たかぱん

お読みくださり、まことにありがとうございます。プロテスタントのキリスト者・父・塾教師・…

たかぱん

お読みくださり、まことにありがとうございます。プロテスタントのキリスト者・父・塾教師・偏向的な本好きとして、生き生きと歩むことができるような言葉を聖書から誰かに提供できたら、と願っています。書くことに力を注いでおりますが、ここから何かを拾ってくださればなによりです。

マガジン

  • レスポンス

    礼拝説教は、神の言葉。いのちある説教に対しては、それを受けていまここでおまえはどうするのだ、という問いかけがあります。何らかの形で、それへの応答を、祈りのように告げることが必要だと考えました。

  • 表メッセージ

    もう裏だなんて思わない。堂々と、幸せのニュースをお伝えします。日曜日の礼拝ごとに、一週間の生きる力を、人生を変える力を、神の言葉がもっていると確信していますから、それを指し示す取り次ぎをお手伝いします。

  • こころ

    ひとのこころ、見つめてみます。自分のこころから、誰かのこころへ。こころからこころへ伝わるものがあり、こころにあるものが、その人をつくり、世界をつくる。そんな素朴な思いに胸を躍らせながら。

  • 教会の問題

    キリスト教会はとても居心地のよいところです。でも、満点を期待してはいけないでしょう。たくさんの問題を抱えています。とくに内側にいると見えないものを、なんとか見ようとするひねた者が、少しくらいいてもよいのではないか、と……。

  • ショートメッセージ

    聖書から日々黙想をしている中で、短いひとまとまりのメッセージを書き留めています。それをおすそわけします。ご面倒ですが、聖書箇所について聖書を開くか、検索してくださると、いっそう身近に感じられるとお薦めいたします。

記事一覧

来たれ聖霊よ

ペンテコステ礼拝である。教会の三大祝祭日の一つとされている。弟子たちに聖霊が降臨したことを記念する。が、後から身近な教会の説教題などをちらちら見てみたが、真っ向…

たかぱん
1時間前
2

力を受けて (使徒1:5-8, エゼキエル2:1-8)

◆ペンテコステ?   教会の暦では、「ペンテコステ」礼拝となります。「ペンテコステ」とは何だ? 実は、キリスト教の三大祝祭の一つなのです。訝しく思われても仕方がな…

たかぱん
14時間前
2

心を病む牧師

牧師自身の心は、誰が世話をするのだろうか。   プロテスタント教会では、牧師という。礼拝説教を担う。教会員の魂の配慮を司る。教会を訪ねる人を迎える。中には、心を病…

たかぱん
16時間前
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人からではなく、神から

ガラテヤ1:11-17    パウロは、人間から、人間の福音を受けたのではありませんでした。これだけでも、かなり特殊なことであったことでしょう。人の口が伝えるままに、伝…

たかぱん
1日前
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『音楽とは何か』(田村和紀夫・講談社新書メチエ521)

タイトルが、恰も哲学の問いのようである。スケールが大きいものか、という期待を抱かせるものだが、必ずしもそうではない。サブタイトルに「ミューズの扉を開く七つの鍵」…

たかぱん
2日前
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真実な言葉の裏

テトス3:1-11    「この言葉は真実です」(8)が強く響きます。この言葉は信じられる、と言い切っています。清々しいものがあります。テトスへの手紙が、信仰者へ、特に伝…

たかぱん
3日前

免罪符

「免罪符」という言葉は、特にカトリックの方面からは、適切な語ではない、と言われるかもしれない。プロテスタント側からの悪いイメージで広まった言葉だ、と見るべきだろ…

たかぱん
4日前
1

あなたのせいで

エレミヤ20:7-13    エルサレムの災難を預言したエレミヤは、神殿の責任者たる祭司パシュフルにより、囚われてしまいます。エレミヤはそこで、主に開き直って言うのでし…

たかぱん
5日前

説教と礼拝

たしかに、「説教」という語を聞くと、日本人なら普通十人が十人、叱られる情景を頭に浮かべ、「お説教」を思い描くだろう。しかも、あまりまともに聞くべきものではない、…

たかぱん
6日前
2

目を覚ますことと祈ること

説教に「まくら」などという言葉を使うのは不適切かもしれないが、説教者により、いくつかのタイプがあるように思われる。まず人間的な挨拶から始めるタイプ。人への気遣い…

たかぱん
7日前
5

守れない戒め (出エジプト20:17, 申命記5:21)【十戒⑩】

◆家か妻か 十戒を辿る11週の旅が終わろうとしています。いよいよ最後の戒めとなりました。この第十戒を開くとき、私たちは戸惑います。出エジプト記と申命記とで、始まり…

たかぱん
7日前
2

立ち上がらせたのは幻

イザヤ6:1-8    私イザヤは、玉座の主を見ました。それは、ウジヤ王の死の年でありました。ウジヤ王は、半世紀ほどの長きに渡り、南ユダ王国を治めました。北イスラエル…

