【小説】 純粋なような人
猫に愛を伝えるときには、
目をゆっくり閉じている。
猫は相手に「愛しているよ」と伝えるときに、目をゆっくりと閉じる。と本に書いてあった。誰かが書いた本。
誰かがそう思って、真実なのです。と語る。
それが真実でも、そうでなくとも。世の中にある大半の事は誰かが語り、誰かがそれを信じることで出来ているのかもしれない。
私はなんとなくついているテレビに目をやると、ワイドショーは彼女のニュースでもちきりだった。
猫はテレビの音に耳を傾けながら、私の太ももの上に横になり、ぼんやり私を眺め、ゆっくりと目を閉じた。じんわりとやわらかい猫の温度。私は猫にゆっくりと目を閉じてみせた。
幼稚園の年長くらいの頃、お誕生日会を開くのも人の誕生会に行くのも嫌いになった。理由はよそ行きのきれいな洋服を着て、ゲームをしたり、ケーキを食べたり、プレゼントをあげたりもらったりするのが、急にめんどうになったのだ。そんなことより、ケイドロでドロボウになったときに、隠れる場所を新しく開拓することに興味があった。
お誕生会の写真を見ると、それなりに無理やり歯を見せて笑っている。何よりも嫌だった事があった。私のお気に入りの服は右胸にワッペンのついた赤いつなぎなのに、誕生日会にはひらひらしたワンピースを着せられることだ。それを着る事が嫌で、本気で号泣したのをおぼえている。
本心では幼稚園以来、人と関わるのがすきではなくなっていたが、変な奴と見られたくなかったし、寂しい思いをするのが嫌だったので、人に合わせて楽しいふりをして、人がどういう感情なのか伺い、自分なりの最大限で気を使っていたおかげで友達もいたし社会生活も滞りなくできた。というか人並み以上に気を使い、自分が疲労困憊するほどだったが同時にそんな
『そういうことができる』自分に酔ってもいた。
友達に恵まれ麻のようにまっすぐ育つように「友麻」ゆま。と両親がつけた。期待に添えるようにしてきたつもりだ。
世間でいう空気を読むというのが身についているので空気を読んで人と付き合い、人に共感して「友達だね、わかりあっているね、趣味がおなじだね」「言われる前にやってくれて気が利くね」という状態にしていれば、孤独にはならないのでそのように努めてきた私はいつも人の目周りの目をきにしていた。
「スタジオさ~ン」せっかち女編集が叫んだ。自分の雑誌で紹介しているハイブランドの服を身にまとい、モデルのように痩せようと努力が見られる体型は、自分自身が雑誌の一番の読者であることを物語っていた。
撮影のセット組みをしていたので何度もどうでもいい雑用で呼ばれることに、今度は何だよ!と内心イラついていた。
「はい!なんでしょう?」笑顔で駆け寄ると、返事にかぶるように
「う~んとね、お昼バラチラシね、お願いね」力強くメニューを手渡された。
「えっと、おいくつ?」
「15個ネ」と言われた瞬間からやる気が失せていったがどうにか立て直し、
「わかりました注文してきます」と力ない笑顔と返事をし、事務所に向かった。
15個ということは私ともう一人のスタジオマンの数は入っていない。ということはコンビニ弁当決定。最悪の場合、昼抜きでセット組の続きをするという地獄の奴隷状態になるという状況だった。
すっかりやる気が失せて、事務所の椅子にどっかり座ってから渾身の力で受話器を持った。
私は写真を撮った経験はほとんどなかった。カメラのレンズが取れて交換できることさえ知らなかった。そんな私がなんでこの世界に入ったのかは、友達の知り合いがカメラマンだったからで、漠然と、カメラマンとかかっこいいし、なりたい!という安易なもの。
紹介されたカメラマンからカメラマンになりたいなら、広告や雑誌の撮影スタジオのアシスタントをやるのが一番近道だよ。と言われ撮影スタジオを紹介してもらった。そのカメラマンのこねもあり撮影スタジオに入ることができた私は、すべて基礎の基礎から周りの先輩アシスタントから学んだ。カメラの知識はゆっくりだが吸収していた。
スタジオマンはあくまでカメラマンへの通過点と思って入ってくる人ばかりなので、皆大体2、3年くらいで独立するか、有名なカメラマンのアシスタントになるかしてスタジオを去った。入れ替わりがはげしいなかいつしか、先輩アシスタントという立場になった。スタジオはカメラ周りの事はもちろん撮影のセット組み、照明組み、衣装の搬入の手伝い、掃除、スタジオに来る車を動かし、駐車場が円滑に動くようにすることや、昼食の注文という雑用も仕事の一つだった。「スタジオさん」とは、編集者、カメラマン、スタイリスト、メーク、等のスタジオに来るお客さんがスタジオスタッフを呼ぶときに使う呼び名だ。
スタジオにおいてあるメニューは大抵お高いものだった。バラチラシはとても有名な寿司屋のもので、もちろんスタジオマンが自腹で払えるようなものではなくバラチラシを自分たちの分も頼んでもらえた日には他のスタジオマンの羨望の的となった。しかし、スタジオマンの中には前日もバラチラシが出たので「飽きた。毎日食べたら痛風になる。」と贅沢な理由から他のスタッフにバラチラシを格安で売り、コンビニ弁当を購入する。という取引があった。昼がでるか、出ないかは午前中の頑張り次第という先輩の教えがあったほど昼食はスタジオマンにとっては重要だ。
出前の電話を終えスタジオにもどると、後輩の中村くんが大体のセット組みを終わらせてくれていたので、昼抜き地獄はまぬがれそうだった。中村くんは私に駆け寄り
「今日、竹島桃子らしいですよ!」小鼻を膨らませながら話してきた。
「ああ女優の、きれいなひとだよね」
その女優はまだ到着していないらしく、かなり遅れて到着するらしい。ほどなくして、バラチラシがとどいたので、いったん休憩をとる。ということになり、カメラマンにスタッフルームの内線を伝えスタジオあとにした。いつものように、いつもの流れでスタジオはすすんでいた。中村君とコンビニへ行き、弁当を買ってスタッフルームへ戻ると、先輩のナナさんが駆け寄ってきた
「今内線があって、女優が来たから、撮影開始するって電話あったよ!急いで行って!」ナナさんは私たちのコンビニの袋をつかみ取って、「行け!」という戦国武将さながらのポーズで、地獄の昼抜き撮影開始のお知らせをしてきた。
急いでスタジオに戻るエレベータの中は、昼抜きのがっかりムードが漂っていた。
太い眉毛に力をこめた中村君が、決心したように、「俺、今日から竹島桃子嫌いになりました」ポツリとつぶやいた。私は、大きく無言で頷き同意した。
中村くんのあまりの深刻な顔が面白くて、
「本気すぎだって」私は吹き出した。それにつられて中村くんも笑った。
スタジオに戻ると、竹島桃子の大名行列並みのお付きのスタッフでごった返していた。ピリピリした雰囲気は女優の撮影ではよくあった。
私はその雰囲気が嫌いじゃなかった。なぜなら今まで培ってきた
「気を使えて空気が読める私」を生かすにはこのピリピリ感が蔓延する空間に持ってこいだったからだ。
竹島桃子はご機嫌があまりよくないらしく、自分のマネージャをしかりつけていた。
「スタジオ~」カメラマンが呼んだ。さっきまで「さん」がついていたのに。皆があからさまにこの得体のしれない雰囲気にのまれピリピリの連鎖が始まった。
「はい」と中村くんと二人で駆け寄ると、カメラマンが小声で
「彼女ご機嫌悪いからさぁ、女性のきみ、立ち位置見て」イライラしながら私を指さしカメラマンは言った。
撮影中彼女の一番近くにいて立ち位置がズレていたら彼女に教えるという役目だ。私はピッタリと立ち位置の横についた。
スタジオ内の電気が消え、白いホリゾント以外は闇になった。ホリゾントに当てられた照明は、ただの白いRのついた壁を無限の白に変えていた。
竹島桃子は先ほどとは違う、女優の顔に戻り、VALENTINOの白いオートクチュールを着て立ち位置へとゆっくりむかった。
彼女が動く度、ドレスの生地が彼女の体をふわふわと流れていた。洋服に詳しくない私にも服のカットのよさがわかった。胸元が大きく開いているものだが、いやらしさはなく清楚だった。彼女が歩く度にゆれる裾のドレープは大きく広がり、白が幾重にも重なると光と影の作用なのか、何色もの色が重なっているようにみえた。彼女の細い体とドレープは一体になっていた。私は思わず
「きれい・・・」声に出してしまった。その声に気付いた彼女は私を見てほほ笑んだ。
「発光しま~す」と中村くんの声と共にストロボが光った。ストロボが全部発光しているかを調べるためだ。
彼女の姿はストロボの閃光で一瞬消えているようだった。
月下美人が咲くのを何度か見たことがある。夜に数時間しか咲かない花。透き通るような白い可憐な花びらと触手のような花弁、強い甘い香りが部屋に充満し、花が咲いた夜はあまりの強い香りにクラクラする。
強い甘い香りでコウモリを誘い
透けるような白さで闇に浮かぶように一晩だけしか咲かない花。 私はすっかり彼女の虜になっていた。
「メーターお願いしま~す」中村君の野太い声でわれに返った
私は慌てて
「メーター入ります!」大声を出し、光側の竹島桃子の横に立ち露出をはかった。
至近距離で見る彼女は、同じ人間とは思えないほどの骨の細さ、毛穴が全く見えないきめ細かい肌。華奢な体なのに胸は豊かだった。立つ姿はコンパスのようだったがその華奢さが、彼女の特徴であるぽってりした唇をよりセクシーにみせた。自分のドキドキが伝わるのが恥ずかしくて、わざと低い声で
「絞り16でOKです!」と言って闇側に戻ろうと彼女に背中を向けたと同時に私の手を冷たい手が包んだ。彼女は手をしっかり握っていた
私は振り返り「えっ・・」小さな声で言った。
「早くはけて!」というカメラマンの怒号が聞こえたので、逃げるように闇側へ戻った。
立ち位置を確認して彼女をみると、彼女とまた目があった。ドキッとすると
一瞬、彼女は何か言いかけた。
何か不都合な事があるのかと
「えっ?どうしま・・・?」と尋ねたが
彼女は何事もなかったように光側に顔を戻し、ぽってりした唇を突き出し誘うような表情で、カメラを見つめていた。
私は置いて行かれたような、妙な気分でだった。
彼女はシャッターを切る度に光るストロボの閃光と溶け合って見えなくなっていた。
撮影中スタジオ内は、彼女が放つ妖艶な空気に飲み込まれていた。
月下美人が咲いた夜の翌朝は、しぼんでうなだれた花と、かすかな甘いかおりが部屋に残っていた
撮影が終わったと同時に、彼女、カメラマン、クライアント、せっかち編集も何事もなかったようにそそくさと帰ってしまった。机の上にはごちゃごちゃになった食べ物と飲み物であふれていた。
当然散らかったスタジオを片付けるのは、スタジオマンの仕事なので、片付けるのだが、
まずはお気に入りの音楽をかけ、休憩をしながら余った食べ物を食べる。というのが一連のながれだった。中村君と私は昼抜きだったので、先ほどのコンビニ弁当と、置き去りにされたお菓子をむさぼった。弁当を食べ終えた中村君が、ゴミ箱の近くから大発見したよう大声で叫んだ、
「友麻さん!箱ごとケーキ捨ててある!なかに食べてないのが入ってる!」
ゴミ箱から『大物を発掘した』という満足げな表情で有名ケーキ店の箱をもってきた。
「まだ食べられるじゃん!箱に入ってたしビニールの手提げにも入っているし。汚くないよ、たべよ!」私は特に珍しい事ではないように中村君に言った。
「ええ!!マジで言ってますか?気合入ってますねええ」
「きあいとかじゃ、ないよ!勿体ないじゃんってこと!」
