最近、テントウムシをちょくちょく見かける。 まぁ、草があるところやテントウムシが餌にするアブラムシがつきやすい植物があるところだから、いても不思議ではない。 赤は目立つというのもあるかもしれない。 それでもテントウムシを見かけると、何となく良いことがありそうな気がしてしまう。 幸運の話もあるけれど、単純にちょこちょこと歩き回る小さく丸い姿は愛らしいから。 幾度となく見かけると、思うことがある。 幸運だから(あるいは幸運になるから)見つけられるのか、もしくは見つけられるから
日本には色々な発酵食品がある。 味噌、醤油、酒などを造る麹、糠漬けやすぐき漬けなど漬物、納豆、いしるやしょっつるなど魚醤。 身近にいるナニカが変化させた食品は美味しく、日持ちが良いから重宝されてきた。 もちろん、かつてはナニカが何者かなんて分からなかったはずだ。 けれどその変化が起こる条件を特定していき、知らないうちにナニカを活用していったのが日本食文化だと思う。 手前味噌やミキは造る人や環境によって味は変わる。 手で握ったオニギリもある種の発酵食品だという人もいる。
彼は最後の日、何を思っていたのだろう? 病気がちで、不自由な体で、けれどただ懸命に生きていたように見えた、動画先の白い金魚。 ぼんやりと、隣の水槽を泳ぐ同種の金魚を眺めて。 餌をくれ、治療をした飼い主を眺めて。 静かに、さして動かず。 傍目には苦しんだ様子もなく。 最後までただ眺めていた。 羨ましい? もっと見ていたかった? 遊びたかった? もっと生きたかった? 忘れない? 本人以外、誰にも分からない。 けれど多分、最期の時を悟り、出来る限りの生を、最期の最期まで堪能
「自分の為の料理を作ろうよ」 以前働いていた職場で上司に言われた言葉。 聞いた時、もやっとしたのを覚えている。 本人は多分、もっと自分を出していこう、程度の意味で言ったのだと思う。 あるいは、アイデアを出す方向かもしれない。他の仕事で自分らしさを出させたいといった感じを覚えたことがあるから。 けれどそもそもの話、大事にしているものが違う。 上司は飲食店というある意味非日常の場だからというのもあるのだろうけど、自分にしか出来ない仕事を求めてきた。 もっとも、だからか基礎の
自業自得。 イメージだけど、大抵は自分、あるいはある人が原因でそのに悪いことが起こった時に使っている気がする。 でも漢字を直訳するとすると、自分の行いで自分が得る、になる。 良いも悪いもない。ただ自分の得るものは自分の行いで決まるというもの。 もちろん直ぐに返ってくるとも限らないし、巡り巡って返ってくるかも知れない。 損とか益とかいうけれど、周り巡って来たものが自分にとって良いものか悪いものかということだけで、行いの結果として何かが返ってくる。 もっとも、スピリチュ
良いことも、悪いことも、いつかは自分に還ってくる。 よく言われること。 因果応報、自業自得。 起こっていることの原因は自分にある。 自分のしたことが自分に還ってくる。 言葉もそう。 その場では自分の都合がいいことを人に言えたとしても、同じような状況が自分に当てはまることなんてよくあると思う。 無意識かもしれないが、自分のことを棚上げして何かを言っても、現実は上げた棚から落ちてくる。 自分の行いが自分に還ってくる。 思いも結果も、廻るものかも知れないと、最近思う。
責任の所在はいつも自分にある気がする。 件のパンデミックにしろワクチンにしろ、どうなろうと、どう選ぼうと、押し付けは有っても責任は取ってくれない。 向こうはあくまでお願いで、アドバイスで、強制はしていないから。 逆に親切なんてものも、そういうもの。 相手がどう取るかは分からないけど、ある意味では押しつけだから。 それでも喜んでもらえたらと行うのだろうけど、受け取ってもらえなくても当たり前。 最も、あなたの為のだとのたまったり、親切を装ったり、自分の都合や思考をを押し
思い込み。 少し前にアメブロに料理にあった思い込みのをネタに書いた。 一応、宣伝兼ねて貼り付け。 ちなみに日本酒紹介ばっかのブログです。 話戻して・・・ 出汁が必要とか中華には中華スープがないと作れないとか、でも実際はなくても作れるものは多い。 のだけれど、必要だと思いこんでいた、という話。 こういう話は多分、何にでもあると思う。 気付いていないものなんて、多分幾多でもある。 そういう誰にでもある思い込み。 ふと思ったのだけど、引き寄せの法則などでいうブロックなのでは