たかぱん
7日前

『宗教と子ども』(毎日新聞取材班・明石書店)

当然、と言ってもよいと思う。2022年7月8日の安倍元首相銃撃事件から、毎日新聞社に、ひとつの取材が始まった。   宗教とは何か。これを問うことも始まった。特にその狙撃…

たかぱん
8日前
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隠れた差別感

エフェソ2:11-22    「無割礼」とイスラエル人が呼ぶとき、そこには侮蔑の意がこめられていたと思います。ダビデが、ペリシテ人のことをそのように呼んだことがあります…

たかぱん
9日前

教会の問題

教会もまた、ひとつの組織である。だが、新約聖書で「教会」と訳されている語は、私たちがイメージするものとはだいぶ違うように思われる。   もちろん、建物のことではな…

たかぱん
10日前
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イザヤ書が閉じられる

イザヤ66:18-23    「私は来る」との預言を以て、大預言書イザヤ書が閉じられます。第三イザヤなどと呼ばれていますが、学説はどうでもよいのです。とにかくイザヤ書がこ…

たかぱん
11日前
来たれ聖霊よ

来たれ聖霊よ

ペンテコステ礼拝である。教会の三大祝祭日の一つとされている。弟子たちに聖霊が降臨したことを記念する。が、後から身近な教会の説教題などをちらちら見てみたが、真っ向から聖霊の話をしている教会は、あまり見かけなかった。しかしここには、ルカの描いた事件を辿ることなくして、いまここに働く聖霊の力を届ける説教があった。
 
聖霊降臨の有名な場面は、ルカと称される記者だけが記録する。しばしばそこから、ペンテコス

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力を受けて (使徒1:5-8, エゼキエル2:1-8)

力を受けて (使徒1:5-8, エゼキエル2:1-8)

◆ペンテコステ?
 
教会の暦では、「ペンテコステ」礼拝となります。「ペンテコステ」とは何だ? 実は、キリスト教の三大祝祭の一つなのです。訝しく思われても仕方がないような、知名度です。「クリスマス」は早くから日本でもおなじみになりました。大正期でしょうか、激しいブームすらあったのだとか。もちろん、宗教的な意味合いではなかったのでしょうが、良かれ悪しかれ「クリスマス」は知られるようになりました。近年

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心を病む牧師

心を病む牧師

牧師自身の心は、誰が世話をするのだろうか。
 
プロテスタント教会では、牧師という。礼拝説教を担う。教会員の魂の配慮を司る。教会を訪ねる人を迎える。中には、心を病んだ人も来る。そもそも自分の罪に気づいたからこそ、聖書や教会を求める、というのが筋だ。心の悩みをもつのは当然かもしれないし、実際精神疾患を患っている人も来るだろう。
 
だから牧師は、カウンセリングも学ぶらしい。「牧会心理学」などの名前で

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人からではなく、神から

人からではなく、神から

ガラテヤ1:11-17 
 
パウロは、人間から、人間の福音を受けたのではありませんでした。これだけでも、かなり特殊なことであったことでしょう。人の口が伝えるままに、伝聞の宗教を信じてしまうことが、世間では多いのです。人を信用することは美徳なのかもしれないのですが、殊神の事柄については、大きな誤りとなりかねず、危険が伴います。
 
パウロは、「イエス・キリストの啓示を通して」福音を受けた、と言って

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『音楽とは何か』(田村和紀夫・講談社新書メチエ521)

『音楽とは何か』(田村和紀夫・講談社新書メチエ521)

タイトルが、恰も哲学の問いのようである。スケールが大きいものか、という期待を抱かせるものだが、必ずしもそうではない。サブタイトルに「ミューズの扉を開く七つの鍵」という言葉が見える。ギリシア神話の音楽の神である。実は音楽に限らず、文芸から舞踏など、広く芸術にまつわる神の名であるが、通常音楽をメインに私たちは捉えている。だからmusicなのである。但し、ギリシア語では「ムーサ」が神の名であり、9人の娘

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真実な言葉の裏

真実な言葉の裏

テトス3:1-11 
 
「この言葉は真実です」(8)が強く響きます。この言葉は信じられる、と言い切っています。清々しいものがあります。テトスへの手紙が、信仰者へ、特に伝道者へ向けてのマニュアルのような役割を果たすとすれば、伝道をするべく立てられた専門家はもちろんのこと、信じる者すべてに、このメッセージが刻み込まれていなければなりません。
 
「これらのことを力強く主張するように願っています」とあ

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免罪符

免罪符

「免罪符」という言葉は、特にカトリックの方面からは、適切な語ではない、と言われるかもしれない。プロテスタント側からの悪いイメージで広まった言葉だ、と見るべきだろうか。しかしそう言うと、そもそも「プロテスタント」という呼称も、いわば悪口である。だからそちらに走っていくのを一度止め、「免罪符」または「贖宥状」の、本来でないかもしれないが、一般にもたれがちな理解に戻ろうと思う(宗教的な意味から離れること