「俺、ゴミから拾って食べるのはじめてです」中村君は、ドギマギしながらいった。
「はっ?じゃ、いいよ食べないなら、あたしたべよ!」ゴミから出てきた高級チョコレートケーキを堪能した。中村君も触発され、
「じゃ、おれも!」とイチゴのミルフィーユを口に運んだ。
「いやーうまいっすねゴミから拾ったとは思えない!」中村君は、にんまいり笑って満足そうな顔をした。
「なんかさ・・・たまに思うけど、スタジオマンってラブホテルの清掃に近いよね?バイトしたことないけどさ」と私はうすいコーヒーすすった。
「ええ?そんな風に考えたことないですよ。どこが?ラブホ?」ミルフィーユのカスタードを口の横につけながら中村君が言った。
「いやいや、なんか、この散らかった部屋とか、撮影中スタジオはみんなの一体感で半端ないのに、終わると急にしれっと帰る感じとか、で、私たちが散らかりを掃除するみたいな?」
「エロ!そんなこと思わなですよ。エロ!」
中村君はやけに大声で言うので、
「まあ、いいや!私だけだねそんな風にエロいのは。ハイハイ」と妙に気恥ずかしくなったので、
「さっ!片付けますか!」私は立ち上がり、
ステレオのボリューム最大にあげた。
手には彼女の冷たい手の感触がまだ残っていた。
私は2年半でスタジオを退社(卒業?)し、
フリーのカメラマンになった。特定のカメラマンのアシスタントにはならなかった。人のアシスタントは極限に気を使うし、何よりもそんなに他人を信じることができないうえ、人とかかわるのがめんどうくさい本来の私がいた。
雑誌編集者やアートディレクター、気になった写真媒体をチェックし、電話でアポイントを取り、作品を持って営業に行くという生活をした。友麻にはフリーというこの感じが性に合っていた。
営業に行くのも仕事を受けるのも自分次第だ。
営業はお見合いみたいなものだった。営業に行く回数を重ねていくと、第一印象でだいたい自分の写真を気に入るかどうかがわかった。
スタジオマン上がりの、仕事もしたことがない新人にそうそう仕事は舞い込んでこなかった。
そんな時に出会ったのが、MEALEの編集の野田さんだった。元新聞記者だから厳しいはず。とダメ元で出向いた編集部は想像通り、いつも行くファッション雑誌、音楽雑誌の編集部とはあからさまに様子が違った。みな、スーツを着ているし、髪型も整っていてかっちりしていた。
「ああ、これはダメなパターンだな」友麻はのっけからあきらめに入った。でもまあ、そうそう来る機会もないし、楽しもう。とこの場違いなお見合いをたのしむことにした。
個人個人あわただしく、そして静かに仕事をしている編集部の前で、誰に声をかけたらいいものか、迷いながら
「あの野田さんはいらっしゃ・」
「ああ、こっちこっち」自治会長風の人の良さそうなおじさんが手招きしていた。
「ここ座って」野田さんは、パーテーションで仕切った簡易な応接室の黒い合皮のソファーを指さした。
私は名刺を出して挨拶をした。
「はい初めまして」野田さんは,、目じりには笑い皺がくっきり入っていた。
「では、早速写真を見せて」と野田さんはきりっとした顔でいった。野田さんは何も言わず作品一枚一枚丁寧にみていた。私はそれが嬉しかった。
最後のページに差し掛かるときに、野田さんの口が開いた
「あのー仕事したことあるの?」
「ありません」背筋を伸ばして答えた。
「あああそう。仕事したことないかあ・・・」
「あっでも、仕事をするチャンスいただければ、必ずいいものを撮ります。チャンスをいただければ・・・」
私は営業ではじめてそんなことをいった。言いながら握りしめた手のひらは汗ばんでいた。
「そうだね」目じりの皺の本数を増やしながら笑い、作品のページを行ったり来たりさせていた。
「では、近々電話します」野田さんはなにか思いついたように、にこりとして言った。
野田さんは本当に仕事をくれた。小さなインタビューページだが、カラーの写真を使ってもらえるのがうれしかった。これが私の初仕事になった。
それから急に歯車がまわりだすように、他の雑誌からも仕事が来るようになっていった。
勢いに乗った私はさらに大きい仕事求めていた。ちょうどそんなときに、広告界では知らない人はいない有名なアートディレクターに作品を見せることになった。
アートディレクターの事務所は青山のキラー通りにあり、できる人間の象徴のようなマンションに事務所を構えていた。
約束通りの時間にチャイムを鳴らすと、美人アシスタントが笑顔で招き入れてくれた。
有名アートディレクターは黒いハットをかぶり、髭を小綺麗にカットし、銀縁メガネをかけた40代くらいの人で無表情にみた。名刺を出し挨拶してすぐに
「じゃ、見せて」とそっけなく言ったので、私は慌てて作品を鞄から出した。
「ああ、座ってそこ」アートディレクターは、カッシーナの皮張りのソファーを指さしながら写真をめくっていた。
私のお尻がカッシーナについてすぐに、
「この写真からは音が聞こえないな・・・」と
ディレクターは言った。そして最後まで作品を見ず閉じた。
私のお尻はカッシーナの感触を味わうのも許されなかった。
お尻から上半身へ、徐々に体全体が硬直していき、体全体が石になっていくのを感じた。
カメラマンイコール食べていく為に一番性にあっている。というのが本音だった。彼は写真好きではない私を一瞬で見透かしていた。
私は写真が好きというのではないかもしれない、しかし、この仕事と馬が合う。とでもいうのか、
写真を撮っているときのアドレナリンの出かたが尋常ではないことが快感だった。人生でそんな思いをしたことは写真以外になかった。
左目をつぶり、右目でファインダーを覗く。
自分とレンズ越しの存在。現実だけど、全部が嘘に見える世界。一枚一枚、刻むように撮る。同じような瞬間の中になぜか、「撮れた」
と思えるときがある。
皆が言う、良い写真の意味はわからないし、正直写真そのものより撮っている行為だけが好き。その瞬間は唯一、私が人に気を使わずに自分を主張出来た。
私は撮影のたびにその瞬間に全神経を集中させるためか、家に戻ると倒れこむように眠った。
しかし、写真が大好きということでも、カメラの機械が好きというでもない私はいつかそんな自分を見透かされる事がわかっていた。
「この写真からは音が聞こえない」という言葉を私なりの解釈をすると、
「お前、写真に愛もないのになんとなくプロになって、飯食っているなよ!」という訳だろう。私は固まった体から笑顔を必死に作った。
「お時間をいただき、ありがとうございました」返された作品を素早く鞄にしまった。
アートディレクターはコクっと首を曲げ「ども」と無表情に言いながら、そのままクルっと背を向けて自分のデスクへ歩いていった。私はその後ろ姿をぼんやり眺めた。
外へ出ると、西日はビル群の陰に隠れていて歩道は影になっていた。緩やかな上り坂、なかなか駅にたどりつかなかった。三つ目の横断歩道で立ち止まると、ポケットから着信を知らせる振動がした。
頻繁に仕事をくれる編集の
鈴木さんだ。
「この人このタイミング・・・」あまりに大きい声でつぶやいてしまったので、周りの人がいぶかしげに私を見た。
「おつかれさまで~ス。鈴木です。仕事お願いしたいですけどぉ」その声はいつもと変わらず軽いタッチの声だったので、私のげんなり気分を多少やわらげた。
鈴木さんは、急ぎの仕事だから打ち合わせを早くしたいと言ってきたので、そのままキラー通りにあるカフェで会うことになった。
カメラマンの友人達はそれぞれに特色があり、商業的なものをベースに活動するひと、写真作家というアーティストとして個展を開き写真集を出したりして、純粋に自分の好きなものを撮ってそれを売っている人。また、その両方を上手く両立する人がいた。
私はどこにもあてはまらない中途半端なカメラマンだったが、幸運にも順調に仕事が舞い込んできていた。
順調とは?なんであろう?私ににとっては食べていけて、そこそこ好きなものが撮れる。ということだろう。
「偽物」という言葉が頭で響く。これからも同じことの繰り返し。
いつも自分の中のなにかが
耳の中で囁く。
このやっかいな幻聴はいつまで
続くのか?
「私は何がしたいのか?」
自分の偽物の情熱がばれる事が
いつも怖い。
いつまで逃げる?何から
逃げているのか。
「このコダックのペーパーあと5箱ないの?俺、これじゃないとプリントしたくないンだよね」
ヨドバシカメラの店内中聞こえる声は聞きなれた声だった。友麻は声の方に目をやると、スタジオマン時代の先輩の八木だった。
相変わらず誰にでも馴れ馴れしい口調だ。私は、
「八木!」と大きな声で呼んだ。他のお客は一斉に友麻を見た。
「おおお!!お前!元気か?恥ずかしいから大きい声で名前を呼ぶなよ」八木はさらに大きい声で、私をたしなめた。
「いやいや、八木ほどは声張ってないし」とニヤッと笑った。
八木はお目当てのコダックペーパーの予約をし、店員さんに「よろしくね」と友達のように頼んだ。八木は基本、分け隔てなく誰にでも馴れ馴れしいが、なぜかあまり人に嫌われない不思議な男だ。
八木は私に、久しぶりだから俺がおごってやる。と、新宿のヨドバシの近くにあるハイチカレーの店に誘った。地下にある店は少し薄暗く、香辛料のにおいがたちこめていた。八木は座ってすぐ、ハイチカレーとコーヒーを頼んだ。私も同じものを頼んだ。「あっコーヒー先持ってきて」八木は大きな声でいってから、ぐりぐりした目で私を見て、
「元気かおまえ!写真撮っているか?」
「まあまあだね。
仕事はしているよ」
「仕事はどうでもいいンだよ。写真撮っているかっ?て聞いているの」
「だから仕事で撮影している」
私は少し煙たい顔をして
八木を見た。
「お前ダメだ!仕事と自分の写真撮ることと違うから、お前は根本的にダメ!お前、何を目指してんの?何になりたいの?」
さらに大きい声で言った。
「はっ?目指す?とか何になりたいとか、私は仕事しているの」ムキになって答えた。
「ほんとお前ダメ!仕事とか言っても、完全に商業的な写真でもなく中途半端だろ。お前の写真、雑誌で見たぞ。あれじゃ、ダメ」
八木はとにかく何度もダメ出しを繰り返した。
この目の前にいる写真に熱い男を羨ましいと思うと同時に、違う生き物を見ているような感覚になっていた。私が話を変えようとすると同時に、カレーが運ばれてきたので、少しほっとして
「八木いただきます!」
と笑顔で言った。
八木は「おお食え」と、先輩風を吹かせながらいった。
八木は商業的な写真。いわゆる仕事の写真は、納得のいくものしか仕事をうけず、当然それでは生活していけないので、配送のアルバイトをしていた。そしてアルバイト中に出会って、興味をもった、デコトラの写真を撮ることをライフワークとしていた。
私は八木から言われた
「何になりたいの?」というのが、やけに耳に残った。
「八木はさあ、何にそんなに熱くなっているの?カメラが好き過ぎるわけ?そこまで人生ささげて八木こそ何をめざしているの?」
八木はカレーのスプーンを置いて、すこし首を右にかしげながら目をグイっとくりだしていった。
「俺はな、おれの知らない世界を見たいの。そのために写真ていう手段を使っている。デコトラを撮って、それに乗っている人の人生にも向き合って写真を撮る。そこで感じたものを撮っているの。俺は俺のために撮っているの!わかる?」友麻にはとてもじゃないが、歯が浮くようなセリフを八木はまっすぐに声に出して言った。
その空気に少しためらってから
「わかるけど、わからない」
無表情に答えた。
