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ドラキュラとゼノフォービア━8

 『ドラキュラ』が書かれた19世紀後半、細菌の研究が進み、ワクチンによる予防も進歩した。そして、それらの知識を取り入れられた小説も書かれるようになる。
 例えばラディヤード・キプリングの『高原からの平易な物語』(1888)や、H・G・ウェルズの『盗まれたバチルス菌』(1894)などである。

 『ドラキュラ』の中にも、細菌学の知識から取り入れられた単語が出てくるという。
 「死毒」と「殺菌/消毒」がそれだという。

 丹治愛氏著『ドラキュラの世紀末~ヴィクトリア朝外国恐怖症ゼノフォービアの文化研究』から、その辺りを見てみよう。

細菌恐怖(つづき)

 「死毒」(ptomaine)という言葉のイギリスでの初出は1880年の『薬学年鑑』で、これは1876年にイタリアのボローニャ大学のセルミ教授によって造られた語だという。
 死んだ動植物内部で形成されるアルカロイド(一部は有毒)のことを死毒という。

 コレラをはじめとするあらゆる伝染病の致死的作用は、有機体の体内に「侵入」した微生物の存在そのものによって生じるのではなく、そこで「驚異的な増殖力」をもって「増殖」していく微生物がつくりだす「死毒」と呼ばれる「科学的物質」の働きによって生じるということです。(丹治愛)

 死毒という語はかなり専門的な学術用語といえるだろう。

 『ドラキュラ』の中では、ドラキュラに血を吸われ、またドラキュラの血を無理やり飲まされたミナの変化について、医師のシュワードが手記の中で記している。

伯爵は、ヴァン・ヘルシングのいわゆる「吸血鬼の血の洗礼」を彼女に施したとき、彼なりの目的をもっていたのだ。そう、善なるものからおのずと染み出る毒素というものがあるのかもしれない。|死毒《プトマイン》の存在がいまだ神秘である以上、なにごとにも驚いてはならないのだ!(丹治愛 訳)

 丹治氏は、ストーカーが、ドラキュラがミナの血管に入れた怖ろしい毒素を「死毒」という医学用語で形容したのは、彼が細菌説に関心を持っていたことを証明しているという。
 そして吸血鬼ドラキュラは、健康な肉体に「侵入」して「増殖」し、最終的にみずからつくりだした「死毒」の作用で肉体を死に至らしめるコレラ菌と同じであることを暗示的に表象しているというのだ。



「早すぎた埋葬」(1854)
アントワーヌ・ヴィールツ(ベルギー)
Wikipediaより
棺には「コレラにより死亡(Mort du cholera)」と書かれている。
仮死状態で間違って埋葬され、墓の中でよみがえったのだ。
感染をあまりに恐れたためか、それともあまりに死者が多いので扱いが粗雑になったのか、
衰弱した患者をよく確かめもせずに棺に入れてしまったのだろう。
吸血鬼伝説はこのような恐怖から、生まれたともいわれている。

 「殺菌/消毒」(sterilise)という語は、元来、土地を「不毛化する」という意味だった。それが殺菌するとか消毒するという意味で使われたのは、1879年にジョン・ティンダルが書いた『科学論断章』だった。殺菌とあるように、細菌の存在を念頭に使われる単語ということだ。

 それ以前にも、消毒を意味するdisinfectという単語があったが、こちらは必ずしも細菌の存在を前提としなかった。

 『ドラキュラ』の中で、この「殺菌/消毒」(sterilise)が6カ所出てくる。

 ドラキュラ伯爵は故郷のトランシルヴァニアから持ってきた、城の地下墓所の「穢れた土」を入れた木箱を、ロンドン市内の数カ所の隠れ家に分散した。伯爵は太陽の出ている昼の間は、この穢れた土の入った箱で眠らなければならない。
 その穢れた土の箱をヴァン・ヘルシングたちは「殺菌/消毒」するために追跡する。

我々は例の箱をひとつひとつ追跡せねばならない。そして用意ができれば、この怪物がねぐらで休んでいるところをとらえるか、殺すかしなければならない。或いは最早そこに逃げ込むことができないよう、その土を、いわば殺菌/消毒(sterilise)してしまわなければならない。(丹治愛 訳)

 そして彼らは箱を見つけると、片っ端から箱を開けて土の上に聖餅を置いて「殺菌/消毒」していくのだ。

 穢れた土からは生臭い吐き気をもよおすような腐臭がするところは、例の瘴気説の痕跡がみえるが、土の殺菌/消毒は細菌学的なイデオロギーが働いているのだという。
 瘴気説は科学的には否定されたが、その影響はすぐには消えず残り続けた。


 細菌の研究とその予防、防疫についての研究が進むと、医学論文などで軍事的比喩がよく使われるようになったという。
 例えば、病原菌が「侵入する」「潜入する」とか、肉体の方では免疫学的な「防衛機能」の働きだとか、化学療法で「攻撃する」といった具合である。

