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説教と礼拝

たしかに、「説教」という語を聞くと、日本人なら普通十人が十人、叱られる情景を頭に浮かべ、「お説教」を思い描くだろう。しかも、あまりまともに聞くべきものではない、というニュアンスがそこには漂うことと思う。
 
キリスト教会で「説教」があるよ、などと告げると、その瞬間に伝道が終わってしまうかもしれない。信徒にとっては、大切な「説教」。あるいは教団によっては、「宣教」の方を好む場合もある。「説教」は教えを説くこと、「宣教」は教えを宣べること。後者は、「宣教師」という言葉が一般的であるだけに、前者のような誤解は少ないかもしれない。どちらも、それなりに聖書の勧めるものを表しているには違いない。
 
「説教」という言葉の中に、福音があること、命があること、これらをキリスト教会は、知らせていないのかもしれない。知らせようとしなかった、とも言える。その証拠に、齋藤孝さんという、教育方面からではあるが、日本語に非常に関心のある専門家が、キリスト教における「説教」という言葉を知らないことを先日知った。
 
NHKラジオ(R2)の「アナウンサー百年百話」を聴いていたときのことだ。番組では、初代アナウンサーの一人、大羽仙外さんが取り上げられていた。当時考えられなかった「アドリブ」で話ができた人だ、というように紹介されたが、その話の巧さは、元、教会の牧師だったからだ、という説明があった(興味をもたれた方は、この大羽さんについて、いろいろお調べになるとよろしいかと思う)。この番組はアナウンサーに加えて、齋藤孝さんが出演していた。齋藤孝さんは、それに対してこんな反応を零したのだ。
 
牧師って、「講話」みたいなの、しますよね、と。
 
「説教」という言葉を大切にし、そのためにいわば命懸けで働いてきた人に、加藤常昭先生がある。この方についてはこれまでもしばしば触れてきたので、いまここで詳しくは述べない。キリスト新聞社は、その訃報を直ちに伝えたほか、翌朝には、長い特集記事をウェブに公開していた。日本の説教のために尽くした働きを考えれば、ある意味で当然の対応だったかと思う。もちろん、「キリスト新聞」では、加藤常昭先生を迎えての仕事もあったわけだから、その迅速さも、何も特別に優れていたのではない、という前提は認めよう。
 
だが、同じようにキリスト教系の大きな新聞社である「クリスチャン新聞」「のほうでの対応は、全く異なるものだった。その一週間が過ぎて、ようやく、亡くなったという知らせを報じただけだった。しかも、ごくごく短い記事に、多少の業績は挙げたが、平凡などこぞの牧師が亡くなった、という程度の簡潔さで挙げただけだった。
 
確かに、クリスチャン新聞という、いわば福音派の側からすれば、よそ事であるかもしれない。ただ、加藤先生の説教塾の紀要では、その前に「日本の福音派の説教者に学ぶ」という特集を組んでいた。特に自由主義神学の立場からは、福音派などキリスト教ではない、というような目で見下している場合もあるが、全くそのような気配を感じさせない、リスペクト満載の特集であった。だが、クリスチャン新聞の、加藤常昭への関心は、実に薄かった。それは同時に、「説教」というものに対する無関心を意味しているものとして、私の目には映った。
 
「説教とは何か」についていま論じようとしているのではない。だが、礼拝の中で20~30分も聖書を話題にして話せば全て「説教」だと考え違いをしている人は、少なくないことを残念に思う。むしろそういうものに慣れてしまうと、その教会や教団では、「説教」というものについて、間違った思い込みをしてしまっている可能性すらある。インスタントコーヒーしか知らないでいると、それがコーヒーの全てだと思い込み、豆を挽いてドリップで淹れたコーヒーの味を知らないでいるようなものである。
 
そうした思い込みの中で、経験上幾度か出会った、二つの型を挙げてみようかと思う。ひとつは、私が「聖書講演会」と呼ぶものだ。度々記しているので、いまはくどくは説明はしない。「お勉強」したことをそれらしくまとめたつもりで話すが、経験のないことをいくら話しても、実感を伴わないという様子だ。だからその人の話には、救いの喜びというものが微塵も出てこないことになる。救いを知る人からすれば、どうして毎週そんなことを聞かされなければならないか、苦痛であろう。プロ野球の選手を相手に、野球をしたことがない者が、野球について調べたことを教えているような図式である。これを毎週できる神経が理解できないが、当人は自分が野球をやっているような気持ちになっているのだろうから、その奇妙さすら自覚することができない。
 