「はっ?はっ?何それ!?わかりたくないってこと?」八木は前のめりで質問をした。
「はいわかりたくないです」
無表情に答えた。
八木は正面に向いていた姿勢を、斜めに座りなおして、傾けた首をまっすぐに戻し、背もたれによりかかって、少し息をはきながら、
「まあ、それぞれあるよな!お前はお前で頑張れよ」コーヒーを飲んでからニッコリ笑った。
八木はよく頑張れという言葉を使う。そして、この男は自分のことが大好きだ。同時に目の前にいる相手と本気で向き合うのも好きな男なのだ。それしかできないのかもしれないが、その心地良さも、悪さも感じる。それがこの男の魅力なのだろう。今の感情はなんだかわからないけど、悔しいし放っておいてほしい。という気持だった。
店を出て、八木は別れ際に「じゃあまたな」小さい声で言った。八木はいつも別れ際だけ声が小さかった。
大道りから少し入った所に、鈴木さんと待ち合わせしたカフェがあった。雰囲気はカフェというより、昔懐かしさを感じる喫茶店だった。歩き疲れたうえメンタルも打ちのめされていた私は、感じのいい夫婦の接客と懐かしさを感じる喫茶店の居心地良さに、すっかり和んでいた。
コーヒーを2,3口飲むと、鈴木さんはあらわれた。
「遅くなりましてー、ここ感じいいですよね?」軽めな口調で鞄を床に置きながら座った。
「あっはい。お疲れ様です。すっかり和んでいます」馴染みの人間に会えたのが心から嬉しかった。
私は鈴木さんに有名ディレクターに会いに行って、ほぼ門前払いだった話をした。
「写真から音が聞こえないって!なんですか?俺にはよくわかんないですけど、じゃあ、あれですよ!作品のページをひらくと、音が出るように仕込んで、ほら、あのー誕生日カード開くとハッピーバースデー流れるみたいな!あんな感じにしたらいいじゃないですか?」
と鈴木さんは顎をつき出しながら妙案を言ってきた。
「えっ?」ニヤつきながらいうと、
「いやまじなんですけどね」鈴木さんが口をとがらせながら答えた。
「いやーそういうことじゃ、ないかと・・・」
「いや、いや、そういうことでしょ!」鈴木さんは力強く言った。
鈴木さんはいつも軽いタッチだが、私にはない能天気な人なので、彼との仕事は楽しかった。
「そうですよ。これで間違いなくディレクターも良さがわかりますよ」鈴木さんは謎なアドバイスを自分で納得し、頷きながらコーヒーを飲んだ。
「で、お願いしたい仕事なのですけど、これっ」海外の雑誌の切り抜きを机に置いた。
「こんな感じで、というか、これと同じように撮ってくれませんか?」
「えっ?これと同じ?・・・」
「ハイハイ完コピで。」
「えっ?いや、こんなイメージってことですよね?」
「いや、シチュエーションも光の感じも完コピのほうがいいですね」
「それは・・・」
「ああ無理?光の感じとか、難しいってことですか?」
「いや完コピできるけど、そういう事じゃなくて・・・」
「えっ?できるなら決まりですよ」
「は・・い」と私は返事をしていた。鈴木さんは全く悪気なく言っているのが分かっていた。
私は結局そういう偽物カメラマン・・・か。
冷めてしまったが妙にコクのあるコーヒーを一口飲んだ。
「皆既日食知っている?動物がね、日食の時、急に動きが止まるらしいよ。見たくない?日食」
とケイちゃんは興奮気味で話してきた。ケイちゃんの話だと、次の日食は来月南の方のアフリカで見られる。という事だった。私は写真を撮りたい気はなかったが、旅行に行きたいと単純に思った。しかもアフリカなんて、ケイちゃんに誘われなければ絶対に行かないというか、一人では怖くて行けない土地だ。即座に
「うん。見たい」と返事をした。
「じゃ、決まりね、私、どんなレンズ持っていこうかな?」ケイちゃんははしゃいでいた。ケイちゃんは旅慣れた人だ。スタジオの先輩で、旅をし、行った先に長く滞在してその土地のリアルな日常を、ロードムービーさながらに撮るカメラマンだ。そのフットワークの軽さと映画のような写真にいつも感心していた。いわゆる写真作家だ。
もちろんケイちゃんの旅は行き当たりバッタリなので、何も決めずにロンリープラネットを片手にフラフラといくというスタイルだったので、それに従うことにした。私は旅慣れてはいなかったので、かなり不安ではあったが、ケイちゃんについて行くということになった。私の滞在期間は1か月。ケイちゃんはもっと滞在するという事だった。
ケイちゃんと私は12時間のエコノミークラスの旅を経て、南アフリカのヨハネスブルグに降り立った。ケイちゃんもヨハネスブルグは初めて来たらしく、目を輝かせて
「世界一アブナイらしいよ、ここ!」と左の口角だけあげていった。私は引きつりながら「へへ」と、へんな笑い方をしながら周りを
見渡すと劇画タッチの眼光鋭い人たち、ゴルゴ13の漫画でみたことがある風景が広がっていた。
「ケイちゃんあたしの想像以上だよヨハネスブルグ、こんなところでカメラ出したら撃たれるね」
半ば、本気で言った。
「うんうん!たのしいねえ。リアルゴルゴ13だよね、実際!」ケイちゃんはやはりはしゃいでいた。
ケイちゃんによると、ザンビアにいくには、まずはジンバブエにバスで行き、そこから列車で、ザンビアに向かうというルートだそうだ。今日はジンバブエに行くには遅い時間になるので、ヨハネスバーグのドミトリーに泊まることになった。空港まで宿の人が迎えに来てきてくれるというので待つことにしたが、「絶対に空港の外に出て待たないで」ということだった。空港には、セキュリテイーの人がゼッケンをつけて立っていた。その人達にチップを渡して、タクシー乗り場なりに付き添ってもらわなければ非常に危険といわれた。海外経験の浅い私は震え上がってしまったが、ケイちゃんは俄然やる気の顔で電話の相手に「オッケー」と、軽快に返事をしていたので、出だしから帰りたくなっているのをケイちゃんに悪い気がして、必死でその気持ちを立て直そうとしていた。
30分後にピンクのゼッケンの男に付き添われた40代くらいの細身の白人の女性は、ターミネーターに出てくるサラコナーにそっくりだった。ハスキーボイスで「ハアーイ」とサングラス越しに言った。私達の名前を確認し、車へと案内した。やはりゼッケンの男が付き添った。建物から車まではほんの数十メートル。宿主は車に乗ると男にチップを払った。
マフラーから、けたたましい音のする車だった。故障しているが直していないのだろう。運転しながら宿の主だという女性は、ヨハネスブルグの観光名所の案内を早口の英語でしていた。丸い高層ビルを指さし、「このビルは殺人、麻薬、あらゆる犯罪、自殺と、ホントに危険だから絶対近寄らないでね。ここは、スーサイドビルって呼ばれているの」と、金髪の髪をなびかせながら振り返って、ウインクした。
またもや日本に戻り帰りたくなる気持ちを抑えて苦笑いをうかべ、丸いビルの一番上にある、妙にキラキラした電話会社の看板広告を見つめた。ケイちゃんはあのビルの中はどういう作りなのか、などを前のめりで詳しく聞いていた。マフラーの爆音にも慣れた頃、門にセキュリティーがいる宿についた。
二段ベッドの上下のドミトリーが与えられた。
緊張の糸が切れたように外国の洗剤のにおいのするシーツへ倒れこんで、マーキングのように顔をシーツにごしごしつけた。
ケイちゃんは「私、情報を仕入れてくる!」と階下のリビングへ行った。私はそのまま眠ってしまった。
私は急に目が覚め、何時間経ったのか?一瞬どこにいるのか、わからなくなって飛び起きると同時に、2段ベッドの木枠に頭をぶつけた。
「んがぁっ!」声にならない変な音で叫んだ。2段ベッドの下側なんて小学校以来だったのですっかり油断していた。幸い他のベッドには人がいなかったので、誰かを起こすことはなかった。部屋の中は薄暗くなっていた。時計を見ると16時をすぎていた。2時間くらい寝ていたらしい。
階下に降りるとケイちゃんはイスラエルから来たという若い男と話していた。私も彼に挨拶をした。気さくに話す彼はイスラエルから世界中を旅しているらしい。彼によるとイスラエルは情勢が不安定だから、若者が自分の国より住みやすいところを探して世界を旅行していることが多いと言った。
私はイスラエルの事や、どんな旅をしているのかを食い入るように聞いた。
自分より年の若い彼の方が世界情勢に詳しく、
私は自分の無知を恥じた。
彼はいろいろな国の旅話を聞かせてくれた後、明日の朝早いから寝るね。と言って宿の庭へ出ていったので、びっくりしていると、ケイちゃんが笑いながら
「テント持ってきているから庭先に泊っているの。料金もそれなら格安だしね」といった。
ケイちゃんが、思い出したように、あっ!という顔で
「私たちもテントあるから、節約のために今度の宿から庭に泊まろ!」とニコニコで言ったので、「えー・・・うん」あからさまに、乗り気でない返事をした。
「大丈夫だって!」とケイちゃんはニッコリとしながら
肩を叩いてきた。
私はもう後戻りは出来ないと覚悟を決めるしかなかった。
ヨハネスブルグの早朝は涼しく、空気が乾いて空はまだ白白としていた。ハスキーボイスの宿主が雑な感じで淹れてくれたコーヒーがやけにおいしかった。太陽がじりじりと顔を出しはじめた頃「そろそろ時間ね」とハスキーボイスで言って、机の上に投げて置いた形のままのかぎを持った。
ジンバブエ行きのグレイハウンドバスの乗り場まで送ってくれた。爆音の車に乗り込み昨日の「スーサイドビル」の前を通った。ビルの外側は一見裕福な人が住んでいるような高層ビル。友麻はそのビルを見ながら「油断禁物」とつぶやき、この旅から生きて帰ることを
心に誓った。
バス停につくと、宿主はくれぐれも油断するなとハスキーボイスで言うと、けたたましい音と共に去って行った。ケイちゃんはずんずんとチケット売り場に歩いて行ったので、私は走ってケイちゃんの後を追った。
ジンバブエのブラワヨというところまで行くというので、言われるがままにチケットを買い、バスに乗るとほぼ満席。座席は狭く、やけに冷房が強風で当たる位置に座ってしまった。
「冷房きついから毛布もらってくるね」ケイちゃんは即座に運転席の方へ歩いて行った。
ケイちゃんはホントにたくましい。人生の一秒一秒を軽快な音をたてて、刻んでいるようだった。
私はケイちゃんに、おんぶにだっこになっている自分が
はずかしかった。
ケイちゃんは、運転手から毛布を受け取ってもどる途中、早速周りの乗客と話して爆笑していた。ケイちゃんが席に戻ってくるなり
「わたし、嘘ついちゃった!」と言ってきたので首をかしげた。
「あのね、皆がJICA?って聞くから、そうです。って、答えたわけ。その方が安全そうだから。日食見に来た観光なんて狙われそうだからさ、海外協力隊ってことにしたの。だから話し合わせてね!協力隊っていったら、めちゃくちゃ歓迎ムードだったよ。協力隊さまさまだよね。実際」
とニヤリと左の口角をあげた。私はその話にあっけにとられ、ただただ頷いていた。
偽JICA達は周りの乗客をだましながら、すし詰めバスで17時間の道のりを楽しむことになった。
バスの中にトイレはついていなかったので、何度か、かなり田舎町の商店の並ぶ休憩所に止まった。が、しかし、トイレが壊れているらしく、草陰で用をたさねばならないことになった。蛇がいるかもしれないから気を付けるようにと、隣の席のおばちゃんから言われた私は、またまた気がめいったが、だんだんこの状況に一喜一憂するのにも体力を使うことがわかりはじめたので、まずは体力を温存するために、いちいち驚くことをやめようと努めた。蛇は怖がりなので、音を出せば逃げると教えてもらったので、ガサガサとわざと大きな音を出して草むらに侵入し無事に用を足した。私は草むらで用を足すくらいで成し遂げた感を得て、少し大人になった気分になっていた。
