言葉に耳を傾けて

私の好きな本のひとつ「ライ麦畑でつかまえて」
みなさまは読んだことはありますか?

初めて読んだのは高校2年の夏休み、だったかな。
真夏の昼間、エアコンもつけず暑い部屋でクソ寒い冬のニューヨークが舞台の小説を読んだこと、今でも覚えています。

世の中や大人の理不尽に腹を立てる青年の話だから十代の内面や感情に共感しよう、という形で教科書に載っていたりする本ですが、そんな読み方をしなくてもいいではないか、と私は思いました。
私にとってこの本は、今まで知らなかったやさしさを考えるきっかけになった作品です。

主人公のホールデンがクセのある人物なのは事実でしょう。でも私には彼の話は興味深かったし、ホールデンのことも嫌いになれませんでした。

作中、主人公のホールデンは本当にいろんなことを言うんですね。話す、語る、というより、ただ言う。出会った人に、学校の友人に、地元の幼なじみに。とりとめのないこと、彼自身の考えたことや思ったことを、とにかくたくさん。その時々でいろんなことを考えて、感じて。彼はそれを人に伝えようと言葉にしていく。

彼が言葉を尽くして何かを語るのを読んで、彼には何か言いたいことがあるんだろうなぁって思ったんです。こんなにいろんな言葉で話すのだから、きっと言葉で伝えられないものを、言葉以上の何かを伝えようとしているんじゃないかって。
だったら、それを聞く私にできるのは、「つまりどういうこと?」って訊くことじゃなくて、黙って彼の言葉に耳を傾け続けることじゃないかと思ったんです。

ホールデンがそうやって色々な話をしていく中で、聞いてくれる人はいるのだけど、それがコミュニケーションとして成立しているかどうかは怪しい。
相手が大人でも、子供でも。妹だけは、彼に言いたいことがあると分かっているようだったけれど、それでも言葉のキャッチボールとしては微妙で。
読む人によっては、ホールデンがコミュニケーションをとる気がないと思うのかもしれないけれど…。
でも、否定から入られたら会話なんて続かないじゃないですか。

だから、どうして誰も彼の言葉を黙って聞いてあげないんだろうって、疑問だったんですよね。
彼の学校の話も、クラスメイトのことも、亡くなった弟の思い出も、間違った歌詞でうたう歌も。
みんな、黙って耳を傾けて聞いてみたらいいのにって。言葉のキャッチボールだけがコミュニケーションじゃないでしょう?
…そう思うのは私だけでしょうか?
誰かが何かを伝えようとしているなら、それを聞いてあげたい、聞き取りたい、理解なんて二の次でとにかくその言葉を聞きたい、と私は思います。

誰かと言葉を交わすとき、相手を理解したり共感したりしなくてもいいと思うんです。
共感が悪いこととは思いません。でも、そのどこかに相手のことを理解できるはずという思い込みがあるように感じるんです。…とても傲慢な思い込みが。
本人の気持ちは、本人以外には分かり得ないはずのものなのに。それを、どうして分かるなどと言うのでしょう。そう思うのでしょう。
分かろうとすることは間違いじゃない。でも、分かるだろうと思っていることが、そう決めてかかることが、相手を傷つけることだってあるじゃないかと思うんです。
現に彼は、誰かの言葉に「そうじゃない」とか「そんなことない」とよく言うんです。それって、理解や共感をしようとした相手の言葉に納得できないからでしょう?

…分からないんですよ、相手の気持ちなんて。誰にも。でも、それでいいじゃないですか。
分からないなりに、尊重してあげましょうよ。
…ねぇ、それじゃあダメですか…?

もちろん、そんなことをしてやる義理なんてない、と思うのは読み手の自由ですけれど。
…でも、せっかく小説なのだから、そんな突き放し方をしてほしくはないなぁと思ってしまいます。

文字だからこそ、物語だからこそ、なおさら彼の語る言葉を聞きたい。余計な相槌なんてしないで最後まで聞くから、納得できるまで話してほしい。私は味方になれなくても、敵にはならないから。
キミの言葉の意味までは分からなくても、キミの言葉をすべて受け止めたいんだ、と。
…そんな気持ちでホールデンの隣に座って、彼の話に耳を傾けていたいのです。



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