最近繋がる縁は、不思議と面白いモノに繋がっていく気がしている。 例えば、キッカケは何となく面白そうと思ったお話。 WS等でたまたまご一緒になった人との会話の中で、コレはって思ったから、先の事は分からないけど、とりあえずとSNSで繋がってみる。 その程度の気持ちで繋げた縁だけど、さらに愉しいモノに繋がっていった。 例えば、ちょっとお世話になっている人が誘ってくれたお話会。 面白そうと感じ参加してみると、予想以上に広く深い話が聞けた。 そもそもWSに参加したキッカケも深い
良い御縁に恵まれている。 縁が繋がることも多々ある。 けれど、自分に合わない縁に苦しむことも、少しある。 そして、そんな縁が中々切れない。ズルズル、ダラダラ、続いてしまう。 続けてしまう。 そのうち、ある種の強制終了が起きてしまう気がしても、そういう体や心の声が聴こえてきても、大丈夫じゃないよね、と言いつつも、縁を切れない。終わらせられない。 そういう時、ぼんやりとでも大抵終わりは見えている。自分が終わらせられないだけ。 始まりが見えてこないから、終わらせる勇気が持て
日本の食に欠かせない稲。 主食の米はもちろん、日本酒、焼酎、味醂の原料、酒や味噌を醸すのに用いる糀、糠漬けや三五八漬けといった漬物など、様々な食物に関わっています。 また稲藁も縄やしめ縄などに使われ、また元来の納豆は稲藁で包んで作られます。 こうしてあげていくと生活に密着している反面、神聖視されている面もあります。それだけ大事なモノだったとも言えるのかもしれません。 それだけ大切にされてきた稲ですが、上の例を見返してみると、神秘的な意味で見えないものではなく、物理的に見
最近、大なり小なり体を壊している人を見かける。 悪くなったところを見てると、急に悪くなったと言うより今までの積み重ねによる不調、元々悪かったところが悪化した、という感じの人が多い気がする。 今まで通りではダメだよ。そう言われている気がする。 自分の体調はとりあえず問題ないけれど、別のところでは問題が表面化してきている。 正確には後回しにしていただけなんだけど・・・ どうすれば解決するのか。 言葉では簡単に言える事。 お金のことなら使い方か収入を増やす。 病気や体の不調な
最近、いや、少し前からか似たメッセージを貰っている。 オープンにする。 仲間をつくる。 そして、次のステップへの恐れを手放す。 正直、苦手なことだと思う。 少なくとも今まで意識して行ったことはあまりなく、半強制みたいな事か自然な流れが多かった気がする。 特に自分をオープンにすることは苦手。自分の考えもだけど、思いや感情を言葉や行動に表す事はつい避けてしまう。 怒りは特にかもしれない。いくら怒れても、相手にぶつけることはまずしない。 とはいえ仲間を作ること、そして次の
本当に友達って言える人ってそんなにいない気がする。 もちろんその時その時の友達はいるし、クラスメイトのような友達はいる。 でもそんな友達は会わなくなると次第に影が薄れて、あまり思い出さなくなる。 学校を卒業し、仕事が始まるとなおさら。「会おう」と言われても、いまいち気が乗らないことも多い。 だからずっと続いていく友達なんていないと思っていたし、わざわざ作ろうなんて考えもしなかった。 けれど今年、十年は会っていなくて、年賀状位しかやり取りが続いてい友達と再会した。 相手
年の瀬。師走。 師と言われるような人ですら走るような、忙しい印象の月。 あるいは、そのくらい早く流れていく月。 だからと言って慌てても仕方ないと思いつつも、今年も終わりと焦ってしまう。 慌てても仕方ないことが多い。それでも、と思ってしまう。 引き寄せとか暦の流れとかの話を聞いていると、焦ることはプラスに働かないような気がする。 それでも焦るのは性分か性質か・・・・ 振り返ると、あまり前年と変わらない気もしたけれど、新しいこともあった。 ミキやnote、初めて行く店、
料理を作る理由なんて、正直、これしかない。 食べてくれるから。 美味しいって言ってもらえるから。 たとえ仕事だとしても、食べてももらえないものは、作りたくはない。 出来れば美味しいって思ってもらいたいから、出来ることはする。 人それぞれ好みもある。 それでも、美味しいって言ってもらえるに越したことはない。 美しい味と書いておいしい。 美しいは感動の言葉。 後味や調子も良ければなお、美しいに通ずる感動につながる気がする。 もちろん、食べる環境や食べる人の調子にも左