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「すずめの戸締まり」と「火の鳥」

「すずめの戸締まり」がテレビ放映された。地上波で初放送だった。「君の名は。」のヒットから、「天気の子」も、夫婦で映画館でまず観た。それまで地味な活動を続けていた新海誠監督は、これらの作品でメジャーになり、アニメ界でトップクラスの地位に就くこととなる。
 
いずれも、災害がモチーフになっている。その災害に向き合う方法の主軸として、神道色の強い作品である。神楽が重要な意味をもったり、稲荷神社や気象神社が能力の基盤であったりした。そして要石が地震を鎮めるとか、祓詞や常世とか、神道以外の何ものでもない。多神教を前提にしており、監督自身、あの「ダイジン」という白い猫のことも、はっきりと「神様」だと呼んでいる。
 
ちょうどその放送の日は私の春休みの日で、昼に、Amazon Prime Video (アマプラ)で「火の鳥」のアニメを見ていた。「火の鳥」は、以前もご紹介したことがあったが、私の人生を大いに変えた物語である。幼い頃、親戚の家にあったその単行本を、行く度に繰り返し読んだ。
 
大人になってからようやく文庫本で揃えたが、そのとき、太陽編やギリシア・ローマ編を初めて見たのだった。ギリシア・ローマ編は実は初期のものなので、まあよいのだが、太陽編は手塚治虫の晩年のものであり、見逃していたのはある意味で仕方がなかった。
 
アマプラでその日観ていたのは、その太陽編であった。狼の皮を被せられる主人公という設定も突飛だが、手塚治虫は、これを日本の古代史の中にしっかりと嵌めこんだ。
 
「火の鳥」は、ご存じの通り、遠い過去から何億年という未来にわたり、人間と生命を描く、これ以上ありえないほどの壮大なドラマである。火の鳥が主役ではあるが、事実登場しない「編」もある。2004年にテレビアニメされたシリーズは、構成を単純にしたりキャラクターを制限したりしているが、原作を十分リスペクトして制作されており、それはそれで安心して観ていられる。ただこうしてみると、アニメにできないほどに複雑に事情を絡ませ、一つひとつに意味をもたらせる手塚治虫という人は、やはりものすごい人だということがよく分かる。
 
太陽編の舞台は日本だが、政治的には大海人皇子を描く。例の如く猿田彦も登場するが、犬上(クチイヌ)と共に、大海人皇子の部下として闘い抜く。大友皇子側は新たな神々としての仏教の力を推すが、二人の説得により、大海人皇子は日本古来の神々を護る立場をとる。マンガとして超能力的なシーンが展開するが、このとき、実は宗教論が展開する。
 
永遠の生命(コスモゾーン)を象徴する火の鳥は、この新宗教としての仏教と古代神道との争いを、ただ傍観する。力を貸してくれ、と頼む犬上に対しても、安易に味方をとるようなことはしない。そして、犬上に、教える。
 
「そう 人間というのは 何百年何千年 たっても どこかで いつも 宗教のむごいあらそいをおこすんです きりが ないのです とめようが ありません」
「宗教とか 人の信仰って みんな人間が つくったもの そして どれも 正しいの ですから 正しいものどうしの あらそいは とめようがないでしょ」
「わるいのは 宗教が 権力と むすばれた時だけです 権力に 使われた 宗教は 残忍な ものですわ」
「人間の権力は… 人間自身の手で なくすもの…… だから 私は 見ているだけ」
 
手塚治虫の見解がここにあるのだろうと思われる。それをどう捉えるか、それは読者次第である。私たちの側の責任である。そんなに単純に言えるのかどうか、という批判も当然あるだろうし、手塚の見解そのものの背後に、何らかの前提があることを指摘する人もいるだろうと思う。

原作では、この太陽編は、2009年の宇宙時代と、夢または転生のようなものを通じてつながりをもつことになるが、アニメの方では、それを描かず、一筋の分かりやすい展開とまとめで落ち着かせている。一種の予定調和を見せているが、それは手塚の原作とは全く違うと言うべきであろう。アニメだけをご覧の方は、ぜひ原作のほうを観て戴きたい。全く違う印象が与えられるだろうと思う。
 
新海誠監督の作品は、神道思想に若い力が加わることで、災害と文明の問題がなんとか解決されてしまう。宗教的なものが、安易に科学的な問題と差し向かいになり、若い二人の恋愛感情の中で幸福な結果に流れていく。映画であるから、それはそれでカタルシスを与えるものかと思う。商業的にはそれで何も問題はない。
 
それに対して、手塚治虫は、晩年まで、読者に挑戦していた。宗教や信仰が、互いに破壊し合い、殺し合うものであるという残忍な面から、目を背けない。そして、問題が解決するというよりも、人を問いの中に押し込むことが多い。これだと、商業的にはやっていられなかったことだろう。
 
どちらが良いとか悪いとかいうのではない。信仰を現にもつ方は、どちらをも知るべきであろう、ということくらいしか、私は提言できない。そう、どちらをも知るべきなのである。

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