バスに戻ると、何やらバスが騒がしく、運転手と車掌がエンジンルームを開けてさわいでいた。ケイちゃんはいち早く情報を仕入れていたらしく、「エンジン故障して動けないって」とまたもや残念なお知らせを知らせてくれた。私は草むらで用を足して、多少大人になっていたので、「へーじゃ、商店にお菓子買いに行こうよ」と余裕な返事をした。
「おおお!友麻調子出てきたね?いろいろあきらめてきたね!そうそうあきらめ大事だから、実際!」ケイちゃんは、私の肩に肘を乗せニコニコ笑ったので、私は左の口角を上げてニンマリした。
エンジントラブルはそこから、なんと夜を徹して7時間続き、運転手と車掌もいい加減疲れたのか、明け方には二人とも座って寝ていた。そして、夜が明け、7時をまわったところで、運転手から、もう直らないので、ここから乗り合いタクシーで行ってくださいとアナウンスが車内にひびいた。まったくもって考えられないが、「はい」と寝ぼけながらそのアナウンスに返事をしていた。ケイちゃんは早速、乗り合いする人を探していた。私はその姿を見つめながら、地球に危機が来て、人類が壊滅状態になっても、最後の一人になるのだろう「実際」とケイちゃんの口癖をつぶやいた。
ケイちゃんはさすがの話術ですぐに、乗り合い仲間を連れてきた。体格のよろしいニコニコと笑う人柄のよさそうなおばちゃんと3人でブラワヨへ仲良く向かった。おばちゃんは出稼ぎで、ヨハネスバーグに来ていたらしく、久しぶりに家族に会うとカラカラと軽快に笑っていた。40分位でブラワヨに到着し、おばちゃんとハグをして別れた。
たぶんブラワヨの銀座と思われる通りに降り立ったのだが、街並みは昔のイギリスの植民地時代の名残の建物が建っていて、さびれていたが、美しい街並みだった。観光客らしき人は皆無だった。
ケイちゃんと私はまずは、宿探しをすることになった。天気も良く街並みの美しさも手伝ってか、ヨハネスバーグのような緊張感は街には漂っていなかった。大きな樹の下のベンチに座り、ゆっくりロンリープラネットを広げて探すことになった。私はアフリカに来てやっとほっとしたような気持ちになった。1泊1人1000円の宿に泊まることにしたが、ブラワヨに4泊滞在する予定だったので、一人4000円も使うのはもったいないので、2泊ホテル2泊は近くのキャンプ場
に寝泊まりすることになった。ホテルに行くと、だいぶ暇らしく、すぐに部屋に案内された。部屋は広く、予想に反してキレイだったので、2人は子供のようにベッドへ飛び込んだ。ゴロゴロと転がりながらケイちゃんが下のバーへビールを飲みに行こう。と提案してきたので、私も、もちろん行く!と飛び起きた。
階下にあるバーは地元のスポーツバーという感じだったので、地元の人が4,5人でクリケットを観戦しながらチブクというコーンを発酵させた、どぶろくのようなものを飲んでいた。ケイちゃんはチブクに興味深々だったが、まずはビールを飲もうとビールで喉を潤した。久々にリラックスした気分のビールの味は何ともいえず、「生きていてよかったね」と本気で心から思えた。しかし、ここジンバブエは独裁政治が続いているうえ、インフレにおちいっていて、10ドルをジンバブエドルに換えると、相当大量の札束に換金される状態だったので、南アフリカよりよっぽど危険なのだが、思ったほど殺伐としてはいなかった。いや、アフリカに慣れたというほうが、正しいだろう。とにかく人間は慣れる生き物だと確信した。
黒人の中にアジア人の女子2人がビールを飲んでいることはかなりの違和感なのか、やはり「J I CA?」と聞いてきたので、またもや、「イエス!」と2人で元気に答えた。
最早J I C Aは、2人の中では安全のおまじないと化していた。
男性の髪型は、坊主か短髪がほとんどだったが、一人だけドレッドヘアで髭を三つ編みにしているおじさんがいた。
「アイムピーター」と人懐っこく話しかけてきたので、なんとなく一緒に飲むことになった。やはりボブマーリーを心から尊敬しているらしく、いずれは、ジャマイカに行ってみたい!と熱く語っていた。洋服作りの仕事をしているが、あまり仕事がなく、ジャマイカに行くのは夢だね。と少し諦め気味に話した。ピーターは漢字に興味があるらしく、ピーターという漢字を書いてくれといわれたので、ケイちゃんと当て字を考えていると、
「あっ池畑慎之介!は?」とケイちゃんは早速、紙ナプキン書き始めた。
「そうだけど、だめでしょやっぱり」と即座に、却下した。
しばらくケイちゃんはゆずらなかったが、これでタトゥーでも入れて、万が一「日本のピーター」が見たらどうなの。という話になりケイちゃんは渋々納得していたが、よほど気にいったのか、それ以降ピーターの事を「しんちゃん」と呼ぶようになった。「しんちゃん」は明日の朝自分の家に遊びにおいでというので、少し怖かったが、ジンバブエ人のリアルな生活をみたかったので、遊びに行くことにした。
朝になると「しんちゃん」は時間通りにやってきた。自宅にはお母さん、弟3人、妹と妹の子供で暮らしていると聞かされた。ホテルから歩いて3分位の古いが英国モダンな造りのアパートに到着した。私は正直かなり警戒していたので、逃げるような事になった時の脱出ルートをシュミレーションしながら家の中に上がった。
古いが小綺麗にされた部屋にあがると、リビングに案内された。かなり年季の入った茶色のソファーでくつろぐ赤い生地のカンガのワンピースを着た笑顔の優しい老婦人が座っていた。「しんちゃん」のお母さんだ。老婦人の第一声は、
「シスターようこそ、はじめまして、あなたのお母さんはお元気?」だった。
私は、シスターと呼ばれたのがなんだかうれしいのと
「お母さんはげんき?」という挨拶に面食らって、照れながら
慌てた顔で
「はじめまして、母は元気ですあなたは?」と答えた。
「グッド グッド」と言いながら、両手で包むように握手をしてきた。手はしわ深く、手のひらの指の付け根のまめが硬く強い、あたたかな手だった。
その後続々と家族が出てきて挨拶をした後、「しんちゃん」は部屋を案内してくれた。2LDKの部屋は非常にせまく、「しんちゃん」と弟たちは4人で1部屋だった。部屋にはシングルのベッドとセミダブルのベッドをつけてあり、ミシンや弟の机も置いてあるので、足の踏み場もなかったが整理整頓がされていて綺麗だった。
「しんちゃん」は自慢げにボブマーリーのポスターを指さしてから、手をグーにして胸を2回たたきながら「アイリー」とニコニコしながら言った。友麻は意味がわからないので
ケイちゃんに意味を尋ねると、
「最高!とか!楽しい!」みたいな意味かな?パトワ語、ジャマイカ語だよ。と教えてくれた。
ラスタマンは菜食主義で、お酒も飲まないから「しんちゃん」どちらも嗜んでいるからラスタマンというよりボブのファンだね。とケイちゃんが言った。どちらにしても、憎めない人懐っこい人だった。リビングに戻ると、おかあさんが紅茶を淹れてくれて、どうぞとソファーに座らせてくれた。
日本の家族の事、文化について聞かれ、ジンバブエの今の状況を嘆いてはいたが、今を生きるしかないから、日々を楽しく過ごしているの。と優しく微笑んでいた。そして最近「しんちゃん」のお姉さんにあたる娘さんをエイズで亡くしてしまったことも話してくれた
私はお母さんにかける言葉を英語で言うと軽くなるので、あえて、うんうんとただ頷いて聞いていた。
「ねえ、いまからさ!スーパーに買い物行って昼ご飯を作ってあげようか」とケイちゃんが私の腕を掴んで、目をクリっとさせながら口角をあげた。私は即座に
「いいね。日本食ってなんだろ?よくわかんないから、野菜炒めとかでいいか?ケイちゃん醤油持っていたよね?味は醤油だね」
しんちゃんにスーパーに連れて行ってもらったが、連れて行ってくれたスーパーは一般の人が行くスーパーではなく、米国ドルやカードが使える高級スーパーだった。ここで買い物をしなければ物を買うのに大量のジンバブエドルが必要なので、外人はここが良いということだった。スーパーは物がなくガランとしていた。しかし、なんとか、小さいキャベツ、ヤングコーンとジャガイモ、牛肉を手に入れた。
しんちゃんの家に戻ると何故か近所の人が数人集まっていた。日本人が何か作ってくれるという話を聞いてぜひ自分たちにも食べさせてくれということで集まっていた。
私とケイちゃんは茹で卵入りの肉野菜炒めとこふきいもを作った。なんてことないものだったが、醤油味をとても気に入ってくれ、すこし大げさ過ぎるくらいに喜んでくれた。
ケイちゃんは
「偽JICAの初活動だね!」と左の口角を上げたので、私もケイちゃんを真似て口角をあげた。
小さな事、何でもない事。普段なら、気にも留めないことを気に留めながら毎日を過ごすことは旅行の醍醐味。しかしこの旅で体験する一つ一つは普通の旅行より、私には新鮮でディープだった。
ケイちゃんと私は初のテント生活をするため、ブラワヨセントラルパークキャンプ場に向かった。キャンプ場はかなり頑丈な柵で覆われた大きな公園だった。拳銃をもっている人が在中していたのでかなり安心な場所だった。その上日本円で一人106円くらい。シャワーはホットで、トイレも綺麗だったので、ケイちゃんと小躍りしたほどだった。
テントは二人用の小さなものだったが、ドミトリーに泊まるより、プライベートがあるので快適だった。食べ物は「しんちゃん」が紹介してくれた、外人スーパーでお菓子を買い込み夜はテントでゴロゴロすることになった。「しんちゃん」からくれぐれも夜は出歩くな。公園の外は治安が最悪と教えられていた。セキュリティーがいるとはいえ、公園内も…。と不安だった。夜は当然のことながら真っ暗でたまに公園の外で酒に酔った人が、大声をだしているのが聞こえたが、満天の星空の良い夜だった。昼間は暑いが夜になると日本の秋のような気候になる。テントの天井を開け、地元酒チブクを飲むことにした。ケイちゃんはお菓子をポリポリ食べながら
「なんかさ星って改めて見るとすんごい数だよね。こりゃ宇宙人いるね」とお菓子のカスがついた
指をなめた。
「うん。まあいてもおかしくない数の星だよね。」私は牛乳パックのような容器に入ったチブクをあおった。チブクは地元の人はパックの口から直接飲むのが当たり前だったので、私とケイちゃんは地元の作法に従っていた。チブクはいわゆる、どぶろくで少し酸味のある癖のある味だが、私の口に合って好んで飲んでいた。
「ケイちゃんはさ、カメラマンたのしい?」私は少し酒に酔っていた。
「ん?楽しいっていうか、やりたいことをやっているだけだよ」
「だからたのしいんでしょ?」
「ん?まあそうだね。だけど、カメラマンでなきゃ駄目だなんて思ってないよ」
「じゃ、違うことでもいいの?」
「うん。面白いと思って、それをやりたくなったらそっちにいくけど」
「でも、ケイちゃんの写真はケイちゃんらしいっていうか、自分を持っているっていうか
なんていうの・・・」
「らしいとか、らしくないとか、どうでもいいよね。実際」
「私の写真には・・・らしいとかがないから」
「人はあなたらしいとか、唯一無二とか、天才とか、何とか、いろいろ適当にいってくるけどさ、自分が楽しいと思えることして、自分が納得すればそれでいいんじゃないの?人の意見はいつもてきとーだよ。人なんて当てにならん。そんなもんに惑わされんなって感じ」
