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何年後かの自分へ。

突然、親友が彼氏と別れた。ラインで落ち込んでいるような文面が送られてきて、心配になった。

その親友とは、いつもお互いの恋愛話を赤裸々に語り合ってきた。人を好きになったときの感情。好きになった相手に裏切られたときの辛さと、それでも好きというどうしょうもない気持ち。
そんな言葉に言い表すのが結構難しい事でも彼女とは話しが出来たし、お互いに分かり合えるだろうという確信のような気持ちがあったからこそ、何でも話せていたと思う。

お互い今まで色んな経験をしてきたけど、それぞれの恋愛を否定することは一切せず、落ち込んでいるときは話を飽きるまで聞いて、元気になりたい時は二人でカラオケオールしてはしゃいだり。

私の三年間の沼のことだって、否定をせずに寄り添って話を聞いてくれた。
私は誰かを好きになった時、分かりやすいくらにその人の話題ばかりになる。自分の見つけたささいな相手への好きを、第三者に伝えたくて、たまらない気持ちになってしまう。特に彼女には、伝わるという確信があるからこそ色んな話をしてきたと思う。

私が楽しそうに話す彼の話を、私と一緒くらいの熱量で嬉しそうにきいてくれていた彼女のことが、私はとても大好きだ。
お互いの好きとか楽しいとか、辛いも苦しいも、今まで自分のことのように共有し合ってきたのだ。


そんな彼女が突然、彼氏と別れた。
理由は会ってから話すね、言われた。
今まで彼と色々あった話は聞いていたけど、彼女が彼のことを大好きなことは知っていた。

だけど、私の知らないところで、彼女も限界を迎えてしまったのだろうか。
そんな風に想像を膨らませると、やるせない気持ちになった。
なんで、傷つくのは、いつも好きになった方なのだろう、と。



彼女の話は、こうだった。

彼がいつか夢のために海外に行く。このことは付き合うとなった時から分かっていたことだったけど、お互いあまり触れずにここまできた。
最近、周りの結婚、出産が多い中で、色々な話を聞く。結婚して子供が欲しくても、思うように授からず、不妊治療に踏み切る友人も周りにいる。

自分は将来子供を欲しいと思うけど、彼が日本から離れて、帰ってくるのを待つとなると、結婚自体が何年後になるのかはっきりしない。
自分の今の年齢を考えると、彼を待てないと思った。だから、彼とは今でも好き同士だけど、別れないといけない、という決断になった。


正直、とても衝撃だった。

彼女がそのような理由で人と別れるなんて。

今まで、恋愛や結婚に対して、彼女は自分と一番近しい思考を持っていると思い込んでいた。
周りが結婚願望が強くなっていく中で、先のことが未だぼんやりとしていて、今の好きや自分の幸せを追い求めているのが、うちらだと思っていた。

そんな風に思っていた彼女は、私が思っている以上の速さで前に進んでいたのだ。

ああ、そうか。私たちってもう、そういう年齢だったか。
改めてそう思った。

そして私は、彼女の選択に対して、すごいなぁ。と思うしかなかった。

自分ならその選択はきっとできないだろう。相手への好きが続く限り、将来のことから目を瞑り続けてしまう。目を見開いて、相手と向き合う強さが、今の私にはまだないだろうな、と思った。


彼女は強かった。いや、強くなったのだ。
自分の足で着実に前に進もうとする強さを得たのだ。
今は辛いけれど、何年か経って、今の選択をした自分にスタンディングオベーションをしたくなる日が来ると思う。いや、絶対に来るはずだ。

親友として、来てほしいと思う。


進みたい道が見えない27歳の自分

さて、自分はどうだ。沼から這い上がった私は、今何に向かって進んでいるんだろう。何を得たいのだろう。

子供が欲しい。家庭を築きたい。安心できるパートナーと穏やかな老後を過ごしたい。
皆、自分の将来のなりたい姿を想像して、前に進もうとしている。
私はどの道へ進もうとしているんだ?

