も、あれは悪霊に取り憑かれている、と後ろ指を指されている。宗教者はそういうふうに見られても当然の場合があるのだ。
 
さらに言えば、精神病というものをどのように定義するにせよ、その要素を抱えていない人間が、果たしているものかどうか、疑わしい。そもそも私の救いの中のひとつの要素として、それがあったことは、すでにご存じの方もいるはずである。私自身がその頭である、とまで言うと傲慢だろうが、当事者意識の中から語っているのは事実である。
 
だからというわけではないが、自分は正常だ、と言い張る人こそが、重篤な状態にあると言えるのかもしれないのではなかろうか。意図的に差別をするためにその呼称を用いるというのは言語道断だが、ここで言及しているのは、聖書を説くという範疇から外れていると思しき例である。
 
それなりに研究の形式をとり、一定の事実を報告することそのものには、意味がある。だが、その途中から自分の感情や思い込みのような意見を、事実と詐称し始めると、周りに悪影響を与えるという意味で、範疇から外れる場合に数え入れられるようになるかもしれない。但し、それはただの誤謬という範囲に落ち着く可能性もある。もっと拙いのは、何ら根拠というものがないのに、ひたすら自分の思い込みを聖書に被せて、聖書はこのようである、とばかり主張し始めることである。多くの場合、こういうのを「妄想」と呼んで、人々は別枠に置くであろう。私が例に挙げたのは、この例なのである。

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