もうひとつは、「聖書研究発表会」と呼んでよいかと思う。こちらはたいそうな知識がある。聖書について研究したことを語る。もちろん学会の発表ではないから、話し方や内容を加減しているつもりだ。だが、会堂にいるのは学者たちではないのだから、使われる言葉をいくら説明されても、基本概念を知らないなら、主張する学説が届くことはないだろう。しかも、通常の聖書理解とは違う変化球を投げられることが多いため、少々聖書を読んだ人も、その語る学者のよほどのファンでなければ、受け止めることは難しい。これは、礼拝の場の様子というよりも、学界の発表か、または文化センターのレクチャーであろう。
 
そこは礼拝の場である。この二つの前者からは、神からのメッセージが聞かれるわけではない。人間のお勉強のレポートである。そこから神を礼拝する、というのは、基本的に無理である。後者からも、聞こえるのは人間の研究発表であるから、聞く人が神を礼拝する、という場を形成している、と捉えるのは難しいだろう。
 
そのタイプのある牧師は、礼拝の賛美のときに、起立しないことが殆どだった。手許の資料を見ている。どうやら、歌われる賛美歌がお好きでないらしい。神を賛美しましょう、と歌っている中で、顔を上げもせず、自分の作業をしている。音楽的についていけず、歌えない、というわけではないように思われる。音楽的に嫌いだから歌わないなら、それは個人的な問題ではあるが、起立しないということは、神を賛美するためにこの礼拝の場にいる、ということではないことを周囲にも示していることになるだろう。
 
思い起こすのは、「君が代」問題である。高校で、君が代のときに起立しなかった教師には、厳罰が下ることになった。起立していれば、声を出していなくても、そこまでは罰されなかったことだろう。どうして起立しないのか。「君が代」を「賛美」できなかったからである。そこで賛美されている対象というものの前にひれ伏すつもりがないからだ。
 
教会で賛美のプログラムを、歌わないならそれはそれで個人の問題だが、起立しないというのは、凡そ礼拝のためにそこに来ているのではない、ということのほか、考えられないのだが、どうだろうか。その上で、人間的な話を「説教」の名で語るとなると、これはその語る者を礼拝しろ、とでもいわんばかりの営みではないのだろうか。
 
などと言うと、偶々そんなことがあったくらいで、大袈裟に言うなよ、との非難を受けそうだが、残念ながら、これは「偶々」ではない。「毎度」のことなのであるから、例に挙げたのである。
 
もちろん、「説教」というものに対する温度差はいろいろあるだろう。儀式に重きをおく礼拝があってもいいし、歌う礼拝と呼ばれている教派もある。一定の型における説教というものがすべてである、などというつもりはない。だが、説教は神の言葉を語る、神からの言葉が宣べられる、という意味合いから外れることはないのではないだろうか。違うのは、その長さや位置づけ、そのスタイルなどであって、説教そのものは、凡そ初期の教会から、教父時代の説教もいくらか遺されて伝わっているのだから、キリスト教会でずっと受け継がれてきたものである。これに一定の価値を見出すことは、不自然ではないと言ってよいのではないか。
 
果たして日本語の「説教」という呼び名が相応しいのかどうか、その辺りも検討の価値があるかもしれないが、神からの言葉を語るという方向性がそこから崩されてはならない、と私は考える。聖書的根拠と言われてもいまとやかく言えないが、随所でそれは見出されるのは間違いない。信仰者の信仰は、外から来る、という基本構図があるとするなら、説教は、その外から来る言葉の代表的なものとなるだろう。まして、それが語られ、それを受ける場が、神を礼拝する場である、という一点については、信仰者たるものは背を向けることはできないだろう。
 
命の言葉を語る説教者は、切ればそこから血を噴き出すような説教を語りたいと願い、そのために毎週格闘している。否、神と豊かな交わりをしている。そのような説教者に、祝福があるように祈る。それを聞く人々に、命が届けられていることを、心から喜んでいる。

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