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【無料】あと298日(たぶん):「イラスト×落語」

4月30日
 ここのところは、5月6日の吉笑祭に向けてネタを練っている。CD収録の「昼の部」は、当たり前だけど演り慣れた得意ネタをやることになるから、ふわっと口になじませるくらいでいい。あとは本番、楽しんでやれたらと思う。一言一句きっちり喋るタイプの落語家じゃないから、むしろいつも通りその場の空気に身を委ねて、これまで言ったことがないようなその場で紡ぐセリフ回しが出てきてもいいかなとすら思っている。とにかく楽しんで今の自分の高座の空気をCDにパッケージできれば。たっぷり6席やる予定で、体力面だけ心配。

 一転して、夜の部はこれまでになかったことをやる会だから未知数すぎて楽しみでもあり、もちろん不安もあり、という感じ。「イラスト×落語」について考え始めたのはいつ頃だったか。二ツ目になってすぐの頃に、DVDを出す企画からお声がけ頂いた時に「どうして映像で見る落語は退屈に思えるのか」ということについて考えたのだった。
 ラジオの時代は落語家がメディアの中心にいた。それは音声コンテンツとしては、落語が持つ情報量は他の表現に比べてとても大きかったから。それがテレビの時代になると、発信できる情報量が増えた一方で、落語の持つ情報量だとどうしても動きの画変わりが少ないから情報量が少なくスカスカになる。それが退屈さに繋がる。一方で視覚情報の多い漫才やコントがメディアの中心に取って代わることとなった。
 そこから娯楽が増え、可処分時間が減り、全体的に短尺化の流れが進むのは必然で、そうなると更に落語の活躍の場は失わられ、、、というのはまた別の話。
 とにかく、映像にした時に発信する情報量が少ないことが退屈に映ってしまうのであれば、逆転の発想で映像で落語をやるときは「何か他の要素で情報量を補えば良いではないか?」。その活路をイラスト×落語に見出したわけだ。

 そのとき、ただビジュアル素材を足してもそれは落語の持つ「省略の美学」と相反することになりがちだから、そうならないようにイラストを用いつつ落語らしさを担保する方法について考え始めることになる。その思索の道をいまだに歩んでいて、今回はようやくそこへのひとまずの回答を示すことができるのだと思う。

 そんなわけで、どういうイラストの使い方をすれば落語らしさを保てるかということをずっと考えている。ただその前に、イラストが持つ面白さのパンチ力は強力で、単純にとても面白いものが出来上がってきていることは間違いない。

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