見出し画像

まとまりないけど、最近感じること。

前回、タイトルについてあんなふうに言っていたのに、今回はどうしても良いタイトルが思いつかなかった。
これだ。という一言が思いつかない。
まあ、よかろう。

久しぶりになってしまった。 最近忙しかったのと、色々あって書く気力が起きなかった。そんな時だってあるよね。
少し元気になったので、自分のために、また気楽に書こうと思う。


最近感じていることを書く。

私は生活をしていて、生き辛さを感じているのは多々なのだけど、それを感じる度に、きっとそれは私だけじゃないのだと、思う。
正確には、思うようにしている。
ささいなことで傷ついたり、考えすぎたり。私は人よりも敏感なのは確かかもしれない。でも、人は皆それぞれ、多かれ少なかれ、深かれ浅かれ、傷を感じて、抱えながら、生きているのだ。

でも、大人になると、傷を隠すのが上手くなる。誰から教えられたわけでもない。

なぜだろう。

傷を隠して生きた方が楽だと気付くからなのか。
きっと皆相手のちょっとした発言とか行動とか、小さい部分で傷ついたりしていて、でもそんなんにいちいち反応していたら、きりがないから…っていうのもある気がする。
傷を隠すことに上手くなり、傷を抱えることに慣れてしまうのが大人なのか。

それが、大人っていうのか。


小さい頃は、こけたら泣くし、自分の納得がいかないことがあれば泣く。
それに対応してくれる親が近くにいた。

成長するにつれ、自分の思い通りにならない世の中に段々と気付いていく。
良くも悪くも、その世の中に慣れていく。

慣れて、ちょっとの違和感や傷には耐えられるようになって、泣かなくなって。気付いたら耐えているのに慣れて、傷に鈍くなる。感じにくくなる。
そんなときに、自分の傷をおっぴろげに晒して、辛いと叫んで、感情的に生きている人のことを、
世間が、周りが、そして気付いたら自分も、
ちょっと大丈夫かなこの人。ださいな。
なんて思ってしまうのだ。

そんな世の中だから、素直に叫べる人は少ない。
我慢して、我慢して、、
気付いたら自分の持っている容器から、水が溢れてしまっている。


覆水盆に返らず。

そんなの、だれ一人だってなってほしくない。なるべきじゃない。絶対に。


だからと言って無理に感情的になれ、とは思わない。
けど、自分にだけは素直でいたい。
他人からしたらどうでもいいことなのかもしれないけど、私はこんなことにも傷ついた。その事実は自分だけが知っている。それでいいんじゃないか。

傷を感じることに慣れたり、慣れすぎて感じなくなることが、
自分自身が気付かなくなって、気付いた時には、もう遅い。なんてことが一番怖いのだ。


私の話だが、(急に)割と小さいときから、人に相談をすることが苦手だった。
理由を考えると、ちょっと自分って冷めた人間だなと思うのだが、
自分の悩みなんて、他人は興味ないだろうと思っていたからだ。

言葉を選ばず言うと、
自分のこの傷は他人に分かってもらえないだろうし、分かってもらおうなんて最初から思ってない。みたいな感じ。だいぶ前から、勝手に悟りを開いていた。
なんて孤独な考え方なんだと、今は思う。

自分の傷を、他の人に分かってもらってたまるか。といった強烈に頑固な部分も感じる。自分は皆に分かってもらえる主人公にはなれないと思っている反面、十分に自己中な主人公的考えを長年していたのだ。

今は、少し変わってきた。

傷を面白おかしく人に話すとことか、ここは意見されたくないってことは話さないとことか、根本は変わっていないんだと思うけれど、

少人数ではあるが、自分の傷を見せることが怖くない人達が、いる。
自分のことのように聞いてくれる人が、いる。

だから、私は生きていける。一人じゃない。
そう思える。

だから、私は覆水盆に返らず。の状態にはなっていないくて。
間違いなく周りのおかげなのだ。思いとどまれるのだ。


どんな人にも、味方だと思える相手が一人でもいたらいいなぁと私は思う。そして、私も誰かのそんな相手になれてたらいいなぁといつも思う。

みんなが思い合って、完璧には理解できないにしても、分かろうとして。
自分の手が届く範囲内の人を大切にすれば、皆が幸せとは言えずとも、それなりには生きていけるんじゃないかな。

なんて、自分が恵まれた環境にいるから言える綺麗ごとだとは分かっているけれど。

そういう意味での世界平和を、祈っている。

おわり。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?