「私は自分らしい写真が撮れないから、誰かの写真の真似を頼まれるカメラマンになっている。そんな仕事がくるんだよ。ケイちゃんにはそんな仕事こないでしょ?」
私は八木に言われた「お前は何目指してんの?」という言葉を思い出して悔しくなっていた。
ケイちゃんはお菓子を食べる手を止めてゴロンと寝ころんだ。
「友麻さあ、なんでも笑いにかえている?どんなことでも、笑いにする。これ大事!」
「・・・」
「どんなことでも笑いに変えるって結構センスいるわけ。これを磨いたほうがいいよ」
「・・・意味わかんない」
ケイちゃんは、ひゃひゃひゃっと声を出して笑って
「あっそう」と言ってからグミを食べた。
ケイちゃんの言っていることがよくわからなかったし、なんの解決もなかった。
「笑いかあ・・・」
と息を吐きながら呟いて横を見るとケイちゃんはすでに目を閉じて口を開けて寝ていた。
「あんたほんと・・・歯も磨かないで・・」私はケイちゃんが心から羨ましかった。
私は自分のめんどくさい性格に飽き飽きしながらチブクをあおった。
顔に刺さるような熱いものを感じて目を開けると、強烈な光線がテントの天窓から差し込んで私の顔に直撃していた。目を閉じても瞼にオレンジの残像が強烈に残ってグルグルまわってコメカミの奥が痛くなった。目をしょぼつかせながらテントから這い出ると、湿気のない風が吹いていた。
ケイちゃんはすでに起きてシャワーを浴びて帰ってくるところだった。
洗った髪をタオルでターバンのようにうず高く巻いて無防備に歩いてやってきた。
「友麻おはよう!シャワーちゃんとお湯が出るよ!すごい快適だねここ!トイレも綺麗だし」と、通る声で言った。
「おはよう・・・」私はまだ寝ぼけていて、ここがどこなのか?わからなくなっていた
「だいじょうぶ? ここそんな無防備で?」
ケイちゃんのいかにも銭湯帰りのような姿を見ながら、光に慣れてきた目を少しずつ開けながら言った。
「大丈夫。だいじょうぶ。だって、全然、人いないもん」とケイちゃんは芝生にあぐらをかいて座った。確かにテントを張っているのは2人だけだった。
「ああ、まあね。じゃ、いいか、あたしもシャワー行ってくる」とごそごそとおふろセットを持ち出し、私もまた銭湯にいく姿でのそのそとシャワーのある建物に向かった。
シャワーの建物はコンクリートできちんと作られていて、シャワーの個室が4つあり掃除がいきとどいていた。
「日本の海の家のシャワーよりよっぽど綺麗だな。アフリカあなどれん」とつぶやいた。
ジンバブエも残すところあと1日。明日にはザンビアへ電車向かうことになっていた。
とくに観光をしていないので、街を歩いてみる。ブラワヨの町はとくになにもなかったがジンバブエの第二の都市なので、古びているがビルも空を邪魔しない程度に、ちらほら建っていた。英国の植民地時代の建物も残っていてむしろおしゃれだった。情勢が不安定な国なのに、歩く人ものんびりしていて荒廃している感じはなかった。
特に観光客もいないので、しつこい客引きもいない。散歩するのに丁度良い街だった。
最後なのでと2泊した宿の下にあるバーに行ってみるとまだお昼過ぎだが、同じメンバーがクリケット観戦していた。ケイちゃんと私はトーストを頼んで食べていると、「しんちゃん」が店に入ってきた。ケイちゃんは
「アッしんちゃん!」と日本語でいうと、「しんちゃん」もその呼び名が自分の日本語ネームと認識しているらしく
「イエス!シンチャン!ワッツアップ!ガイズ?」とくしゃっと笑った。
しんちゃんにこの前のお招きのお礼でビールをおごった。明日旅立つことを伝えると、見送りに行くというので、「仕事は?」と尋ねると、今日も明日も仕事がないから暇なんだというので、明日駅まで一緒に行くことになった。
「しんちゃん」は最後にどうしても、「ピーター」の漢字を知りたいというので、漢字の当て字は今からはダサい!からこれからはカタカナだよ。と紙に「ピーター」と
カタカナで書いた。それを見た
「しんちゃん」は「オオマイ!」と感嘆の声をあげ、見入った。ケイちゃんが「アーユーハッピーナウ?」と聞くと
「イエ~ス」と顔をくしゃっとさせて子供みたいに笑ったので、皆でもう一度乾杯した。
快適なキャンプ場ともお別れの時。今日からはまたアフリカをサバイブする日々の始まりだ。
「ケイちゃんここの生活がこの先懐かしくなる日がくるね」
「すべてはなすがまま。いつも楽しむのみだよ」
とケイちゃん淡々と言いながら、テントの骨組みを袋にしまった。
キャンプ場の警備のおじさんとも仲良くなっていたので、別れ際に握手を硬くした。
しんちゃんは自宅から遠いのに、キャンプ場前で待っていた。
駅までは長い道のりを3人でゆっくり歩いて向かった。特に話すことはなかったので、
会話はしなかったが、「しんちゃん」はボブの曲を次々と歩きながら歌ってくれたので、長い道のりはボブのライブさながらだった。
「しんちゃん」とはおそらくこの先一生会わないだろう。
駅に着くと、列車はすでに乗車できるようで30分後に出発だという。「しんちゃん」は列車が出るまでいるというので、私達もギリギリまでホームにいる事にした。しんちゃんにはお礼に6本入りの箱ビールを渡した。
特に何も話さず、ベンチに座り、3人でホームから景色を眺めていた。鳥が「ぎゅあー」という聞きなれない声を出して鳴いているのがたまに聞こえてきた。ボーと座っている時間がなんとも贅沢に思えた。
錆びた鉄をこすり合わせたようなじりじりという音を出して出発のベルが鳴ったので、私とケイちゃんは列車に乗り込んだ。寝台車の廊下の窓際に行くと「しんちゃん」のドレッドの頭頂部が見えた。「しんちゃん」と二人は叫んだ。窓から顔を出して「シーユー」とケイちゃんが言うと、「しんちゃん」は眉をへの字にして切ない表情で「最後にビール代ちょうだい」とシュールな事を言ってきた。「ノー!」笑いながら言うと同時に列車は出発した。「しんちゃん」は走りながら列車を追いかけて「ビール代ちょうだーい」と言ってきたので、「ノー!しんちゃん、シーユー」ケイちゃんが手を振った。「しんちゃん」はくしゃっと笑って
「バアーイ!」と叫んで胸をたたきながら列車をみつめていた。
「まったく感動的でないとこがいいね!結局ビール代かい!」ケイちゃんのひゃひゃひゃという笑いにつられてひゃひゃひゃと笑った。
「しんちゃん」のドレッドヘアが遠くに小さく見えた。
これから14時間の列車の旅。私達は寝台車を2人用のコンパートメントで買っていた。車内はかなりクラッシックなつくり、列車内の通路は窓が全開で冷房はもちろんなかった。ドアを開けると部屋は硬そうなビニール地の二段ベッドになっていた。水道はないが折り畳み式の洗面台があり壁には、長年飾りすぎて、日に焼けた象やサイの写真があった。小窓はやはり全開になっていた。
狭いがまたまた素敵なプライベート空間だったので、
「快適空間来たよ!ケイちゃん」と嬉々としていた。
硬いベッドに荷物を投げて、小窓から外を眺めると、空は金色と薄い青とピンクのグラデーションの夕暮れ。
「おなかすいたね」私がふりかえると、ケイちゃんは車内探検をする為、カメラをポケットに仕込み準備をしていた。
座席の車両に座っている人はまばらだった。深緑色でビニール地のベンチシートは古ぼけていた。アジア人や白人などは全く乗っていなかった。
日本から見たら全くもって衛生的ではない食堂車についた。アフリカ生活に馴染んできた私は、
わりと綺麗だなと本気で思っていた。
サザというトウモロコシの粉をお湯で練り団子状になったものが中央にでんと主食に盛ってあり、シチューがお濠状にかけてあるものをたのんだ。日本で言うシチューご飯である。
私達は外国人なので、スプーンを出してくれたのだが、周りのジンバブエ人たちはサザを握って、親指と人差し指でつくった丸い輪からにゅっとサザを出して反対の指でちぎりシチューに付けて食べていたので、真似てみると、サザが指の輪から綺麗ににゅっと出てこないので、親指と人差し指の周りがサザだらけになった。ジンバブエ人たちは手を汚すこともなく、握っては指からにゅっと出し、もう一方の手で出てきた部分をちぎってシチューにつける一連の動作を美しい所作でこなしていた。
「これ思ったより難易度高いね?」ケイちゃんが手を広げて見せた。
私達の手は5本の指の間からサザが漏れて、紙粘土で遊ぶ子供の手のようになっていた。
「これを帰るまでにマスターするわ」とケイちゃんは妙に意気込んでいた。
全開にしてある窓からは、埃っぽい風が常に外から入ってきていた。外は夕闇に向かっていた。
列車の揺れが急に止まったので、硬いベッドから落ちそうになった。どうやらもう朝らしい。外から叫び声が聞こえるので、二人は寝ぼけながら窓の外に目をやると、物売りの子供や大人が叫びながら線路を歩いている。ビニールに入ったジュースやとうもろこし、マンゴーを売っていた。私は寝ぼけていたので、物売りの光景をぼんやりとながめていた。
「到着まであと3時間あるよ」
とケイちゃんは、ビニール地が所々破けた硬いベッドに転がった。
朝焼けのアフリカは絵葉書に出てくる位フォトジェニックな空だったが、私はなんとなく写真は
撮らず、眺めることにした。
「写真あまり撮ってないな」
やけに赤い空を見ながら
つぶやいた。
「別にいいじゃん写真なんて撮りたい時に撮れば。絵葉書撮りに来たわけじゃないし」
ケイちゃんはグミを食べながらゴロゴロしながら言った。
「ケイちゃんは写真撮っている?」
「うん。撮っているよ。友麻がおなか出して寝ているところとか、酔ってしんちゃんに日本語でからんでいるところとか」
「アフリカかんけいないし」
「うん。面白いから撮っているだけ。別にアフリカきて特別なことしてるわけじゃないじゃん。基本いっしょ」
「まあでも、非日常ではあるよね。こうして移動したり寝る場を確保したりしていくことを日本でする?」
「しないけど、毎日結局、食べて、寝て、出して。基本ラインはかわらないわけで究極言えば、これもまた日常よ」
「そうか?なんかわからないけど」
「気合入れなくいいのよ。なんでもさっ。友麻はまじめだからな。いちいち気合入れて自分を見失うタイプね」
「はああ、なんかその通りなきがするので、悔しいわ」
「ハイハイ、また、笑いに変えて」
「芸人じゃないし」
「そんなもん芸人とか関係ないよ。友麻はお酒入っているとき最強に面白いよ。あのバーでジンバブエ人相手に日本語でトークして、皆意味わからんのに大爆笑していたよ。まじでただもんじゃないな。とおもったよ、実際」
「おぼえてないな」
記憶はすっかり飛んでいた。
「あんた自分が思っているより、大物よ・・・。センスある・・・
酒飲めば」
がはははは。ケイちゃんの笑い声は狭い室内に反響してビーンという音に変わっていた。
「はいはい。酒飲まないと駄目とか、アル中っぽいわ。気を付けよう」
「写真とは?とか、どーでもいいでしょ?」
「まあねえ」私はケイちゃんのトークのペースにいつも押された。
「そんなもんよ」と言いながらケイちゃんは窓辺に行き外を見ながらグミを食べた。朝日の色が、赤から金色に変わっていた。毒々しい緑色のグミとケイちゃんの顔は、金色に光ってよくわからない神々しさがあった。私はカメラを覗いてシャッターをおした。
乱暴なブレーキをかけて列車が止まったので、硬いベッドから落ちそうになった。どうやらビクトリアフォールズについたらしい。
「いやあ、やっとこついたな。」ケイちゃんはあくびをしながら列車から降りた。
