見出し画像

自分の気持ち悪さ、変なところ、嫌われるところこそ積極的に愛していこう!

自分のこんなところが気持ち悪い。

こんなところが好きになれない。

こんなところが人から理解されなくて悲しい。

そんな、自分の中の【変わり者の部分】【はみ出しちゃう部分】【変で気持ち悪い部分】【誰からも理解されなさそうな部分】【人から嫌われちゃいそうな部分】

こそ、積極的に愛していこう。

自己嫌悪って、嫌な感覚だよね。

なにか外側に嫌なことがあるよりも、
わたしは、自分の中に嫌なものがある方が耐え難い。


そして、自分でも嫌っているその部分を、人からも疎ましく思われたんじゃないかと思うと、それもとてもつらい。


自分でも嫌っているその部分を、他人には認めてほしい、なんて、無理な話だと思う。


わたしは、自分のこんな部分が大嫌いなんです。だからわたしの代わりに分かってください。認めてください。愛してください。なんて、自分がされたらどうでしょう?

でも逆に、誰からも愛してもらえなそうなその部分を、積極的に愛していったら?


自分で、分かってあげて、認めてあげて、愛してあげたら?


それは、自分だけじゃなく、必ず誰かの希望になる。

同じものを持った、誰かの勇気になる。


だからわたしは、自分の気持ち悪くて認められない部分こそ、積極的に愛していきたいと思った。


そう思ったとき、芯が、他人からまっすぐ自分に戻ってきて、最近ずっと感じていた心細さが、不思議と無くなっているのを感じた。


誰に認めてもらったって、それは、その人の認める器が大きいだけ。


人に左右される自分の存在って、なんなんだろう?

自分の嫌な部分は、自分で、徹底的に見ていく。

真正面から見て、知って、少しずつでも、分かって認めて、好きになっていく。


他人になんて、任せないで、自分が、愛してあげる。


そうしたら、誰からも分かってもらえない。
一人ぼっちだ。

って思ってたことも、

たくさんの仲間がいたことを知る。

同じ想い、同じ苦しさ、同じ葛藤を抱えていた仲間がいたことを知る。


そのとき、本当の意味で、自分のことも、他人のことも愛することができるんじゃないかな?と思った。

キレイな部分、人から認められそうな部分、
人と同じ部分を認めたり、愛したりするのは簡単だけど、

受け入れがたい部分こそ、誰かが愛してあげようよ。と思う。


少数派だろうが、歪だろうが、正しくないとされていることだろうが、

自分の中にあるものを毛嫌いしないで、
愛し抜く覚悟をすることが、自分として生まれた意味だと思う。


醜いと思ってる部分を、いけないと思っている部分を、キレイなものに、受け入れやすいものに変えていくのもいいかもしれない。

だけど、それもちょっとつまらないなと思う。

物事、に価値があるんじゃなくて、

価値を見出すから価値が生まれる、みたいな。


ちなみに、わたしの受け入れがたい部分は、

鬱陶しいこと!笑

くよくよ、じくじく悩んだり、
かまってちゃんだったり、人が好きで、
寂しがり屋で、理屈より感覚が大事。
こどもっぽい。

結構めんどくさくて鬱陶しい人間だと思うけど、そんな自分を楽しんでいこうと思う。

そんな自分を、嫌われたかどうかに目を向けるより、自分でどれくらい嫌っているのか、受け入れているのかに目を向けていこうと思う。

さて。どう変わるかな?

最近なんだか軸が自分になくて、noteの文章も弱々しくて書けなくて、仕事での人間関係にうまく馴染めなくて悩んだりいろいろしてたけど、

自分を見つめて、自分の足で歩いている人を見て、とても勇気をもらった。

わたしも、そんなふうに、誰かに認めてもらえることより、誰かの勇気になれるような自分でいたいなと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?