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あなたのせいで

あなたのせいで

エレミヤ20:7-13 
 
エルサレムの災難を預言したエレミヤは、神殿の責任者たる祭司パシュフルにより、囚われてしまいます。エレミヤはそこで、主に開き直って言うのでした。「主よ、あなたが惑わした」のだ、とぼやきます。主のせいだ、あなたのせいで、私はこんな酷い目に遭っている。一日中笑いものだ。しかし、私は語らねばならない。主の言葉を、受けたままに。
 
主から与えられた言葉を、そのまま正直に伝える

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説教と礼拝

説教と礼拝

たしかに、「説教」という語を聞くと、日本人なら普通十人が十人、叱られる情景を頭に浮かべ、「お説教」を思い描くだろう。しかも、あまりまともに聞くべきものではない、というニュアンスがそこには漂うことと思う。
 
キリスト教会で「説教」があるよ、などと告げると、その瞬間に伝道が終わってしまうかもしれない。信徒にとっては、大切な「説教」。あるいは教団によっては、「宣教」の方を好む場合もある。「説教」は教え

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目を覚ますことと祈ること

目を覚ますことと祈ること

説教に「まくら」などという言葉を使うのは不適切かもしれないが、説教者により、いくつかのタイプがあるように思われる。まず人間的な挨拶から始めるタイプ。人への気遣いからかもしれないし、講演会ならばそれでよいかもしれない。また、いきなり何かの話題から入るが、本題とは違うところから入るタイプ。新聞のコラムに多い。そこからやがて、本筋へと繋がる脈略が生じる。落語では最もポピュラーな入口かもしれない。そして最

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守れない戒め (出エジプト20:17, 申命記5:21)【十戒⑩】

守れない戒め (出エジプト20:17, 申命記5:21)【十戒⑩】

◆家か妻か

十戒を辿る11週の旅が終わろうとしています。いよいよ最後の戒めとなりました。この第十戒を開くとき、私たちは戸惑います。出エジプト記と申命記とで、始まりから大きく違うのです。
 
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。(出エジプト20:17)
 
隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを

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立ち上がらせたのは幻

立ち上がらせたのは幻

イザヤ6:1-8 
 
私イザヤは、玉座の主を見ました。それは、ウジヤ王の死の年でありました。ウジヤ王は、半世紀ほどの長きに渡り、南ユダ王国を治めました。北イスラエル王国との関係を良くし、国を安定させたといいます。紀元前8世紀のことです。イザヤから見れば、国の繁栄よりも、人間が傲慢になってゆくことが、主の民に相応しくないように見えたようです。
 
だが、今はイザヤはまだそのことに立ち入ってはおりま

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『宗教と子ども』(毎日新聞取材班・明石書店)

『宗教と子ども』(毎日新聞取材班・明石書店)

当然、と言ってもよいと思う。2022年7月8日の安倍元首相銃撃事件から、毎日新聞社に、ひとつの取材が始まった。
 
宗教とは何か。これを問うことも始まった。特にその狙撃犯が位置しているという「宗教2世」という存在に、世間が関心をもった。次第にその眼差しは、彼らを被害者だという世論を巻き起こしてゆく。そして、子どもに宗教を教えてはいけない、というような風潮が、「無宗教」を自称する人々により、唯一の正

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隠れた差別感

隠れた差別感

エフェソ2:11-22 
 
「無割礼」とイスラエル人が呼ぶとき、そこには侮蔑の意がこめられていたと思います。ダビデが、ペリシテ人のことをそのように呼んだことがあります。今、この書でエフェソの教会の人々に、この言葉が向けられています。軽蔑の意が隠れているのかどうか、分かりません。でも、この箇所には、根深い差別感覚が含まれているような気がします。
 
イスラエルの優越は、神との契約に基づくと思われま

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教会の問題

教会の問題

教会もまた、ひとつの組織である。だが、新約聖書で「教会」と訳されている語は、私たちがイメージするものとはだいぶ違うように思われる。
 
もちろん、建物のことではない。これは教会の説教でもあり、鉄板の説明である。また、「共同体」であるとか、「信じる人々」のことであるとか、いろいろ注釈が加えられるのも、よくあることである。「呼び集められたもの」という、語源的な説明も、常識的である。そうして「一つ」にな

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イザヤ書が閉じられる

イザヤ書が閉じられる

イザヤ66:18-23 
 
「私は来る」との預言を以て、大預言書イザヤ書が閉じられます。第三イザヤなどと呼ばれていますが、学説はどうでもよいのです。とにかくイザヤ書がこれで終わるのです。世界中の人々が集められます。神は、人間の行いと考えをご存じです。相応しい人々がそこに集められます。人々は神の栄光を見ます。神はそこにしるしを置くといいます。
 
誰の目にも、それは明らかになるのです。生き残った者

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