私もそのあとを、ぴょんとはねながらホームに降りた。
「平和そうだね?」
周りが緑が多いという理由だけでそう思った。
「木陰からやばいの出てくるかもよ。友麻はいらないとこで用心深いわりにこういうところで油断するよね」とケイちゃんは旅をわかってない。という表情で首を横に振りながら私をみた。
「ああそうね。気を付けるよ」面白くない顔をして返事をした。
ビクトリアフォールズの駅は静かで、周りは木々に囲まれていた。
「ここまだジンバブエだから川越えてザンビア側に行かないとだね」
とケイちゃんが言った。
「ザンビアの国境まで3kmってかいてあるよ。国境を越えた橋の辺りからビクトリアフォールズがチラッとみえるらしいよ。」
私は開き過ぎて折れ線がくっきりついたロンリープラネットを
広げていた。
「歩くか!」私は本を閉じた。
「そうね。歩きますか」ケイちゃんもあくびをしながら返事をした。
のんびり歩きだした。緑が多いのは駅のまわりだけで、駅から数歩で乾いた赤土と舗装された道路が入り混じる道と、線路の風景になった。油断はしなかったが、あまり怖い気配はなかった。15分ほど歩いたところは街になっていてにぎやかだったが、またすぐに赤土と線路になった。40分は歩いただろうか?バックパックの背中にじんわりと汗をかいていた。しかし、アフリカは湿度が低いせいか、ひどく汗をかかないので、長距離をあるいてもそれ程苦ではなかった。
遠くにピンクの平屋の建物が見えた。「あれが国境だね」ケイちゃんは私に笑いかけた。道のりが長くて2人とも疲れるのでなるべく会話をしなかったので、久々にお互いに笑顔になった。ジンバブエを出国し、あっさりザンビアに入国した。
この先、リビングストンという町までは遠すぎるし、疲れたという理由でタクシーに乗ることにした。国境からタクシーに乗ってしまったので、ビクトリアフォールズをゆっくり見ることができず、しかも乾季ということもあり写真で見るほど水は流れおちてはいなかった。それも、チラッと見えた。二人はかなりつかれていたので、滝にはだいぶ興味がなくなっていたので
「まあこれでよしとしよう」ケイちゃんはタクシー窓にもたれながら言った。
道沿いに高級リゾートホテルがあり、ジンバブエより豊かなのだろうと勝手に思いながら友麻は窓の外をぼんやりみていた。
20分位でリビングストンの大きな木彫りの像が2体おいてある宿の前に着いた。
この宿は、タクシーの運転手のおじさんが安いし日本人に人気だよ。と教えてくれたので、2人とも歩いて疲れ切っていたので、それじゃそこで、という感じで乗せてきてもらった宿だった。
門構えもなんとなくしゃれた感じであった。1泊だけだったので、多少お金をかけて、ドミトリーに泊まることにした。トイレ、シャワーも綺麗で共有スペース広く、ソファーはふかふかだった。
2人は、クオリティの高さに妙に感心してしまった。
しかも、 宿の前にはカフェやらスーパーがあって、外国人にはたまらなく便利な宿だった。
ケイちゃんは久しぶりの都会の雰囲気にすっかりテンションが上がってしまったらしく、
「スーパー行こう!カフェ行こう!うまいコーヒー飲もう!スーパーでグミ買おう!」
欲望のまま鼻息荒く言った。
「ああハイハイ」
私は落ち着いたテンションで言ったが、本当はテンションが上がっていた。
アフリカで、浮かれたり、あわてたりする日本人2人なんて一歩間違えれば死を意味するので、いつも、どちらかが冷静でいる暗黙の了解ができていた。
翌朝は7時30分発のバスで、いよいよ日食見るザンビアのルサカに向かう。
スーパーやカフェを堪能した2人はそうそうに寝ることにした。
ベッドのマットレスに寝るのはいつぶりだろう?と2段ベッドの下に潜り込みながら思った。
良いマットレスなのか、体は沈み過ぎず、反発されすぎない弾力のマットだった。
2段ベッドの上から
「ちょ、これ、すごいわ」ケイちゃんの独り言が聞こえた。
その声を聞いてすぐに吸い込まれるように寝入った。
目を覚ますと目覚ましをかけた朝5時1分前だった。たぶん10時間くらい寝ていた。ケイちゃんは目覚ましが鳴るといつになくさわやかに起き上がった。
「すんごいよく眠れた」開口一番言った。
部屋のドアを開けるとすぐに庭になっていて、ドアを開けると、少しひんやりした空気が部屋に入ってきた。庭に出ると木々の間から見える夜明けの空は、オレンジ、水色、紫、緑のグラデーションになって、またもや絵葉書のような素敵な光景になっていた。
「今日もいいね・・・」私は小さく独り言をいった。
特におなかも減っていなかったので、宿のフリーのコーヒーを飲み終えてから歩いてバス停に向かった。15分位の道のりは、街の人の通勤時間とかさなっていたので、あわただしく人がいきかっていた。
バス停に着くと、慌ただしさはさらにましていた。大きな声で客引きをする運転手でごったがえしていた。
喧噪の中からお目当てのバスを発見してかけよると、バスの車種はなんとベンツであった。アフリカに来てベンツのバスに乗るとは夢にも思わなかった。
これから7時間ベンツバスで移動になった。2人は少しリッチな気分でバスに乗り込んだ。
「ジャイカ?」また乗客にたずねられたので、
「イエス」2人はなれた笑顔で答えた。
「久々ジャイカってきかれたね」
私は小声でいった。
「うん。バスで移動の際は常にジャイカってことで」ケイちゃんもひそひそ言った。
7時間の移動中、本を読むにはゆれすぎるし、寝るのもあきてしまったので、やはり外の景色を眺めるというのが一番の暇つぶしであった。バスは予定時刻に出発した。
街を一歩出ると、、赤土が舞う大地にぽつん、ぽつんと土壁で藁ぶき屋根の家があった。家の前には赤土が舞うのもものともせずに、洗濯物を干している女性がみえた。その横で家畜の牛がつながれていた。
街を一歩出ると、テレビでよく見るアフリカがひろがっていた。
「結局さ、こういうザ・アフリカにはなかなか入り込めないよね。だけど、逆にテレビでは見られない「しんちゃん」みたいなアフリカもあるわけじゃん?そういうのがみられるのっていいよね?旅ってさ」とケイちゃんは土埃の景色を見ながら言った。
2人を乗せたベンツバスは勢いよく赤土を巻き上げて走っていた。アフリカの景色にもずいぶん慣れて、外の風景も、もはや日常の風景になっていた。
ルサカには午後2時半過ぎに着いた。
ザンビアの首都だけあって人が多い。大人から子供まで人がひしめき合っていた。子供はホームレスらしく小銭をくれと手を出していた。
2人はバスターミナルの隅でロンリープラネットを広げ、お目当ての宿への地図を見ていると、
ドレッドの若い青年が話しかけてきた。
「どこの宿?」と聞いてきた。
「ここへ行きたいの、こっちでいいよね?」私は地図を見せながら、ドレットヘアの白目と黒目に濁りのないキラリとした目の
青年にいった。
「いいよ。15分位だから案内してあげる。」といってきたので、
私はあからさまに
「怪しい」という顔をしてしまった。彼はそんな私を見て笑いながら
「いやいや、心配しないでいいよ。そんな心配なら通りに看板があるから、本と照らし合わせて、名前を確認しながら歩いて行こうよ」言ってきた。
「・・・。ありがとう」と少し不安ながらもお礼を言った。
「大丈夫だよ。たぶんこの人」とケイちゃんは適当に言った。
私は通りの名前の確認係になった。彼は通りの名前の看板がある度、前まで行って
地図を見ながら、ね?あっているでしょ?と確認しながら歩いてくれた。
「油断禁物だけど、今のところいいひとだね」と緊張しながら言った。
「大丈夫だって!」とケイちゃんは友麻にあきれていた。
10分位で宿に着いたので、彼にも宿に入ってもらい、飲み物をごちそうすることになった。彼は普通にイイひとであった。その上、
ドミトリー泊ではなくテント泊にしたので、テントの設営までも手伝ってくれた。
「ありがとう!疑ってごめんね」
と謝った。
「いいよ。それくらい警戒した方がいいよ。ここは警察も腐ってるからね」デシはにっこりと笑った。
彼の名前はデシ。ミュージシャンらしく、夜はレストランやクラブ?で歌って稼いでいるといった。信用しすぎてはいけないが、とても物腰の柔らかい目の綺麗なドレッドヘアの青年だった。
「これから、FM局に行くけど一緒に行く?」というまたもや怪しいお誘いがきた。
「行く!」と即返事はやはりケイちゃんだった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。ホントイイひとそうだけど、行った先に仲間がいて・・・とかあるかも?」私は眉をひそめながら言うと、
「でた!悪い予想屋」ケイちゃんは笑った。
「えーっホントにいくの?」
「行くよ。だって面白いじゃん。アフリカのFM局なんて絶対こないよ。この先、一生!」
「まあね・・・」私はデシの目をもう一度みた。
やはり、黒目と白目がきらりとし濁りなきまなこといった感じだった。信用してみるか。と友麻はなかば強引に自分に暗示をかけて彼を信じることにした。
3人は歩いて30分だという道のりをデシという観光ガイドつきで歩いた。
露店がいくつか出ていて、炭を売っている店や木でできた民芸品を売る店、野菜を売るがあった。その中に、干した木の皮を売っている店があった。どう見ても、木の皮。山積みになっているものは皆同じ種類に見えた。ケイちゃんと友麻は店の前で立ち止まりまじまじと木の皮を見つめていると、
「薬屋さん」とデシがおしえてくれた。病院の薬は高いから、薬効がある木の皮を擦ったものを飲んだりつけたりするのだとおしえてくれた。
日本人の私たちには合わないとは思うよとデシはウインクした。
物珍しい風景とデシという安心?なガイドがいるおかげで、30分があっという間の道のりだった。
「Q FM」と書いてある3階建てのビルに本当に到着した。友麻は到着しないことも覚悟していたので、
本当だ。と口を開けてビルを見上げた。
「ねっ?大丈夫でしょ?」とデシがキラキラの目で私を覗いた。
「やった!」とケイちゃんはスタスタとビルの階段を上った。
「ええ!ちょっとケイちゃん落ち着いて!」私はデシの後ろから慎重に階段を上った。
ガラス張りのスタジオの中でヘッドホンをした男の人がマイクに向かってしゃべっていた放送はひと段落したらしく、これから音楽のみを流す時間のようだった。プロデューサ
らしき人や、DJもこちらにやってきてデシと挨拶をしていた。日本人が珍しいらしく、どこからきた?ザンビアにはなんできた?など質問された。
皆既日食がルサカだからだと初めて素直に話した。
そして、カメラマンなので写真を撮っている。と話すと、プロデューサーらしき人は大きい目をクリだしながら名案思いつた!という顔をして
せっかく来た記念にうちのラジオのジングルをやらないか?というなんとも不思議なオファーをしてきた。
「イエス」とケイちゃんが即返事をした。
「ねえ、ジングルってなによ?」
私はジングルの意味が
分からなかった。
「ジングルはね、ラジオのなんていうか、コマーシャルになる前とかにながれるやつだよほら、エイティーワンポイントスリーJwaveとか、ねっ?」
「あああ、あれか!ていうか、なに?2人で歌うの?えっ?」
私は慌てた。
「歌わない。日本語でてきとーにしゃべってから、この用意されたセリフをいうらしい」
「えっ日本語で何言う?」
「あたしにまかせてよ。」ケイちゃんは自信ありげだった。