移民の支援の種類「不許可」
https://newsmedia.otemon.ac.jp/wp-content/uploads/2021/02/20210204_01.jpg
船の舳先に座るのはコレラ菌
「炭酸」の大砲で防衛ラインが敷かれ、上陸を阻止しようとしている。

 肉体と細菌の戦争。医学と細菌の戦争という軍事的比喩は、『ドラキュラ』の中で、医師を中心とした「善良で勇敢な男たち」と吸血鬼の戦いの物語にも、影響を残している。

 ルーシーの場合は病因がはっきり確定できないまま彼女は死に、細菌(ドラキュラ)が勝つ。ミナの場合は細菌が作り出す「死毒」が彼女を破壊する前に、「穢れた土」を「殺菌/消毒」して攻撃を加え、最後に彼を殺す。そしてミナは健康を取り戻すのである。


 かわいそうに、コレラの流行は貧しいユダヤ人移民に対するさらなる差別につながってしまった。彼らは病気を運ぶ下手人とされたのだ。事実はコレラを運んだのはユダヤ人に限らないことは明らかであるにもかかわらず。

 これは、一種の「犯人捜し」である。感染源、感染ルートを探ることは、今後のパンデミックを防ぐために必要なことであるかもしれないが、この時はあからさまな偏見と差別のまなざしで、ユダヤ移民(だけ)を疫病を運び国内にばらまく侵略者のようにとらえたのだ。

 こうした偏見と差別のまなざしは、イギリスよりもドイツなどの大陸側で激しかった。

 しかし、イギリスにも外国人移民たちのはらむ「衛生上の危機」は、最悪の犯罪者とまで言い切る人物もいた。
 例えばW・H・ウィルキンスは「伝染病の感染地域からやって来る家畜は我々の港で入国を拒否される。我々の内の最も卑しい者の健康ですら多くの家畜より確かに重要である」(丹治愛訳)と言っている。家畜同様、伝染病発生地域から来る移民は入国を拒否すべきであるという。この移民はユダヤ人のことである。

 丹治氏は、疫病の細菌とユダヤ人という「外来起原」の存在は、ちょうどドラキュラというキャラクターの中で融合しているように、ウィルキンスのような反ユダヤ主義者のテクストの中でも融合しているという。

 そしてそれは、細菌=ユダヤ人を「殺菌/消毒」することを主張した、20世紀のヒトラーの思想へとつながっていくのだ。それはイギリスも例外ではない「外国恐怖症」という根深い病気なのだ。


 最初にこの本を読み直したのは、ここ数年の日本や世界━━とりわけ「先進国」といわれた(というか自称している)西側諸国の、何とも言えない周辺国に対する焦りのような不安感が、この本の内容とどこか似かよっていると思ったからである。現在も通じる問題と思えたからと書いたが、どうだろう。
 新興国の台頭。移民問題。コロナパンデミック。思い当たらないだろうか。

 外国恐怖症は実は外部に問題があるのではなく、おのれの抱える不安が生み出したものだとすれば、外部から来るものをただ嫌悪し拒否するだけでは問題を解決できず、場合によっては特定の民族の虐殺、戦争への道へ進んでしまうという危険があるということを、私たちはしっかり認識しておくこと。
 偏見を克服することは難しいかもしれないが、目の前にいるのは怪物ではなく、鏡に映る自分の姿だということに気付くべきではないだろうか。



 以上でこの連載は終わりです。最後までお付き合い有難うございます。

 丹治さんの『ドラキュラの世紀末』は、文章も平易で知識欲も満たしてくれるお勧めの本です。挿絵も多くてその解説を読むだけでも楽しいです。表紙はドラキュラ伯爵がトカゲのように城壁を逆さに這い下りていく有名なシーンです。↓





参考書籍

ドラキュラの世紀 ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化史  丹治愛                                   
                           東京大学出版会
吸血鬼ドラキュラ  ブラム・ストーカー 平井呈一訳   創元推理文庫
ハリウッド・ゴシック  デイヴィド・スカル 仁賀克維訳  国書刊行会
ロンドン路地裏の生活誌 ヘンリー・メイヒュー ジョン・キャニング編
            植松靖夫訳              原書房
ドラキュラ100年の幻想  平松洋              東京書房
ドラキュラ伯爵のこと ルーマニアにおける正しい史伝 
           ニコラエ・ストイチェク 鈴木四郎/鈴木学訳
                               恒文社
「≪ドラキュラ公≫ヴラド・ツェペシュ」  清水正晴     現代書館
DRACULA    Bram Stoker                                                                     OXFORD
The Movie Treasury    MONSTERS&VAMPIRES    Alan Frank             OCTOPUS
VAMPYRES: Load Byron to Count Dracula     Chiristpher Frayling   
                                                                                                   faber and faber



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