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頑張るベクトルを誰かに向けたい

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

平成31年度東京大学入学式祝辞 上野千鶴子

今日たまたまX(Twitter)で引用した上野先生の東大での祝辞を読んで思い出しました。前にも読んで、あぁたしかになぁと感じて多様性ってなんだろうと刺激されたなぁと。

ただ、ここの部分に対して個人的には、同意する感情と腑に落ちない感情があります。


自分も大学生(東大とかそんな高学歴ではまったくないですが)で、一応は受験勉強をして合格して今に至ります。

でもいま、不登校の子どもたち、入院中の子どもたち、特性をもった子どもたちの支援に関わり、学ぶ中で、現実にはそもそも大学に行くという選択肢なんてなかったり、その子自身が大学なんて自分と遠いものって決めつけてしまったり…。そういう中にいる子どもたちはたくさんいることも事実だよなと思います。

そんなことを考えると自分は、運よく環境がよかっただけなんだろうなって思ったりします。

私自身の過去として小学校時代には不登校を経験して自分自身のアイデンティティについても悩みました。(この辺はまたどこかで)
それでも、出会った先生たちおかげで勉強面でそこまで大きな遅れをとることなく、なんとか中学へ進学して通学できるようになりました。そして、高校受験を経て高校に進み、大学受験を頑張り、結果的にいまに至ります。

たしかに、先生や周りの人に恵まれて、両親がいて共働きしてくれて、貧困家庭ではないし、不登校だった以上の困難はなかったです。だから、環境とチャンスに恵まれてそれを選ぶことができて、まぐれで今があるんだと言えます。不登校がつづき、もっと精神的にも環境的にも悪化していたら今とはまったく違う人生になっていたと思います。そういう意味では、ほんのわずかなちがい、”たまたま”という次元の差によって今があるような気もします。


でも、じゃあ頑張ったという自分の感覚はダメなのか?とも思ってしまいます。

たしかに環境に恵まれて、たまたま運が良かっただけかもしれない。でもその中で頑張ろうとしたこと、やりたいことをしようとしていることの価値はなんなのか?やっぱり最後は本人の頑張りが絶対的に必要なのではないか?となります。

自己責任論みたいなことにつながりかねないけれど、やっぱり個人として頑張ることは欠かせない。そういう葛藤を抱えます。


でも、上野先生はその次に1つの答えをちゃんと示してくれていました。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

同上

たまたま大学に入れて、たまたま時間を与えてもらえて、たまたま考える機会をもらったからこそ、その環境と時間と機会を存分に活用しようと思います。

いま自分が頑張ることができるのであれば、ちゃんと頑張って、そしてその頑張りのベクトルを利己的に自分の内に向けて閉じこもるのではなく、他者(誰か)に向けて開いていきたいなと思います。


今回もお読みいただきありがとうございました。

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