しばらくケイちゃんは椅子に座って紙に何やら書きながらニヤニヤしていたので、何を言い出すのか気が気ではなかった。
「できたよ」とケイちゃんは渾身の原稿を読み上げた
「元気ですかー元気があれば何でもできる!ケイ&友麻フロムジャパン!で、このあと放送局の名前言う感じ!」
「ちょっと!猪木って!」
と面食らったが、私も特に思いつかなかったので、
「あっごめん。はい・・・じゃ、これでいこ!」と猪木に頼ることにした。
ケイちゃんと私はスタジオに入りヘッドホンをした。私は思いのほか緊張して何度もかんでしまったので、プロデューサーに
爆笑されていた。
「元気ですかあ!元気があれば何でもできる!ケイ&友麻フロムジャパン!ユアリスニングトゥーQ FM !」
ケイちゃんはかなり猪木をまねていたので負けじと猪木を演じた。
不思議な物まねの猪木ジングルが完成した。
なんだかよくわからない達成感があった。このジングルは明日から流れるから楽しみにしていて。と言われ、益々なんだかよくわからないが、嬉しくなった。ルサカについてすぐに何故か、ラジオのジングル。不思議なことが起きるものだとしみじみ人生何が起こるかわからない感覚を楽しんだ。
外は日が暮れてきていたので外人は夜、外を歩かない方がいいとプロデューサーがタクシーを呼んでくれ3人で宿まで帰った。
宿のバー(バーと言っても木のカウンターと椅子があるだけだった。飲み物は瓶ビールかワインしかなかった)で飲もうとデシを誘った。
「ねえ、デシ、今日みたいなことよくするの?バスターミナルで話しかけて、ラジオ局連れていくみたいな?」ケイちゃんが聞くと
「この近くに住んでいるのでたまに道案内するけど、ラジオ局ははじめてだな。今日の僕は暇だったからね」とニッコリとウインクした。
「レストランのショーはいつやるの?見に行くよ」と私はいった。
明後日かなと地図を広げて場所と時間を書いてくれたので、行くことになった。
日食まではあと5日あったので、時間はたっぷりあった。
ザンビアでは夜に少しだけ雨が降ったが、基本的に毎日快晴でテントを張るには良い気候だった。
翌朝もデシが訪ねてきた。昼間は暇だから、街を案内してくれるというのでいくことになった。
街の治安はあまり良い感じはしなかった。デシがいなければアジア人女が2人で歩くのは少し危険な気がした。
ホームレスが多く、他の地域では見なかった道で物乞いをする様子が多くみられた。
そういえば、宿にいた他の客は外に出かけるのはサファリツアーに行く時だけで、あとは宿の中にあるプールに入ったり、ビリアードをしたりして、宿から出ていなかった。
私達に至っては、サファリツアーどころか、アフリカに来てから象やキリンはもちろん。猫や犬さえ見ていない事が最近話題であがっていた。見たのは家畜の黒牛ぐらいだった。
デシは「2人はカメランだし、せっかくだから」と街のディープなところを案内してくれたのはいいが、スラム街に連れて行ってくれたりもした。そこにはまだ幼い5歳位から15歳位のこども達が鋭い目で通りに佇んでいた。デシが言うにはみなホームレスで、親はいないか、親もホームレスだと教えてくれた。その中リーダーのような男の子が話かけてきたので、私は思わず身構えまた悪い想像をしてデシにも警戒していた。
しかし、デシは私の警戒をよそに、普段はドロボウをやっている。お前たちも今度違う所で会ったら覚悟しろと。妙に大人の笑顔で言う13歳の男の子のポートレートを撮影する交渉をしてくれた。
デシはびっくりするほどいい人だった。
夕方に晩御飯をデシの家で食べようということになり宿からほど近いデシの家に向かった。コの字型の長屋で、水道はなく、トイレももちろん共同。穴を掘って木の囲いをつけたものだった。
正直、私は驚いていた。
デシはミュージシャンで
(まだライブを見ていないからわからないが)
それなりに有名らしいことをいっていたので、
もっと豪勢な暮らしぶりなのかとおもっていたからだ。
十二畳ほどの1ルームにベッドが2つ置いてあり、兄弟4人で暮らしていた。長男、デシ、弟2人。両親はいない。とだけ言ったので、それ以上は聞かなかった。
長男は、お調子者といった感じで、私達より2つくらい若い25歳位だろうか。
弟たちは日本人を初めて見たのか、キャーキャー言いながら、壁の陰に隠れたりして照れていた。
夕食を作ろうと言っても、材料はフィサシというほうれん草のような葉っぱと、トマト、だけだった。
キッチンというか電熱器が一台置かれたテーブルがあった。
フィサシはみじん切りにし塩で炒め、トマトはつぶして塩を入れてソースにした。
そして主食のサザ。例のトウモロコシの粉をお湯で練った主食だった。
ザンビアではサザではなく、シマという名前で呼ばれているらしい。
裕福な家では、おかずにチキンもついていることが多いと、まだ14歳くらいのデシの弟が羨ましそうな顔でおしえてくれた。
どんな家庭の事情かはわからないが、両親はいなく、デシとお兄さんが弟をやしない、弟は家事全般をやるということになっているらしい。
長屋になっているので、近所のおばさんがいろいろと世話をしてくれるとも話してくれた。長屋のつくりは土壁のようなもので作られており、かなり老朽化していた。電気は家の中まで通っていた。裸電球が2つほどぶら下がって、わりと明るかった。家から一歩出ると、井戸を囲むようにコの字になっている長屋なので、皆が井戸の周りで野菜や食器を洗ったり、洗濯をしたり、子供が水浴びをしていた。暗い雰囲気は一切なく、おばちゃんの大きな笑い声や、子供達が水浴びをしながらふざけている声が響いてた。
「なんか、平和な空間だね」懐かしいものを見た気持ちになった。
「うん、なんかみんな笑いながら、じゃれあってていい感じだよね」
「元気ですか?元気があれば何でもできる!ケイ&友麻!フロムジャパン!ユアリスニングトウー Q FM!」という聞き覚えのあるまね猪木が、デシの家のラジオから聞こえてきた。
「おおまじか!思ったより恥ずかしい」ケイちゃんは顔を赤くした。
「うわああああ、すごい!」とデシの兄弟は手をたたき2人を指さし大笑いした。
デシは私を見てウインクした。似てない猪木のものまねがこの先どれ位の期間流れるのかが不安だと思うと同時に、みんなが盛り上がってくれているのが嬉しかった。
私の腕時計は夜9時を指していた。デシのうちから宿まで近いがデシが送ってくれることになった。
宿のほど近くで警察官に止められ、デシが2人の事を必死で説明していた。10分位話してやっと警察はその場から去った。
ケイちゃんが良くわからない職質の意味をデシにたずねた。
「あの警官は君らからお金を取ろうとしたんだよ。外国人が夜に外を歩いたら罰金だ。となんくせをつけてきたんだ」
「えっ?でも警察でしょ?そんな法律ないよね?」
「ないよ。だけど、君らはお金持っているからね。いろんな理由つければお金だすでしょ?」デシは首を振りながら、「腐っている」と吐き捨てるようにいった。
警官さえ腐っているこの土地でよくこんないい人に出会ったものだと。神様を信じていなかったが夜空を見上げて柄にもなく、
「ありがとうごます」と
手を合わせた。
すっかりデシに甘えっぱなしの私達は、
本日のデシのライブに何かサプライズプレゼントを持っていこうということになったのだが、結局、ビールと食材を買って自宅に持っていくのが一番いいという事になりやめた。
ライブをやるレストランにはアジア人は私達しかいなく、完全に浮いていた。客層は若者というよりも、中年世代という感じで落ちつた人が多かった。テーブル席と席の間は踊れるように空間が広くとってあり、お客さんは踊る気まんまんである。
バンドのメンバーがそれぞれの位置について音の調整をしていた。
デシも舞台袖からやってきた。デシの目は、いつもより3割増しで輝いている.
「かっこいいね。デシ」
となんだか照れた。
バンドのメンバーと少し話してからくるりと客席に向いたと同時にライブが始まった。
高音で軽快なギターの音色が響いた。ジャンルはよくわからないが、アフリカ伝統音楽というより、ドラムが軽めで、ギターが甲高い音のポップな感じ。お客さんはもちろん、ウエイターも踊りだし急に盛り上がったので、2人はついていけずその様子をただ見つめていると、デシが2人に「立って!」というジェスチャーをしてきたので、私は完全にオドオドしなが周りの
ダンスを真似た。
激しいダンスというよりは、体を左右にチョコチョコ移動させる方法で意外と楽々できた。
2人はウエイターが持ってくるビールを調子よく飲みながら踊った。薄暗いレストランの照明は夜店の雰囲気で、酔いがまわるにつれ、お祭りに来て盆踊りを踊っている気持になった
「ああ~盆踊りみたいでなんかトランス状態だ!」夜店のような裸電球の光は目の中でグルグルと回り始めた。
「あっ?友麻やばいね。酔ったね。そろそろ落ち着こう!はい、座って!」とケイちゃんの声がデシの歌とが混ざって聞こえてきたのまでは覚えていた。
目を覚ますとテントの水色が飛び込んできた。いつもの朝と同じだ。
隣を見ると私がだいぶ大の字で寝ていたので、ケイちゃんは珍しく小さくなって寝ていた。
「うわ~やったな、記憶まったくない」と一人で頭を抱えつつ、懸命に昨日のことを思い出したが、やっぱりケイちゃんとデシの歌声までで記憶が途絶えていた。
「ああこの危険なアフリカで記憶を無くすとは・・・」自分の酒癖の悪さに寒気を感じて身震いした。
「あああ、起きたね、友麻。デシに深く感謝しな」とあまり眠れなかった様子のケイちゃんが私の方に
ゆっくりと寝返りをうった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。記憶がありません」ケイちゃんに必死に謝った。
「友麻さあ~油断禁物とかいっているけど、ゆるゆるだから。実際」
とかなり投げ捨てるようにケイちゃんはいった。
つづけて
「そんな油断している人、日本でも危ないわ。友麻、酔うといつもそう!あんたほど実は人を信頼しているっていうか、人に甘えている人いないよ。よく生きてこれたと思うよ」とごもっともな事をいわれた。
「ハイ…」と首を右斜め下に傾けて反省していた。
「とにかくデシが友麻を介抱してくれたんだよ。あんないいひと珍しいよ実際!」とケイちゃんは更にたたみかけるようにいった。
「ハイ…ごめんなさい」とうなだれたまま返事をした。
明日は日食を見るため国立公園のキャンプ場に移動することになっていたので、今日でデシともお別れだった。
「デシの家に謝りに行くの付き合ってくれる?」と私はケイちゃんに子供のようにお願いした。
「いいよ。お土産持ってこうね!弟たちのもね!」とケイちゃん起き上がりながらグミを食べて笑ったので私も少し笑った。
デシの家に着くと長屋の真ん中にある井戸でご近所の人と話しているデシが見えた。デシは友麻をみつけると、すぐに駆け寄り
「大丈夫?ほんとに心配したよ」と子犬を見る目で言った。
「うん。ごめんなさい。だいぶ迷惑おかけして・・・」と口ごもった。
「楽しかったから酔ったの?それじゃ、僕の歌はパーフェクトだね」とキラキラな眼差しで言ったデシを、仏像でも見るような目で見つめてしまった。
「優しいね。本当にありがとう」どうすれば心からお礼が伝わるのかはわからないが、体の芯からお礼を言って日本式のお辞儀をした。
「明日は寂しくなるから見送らないよ」と帰り際にデシが言った。
「うん。今までありがとう」
私もケイちゃんもそれ以上何も言わなかった。