自分に問う。

周りが結婚するたび、親と話すたび、今まで何度も何度も問うことをしてきた。でも、分からなかった。何度考えても、得たいものが明確になることは無かった。だから進む道も見えなかった。

なぜか?

自分の今までの人生は、自分でいうのもあれだが、ある程度成功な方だと思っている。

まず、進学に関しても、就職に関しても、失敗が無い。この学校に行きたい、看護師になりたい。思い描いた姿に確実になってきたし、そうなれるという自信が、いつもあったのだ。

小さい頃から親にとても大切に育てられた。
厳しくは無かったが、その時その時のすべきことをちゃんとすること、頑張ることは、当たり前だ。という価値観の中で育った。
だから、勉学に励むこと、目の前のことを全力で頑張ることが当たり前だと思っていたし、それに対する苦痛は無かった。
そして、周りから評価されること、親が喜ぶことが何より嬉しかった。

それが、私の芯の強さと、自信に繋がったのだと思う。その部分は親に感謝している。

でも。

私は確実に傷を増やしすぎたんだと思う。
恋愛において。

そして、その傷の治し方が分からないまま突き進んできたのだ。ここまで。

苦痛を感じずに親の期待に応えてきた私は、もちろん親が喜ばない話は親にしないし、隠し通す。

この傷の治し方が、ずっとずっと、分からないままなのだ。

んー、なんだかとても干渉に浸っている感じがして、いやだけれど、表現の仕方が見当たらない。

悲しみも、苦しみも、楽しさも幸せな気持ちも。人それぞれ閾値があって、感じ方が異なる。その対処法だって。

私は傷への感じ方が、人よりも敏感なのだと思う。考えすぎてしまう。
それは私の個性だ。悪いとは思ってないけれど。


でも、思ってしまう。

将来、自分の生んだ子供が、そんな思いをしたらどうしよう。

そして、その時に、私は親として何もしてあげられないかもしれない。
そう思ってしまうのだ。


目の前のことを頑張ること、そしたら結果が付いてきて、きっと達成感を得られること。人との関わりの楽しさ。そんなことは、小さい時にきっとたくさん教えてあげられるだろう。
将来困らないように、職業を何となく誘導することだって、良い事なのかは不明だが、親としてできるかもしれない。
また、守ってあげられることからは、何があっても守るだろう。

しかし、その子が大人になってから何かに傷つけられた辛さからの乗り越え方は、教えられないのかも。と私は思ってしまう。

私が、親に話さないと同じように、自分の子も親である私に話さないかもしれないし、
話してくれたとしても、その傷を負ったのは私じゃない。その子なのだ。
変わってあげたくても、変わってあげられない。


私がその傷はこうしたらきっと癒えるよ。なんて言ったとしても、
この子はきっと乗り越えられる。なんて親として思い込んだとしても、


その子にとっては、乗り越えられない傷になってしまうかもしれない。

そしたら、自分の手から離れたその子を、親として守ることが難しいのかもしれない。
その子の傷が癒えることを、願うしかないのかもしれない。

そう思う私は、「子供が欲しい」と、簡単に言えないのだ。
だからこそ、進むべき道が分からない。


何年後かの自分へ

今は、こんなことを考えている、いや確実に考えすぎている自分だが、ふと急に子供が欲しくなるのだろうか。
今まで書いた不安がどうでもよくなるくらい、親になりたくなるのだろうか。

分からない。
周りが皆親になって、変わっていって。

いざ、自分も親になりたい!
そう思ったときの私は、何歳なのだろうか。

その時に、今まで前に進もうとできなかった、道を選べなかった自分に後悔するのだろうか。時間は戻せない、と嘆くのだろうか。

そんな何年後かの自分へ。

早く決断ができなくてごめんね。
でも、今はそれなりに楽しいし、目の前のこととちゃんと向き合って、考えているつもりだよ。
ちょっとずつだけど、きっと前に進んでいるんだと思いたいよ。

これからも、きっとそうだよね。

きっと、どの道を選んだって、私は私で、その選択は間違っていない。
そう、何年たっても思いたい。



今日はこの辺で終わります。













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