長屋の井戸では、おばちゃんたちが水を汲みながらおしゃべりをしていた。デシは私たちにハグをし手を振ると、くるりと向きを変え、おばちゃん達の輪に入りおしゃべりを始めた。
私はこの風景を忘れたくなくておばちゃん達とデシの写真を遠くから風景として撮った
2人は歩く度に巻き上がる赤土の上をゆっくり歩きながら宿に帰った。
朝のバスターミナルはいつものように混んでいた。バスの乗り方にもすっかり慣れていたので、余裕で行先のバスをみつけることができた。出発まで時間が1時間あったので、スーパーに行ってからバスターミナルで、のんびり待つことになった。椅子はなかったので、ターミナルの喧噪を見ながら比較的人がいないはじのほうで、ペタンと地べたに座った。リンゴを食べていた友麻の背後からトントンと小さい手が肩を叩いた。振り返ると、10歳くらいの男の子で、目が泳いでいた。とっさに身構えたが、変に刺激しても
いけないので、
「ハアイ!」とにっこり笑った。少年もそんな挨拶が来るとは思ってなかったのか、少しびっくりした顔で、
「ハアイ お金かそれちょうだい」とリンゴを指さしてきたので、迷わずリンゴをあげた。少年は友麻の隣に座りリンゴを食べ始めた。ホームレスの男の子だった。目が泳いでいる。
「大丈夫?具合悪いの?」と聞くと
「別に・・・」といいながらシャクシャク音を立ててリンゴをほおばっていた。
少年はあきらかに目が泳ぎ、ぼーっとしていた。
「ガソリンと接着剤混ぜたもの吸ってんの。やる?」白目は血走っていたが綺麗だった。
「は?ガソリン?ダメ。ダメ危ないよ。脳みそ融けちゃうよ」
と強い口調で言った
「別にイイの。この先このままだし。すっているほうが楽しいから」といかにもドラッグで飛んでる人の顔で笑った。
「ダメ」とまた強い口調で言った。と同時にケイちゃんに腕を掴まれた。私はびっくりして
「えっなに?」と少し怪訝な顔でケイちゃんを見た。
「いいからこっちおいで!」と腕を更に強くつかまれバス乗り場へと引っ張られたので
「なんでよ?あの子へんなドラッグやっているっていうから・・・ダメって」
「だからダメなんてあんたに言われたくないわけ。あんたにあの子救えるの?貧困から救って、将来の夢とか見られるように出来んのか?って、聞いてんの」ケイちゃんはいつになく早口でまくし立てた。
「えっ?そんなこと言い出したら、何もできないよ。あの子を今救うことは出来ないけど、ダメって言ったっていいよね」とむきになった。
「ストリートで暮らす過酷さから逃れるためにドラッグやっているのとかダメだよ。確かに。でもさ、私なら救いのない状態で平常心ではいられない。そんなに強くない」ケイちゃんは静かにいった。
「そうだけど・・・なんか腑に落ちない」と私は引き下がらなかった。
「あの子はやり続ければ死ぬよ。だけど、ダメって言えないよ。私たちみたいに彼らの現実を全く知らないところで生まれて死んでいく人間には」ケイちゃんは無表情だった。
「何かできないのかな?」
沈んだ口調でいった。
「気持ちはわかるけど、そういうのがなんか違う気がして。自分は恵まれていますってのが、前提でしょ?上から目線だよね」
「私は旅を続けてきて、どこの国でもどうしようもない現実に目をそむけたくなるよ。何かできることないか?とかおもうけど、でも、まず自分は自分の事を幸せにできているのか?って思うわけ。自分のこと救う事を出来ない奴に他人なんか救えないよ」ケイちゃんは私をグッと睨んでいった。
私は腑に落ちないという点はかわらなかったが、自分を救う。という言葉が頭の中でグルグルまわった。
ケイちゃんの顔はいつになく、
引き締まっていた。
バスの窓からは、目を泳がせながら周りをキョロキョロ見ているあの子がみえた。エンジンがかかると、
ラジオからはあの陽気な2人のジングルが流れてきた。ケイちゃんは一瞬不快な表情になった。
「この状況で・・・タイミングがいいっていうか・・元気があれば何でもできる・・のか?」ケイちゃんは自分に言い聞かせるようにいった。
「でもあの子、友麻からもらったリンゴいい音たてて食べてたね。歯は健康なのね」
ケイちゃんは窓の外の赤茶の砂煙で濁った景色をみながら小さい声でいった。
ラジオからは、ときどきザラザラという雑音混じりに陽気な音楽が聞こえた。
「なかなか到着しないですね」
眠くなるから何か話をと言ってきたのは所長だった。私はずいぶん話して疲れたので話をやめた。
「ああそうねえ。長旅だね。でもあと10分くらいでしょ。それで、日食は見たの?動物は日食で動き止まった?」と所長はさして興味もないけど、暇なので見ているテレビのようになんとなく上の空で話を聞いていたが、続きが気になったのか質問をした。
「でほら、友達どうなった?ケイちゃん?」
千倉までの道のりはひたすら海沿いを走るもので、勝浦辺りから南に向かうほど、海が深い青になっていくので眺めていても気持ちがいい。
私はこの辺りに引っ越してきてすぐに納棺の仕事をはじめたので、最初に車に乗って業務に行くときは、青い海に感動して、顔を窓にべた付けして外をみていたが、今ではすっかり生活の一部になっていた。
この土地に来たのはなんとなくで、特に縁もないのになんとなくきてしまった。
カメラマンの仕事はこの土地に来ると同時にやめてしまっていた。何故やめてしまったか今考えてもよくわからない。私は居心地の良いところにずっと居続けることに安堵と同時に不安があった。
心地いい仕事仲間、環境、友人、何も辛いことはなかった。いや、その全部が辛かった
いつも自分に嘘をついているような感覚があった。偽物。ずっと自分の頭の中で聞こえている「偽物」という響きに死んでしまいたくなる日が続いた時期があった。もしこれで自分が死ねば、周りの人間は、なぜ死んだのか?全く解せないだろうし、甘えた人間とさげすむはずだ。死んでしまいたい感情さえ他人を意識している自分に、
嫌気がさしていた
こんなことを考える事態、贅沢病なんだ。甘え。全部偽物。
自分らしさがない。
全てのネガティブワードが毎日ぐるぐると回っていた。
その時期の記憶は断片的にしか覚えていなかった。
「ケイちゃんは・・・」と言いかけると、所長は「あ、待ってそろそろ葬家に着くな」とゼンリンの地図を左手に持ち、見ながら言った。何故か、会社の変な掟でカーナビが禁止なので、アナログの地図でいつも行動していた。
千倉は一本脇道に入ると、道幅が狭く、対向車とはすれ違えないくらいだったが所長は長年この道を行き来しているので、全く臆することなく地図を片手に突き進んでいた。葬家への入り口は軽ワンボックス車でギリギリ入れる狭さだったが、所長は難なく玄関前まで侵入し、停車した。所長は愛想がいい納棺師で、もちろんキャリアも長いので、所長との業務の日は気合を入れなくても事が進むのが楽ちんだった。
「ちょっと挨拶してくる」と所長は車を降りて葬家に向かった。これはマニュアル通りの動きで、挨拶に行っている間に、もう一人は化粧バックなどの準備をして待つということになっていた。しばらくすると、所長が帰ってきた。第一声は、「家の中狭い。襖取り払ってあるから、全部見せる系だな」
「わかりました」と私は業務用の声を出した。所長は湯灌用の器材やタオルの入ったバッグをもって、私と一緒に再び家の中に入った。所長と私は故人に線香を手向け、葬家にこの後の流れの説明をマニュアル通りにした。
いつもなら、準備ができるまでは襖でしきって見えないようにするのだが、この家は狭くて、故人の寝ている部屋と、家族が待つ部屋の襖が外してあったので、全部公開で準備をすることになっていた。
葬家や近所の人が見つめる中、マニュアル通りに所長も私も準備を始めた。湯灌とは介護入浴と大体同じで、亡くなった人を浴槽に設置したタンカの上で、お湯のシャワーでシャンプーしたり、体を洗ったりするものだ。ギャラリーがいると何よりもやりにくいのは故人が寝ている布団から、浴槽のタンカに2人で抱きかかえ乗せるときである。80キロちかくあるであろう故人だったので、少しバランスが崩れて故人を落としたら大変だ。正直、新人の頃は2度ほどバランスをくずし、故人を落としてしまったこともあった。掛け声と共に2人で一気に持ち上げる。
ふわっと故人が持ち上がった瞬間、ギャラリーから、「おおおお」と感嘆の声が漏れた
確かに80キロちかくある死んだ人間を、スーツを着た男女でひょいと持ち上げるのは、イリュージョンに近いものがあった。普段はここまでは見せないのだが、襖が取り払われている家ではこの方法しかなかった。
ここからは儀式のような入浴を家族に見せながら行う普段通りの湯灌だ。友麻は故人を洗い終えたあと、垢が落ち、故人があからさまにさっぱりした表情になるのが好きだった
これもまた、生きている人間のエゴなのだろうなと。とかんじていた。タオルがかかって裸は見えないとはいえ人前で入浴をするなんてよく考えたら自分はごめんだな。
とおもっていた。
葬儀社からの発注書にはこの故人は縊死と書いてあったので、首の部分をよくよくメークで隠す必要があった。
警察はなぜか、首を吊ったロープまでもご丁寧にビニールに入れて返してきた。ビニールの中には、立ち入り禁止などで使われる黒と黄色の入り混じったロープが入っていた。このロープで首を吊ると、かなり深い吊り跡が首に出来てしまい、メークで隠すのは少し時間を要した。2人で故人に仏衣を着せたあと、「お願いします」とお互い声をかけ
所長は浴槽の片付けをし、友麻はピンセット使い詰め綿を喉の奥に入れ口があかないようにする作業にとりかかっていたが、その様子はかなりえげつないので、家族に見えないように隠しながら行った。詰め綿がおわると、首や顔のメークにとりかかった。
その間も、家族は所長と友麻から目を離さず、2人の動きをじっくり眺めていた。
「映画とはちがうね」というひそひそ声が聞こえた。「よく言われる」と心で呟いた。所長は以前、葬家に挨拶に入ったときに
「もっくんじゃない!」と言われたこともあり、「そんなの、しょーがないよ」と、業務後、ぷんぷんとふくれていたこともあった。確かに所長ともっくんは対極なので「もっくんじゃない!」には笑ってしまったことがある。
メークと片付けを終え旅支度というものを家族にしてもらい棺に納めるのだが、このメーク後の面会が一番の難所だった。まずは第一声
「眠っているみたい。いい顔している きれい」という言葉をいただけば、そのあとはスムーズに事がはこんでいき、業務終了となるのだが、
「なんか違う。違う人みたい」が発っせられたらその後は延々と、これが違う、あれが違うが始まり、メークをなおしたり、口をへの字にしてみたり、はたまた、綿を入れて唇に厚みをもたせたりと、いろいろなことをし、最終的には
「そんなにお父さんの顔をいつもじっとみてたのかよ!見てないくせにあーだこーだ言って。俺はいつものお父さんだと思う」という言葉を発する人が現れ、終了。ということになることがある。なので、このご面会タイムはいつも祈るような気持ちだった。
「首も綺麗です。でも・・・なんか違う」という言葉だった。
「あっ、では、お直しいたします。どのようなところをお直ししましょう?」と
故人の奥さんであろう人に尋ねた。
「何処を直すのかはわかりません。でも違うんです」
このパターンはなかなか難しかった。なぜなら、故人の死を受けいれられていない。自分の大事な人の肉体が入れ物のような、なにか空虚なものになってしまったような感覚がするからだろう。
「では、少しお口元と目元の表情を直してもよろしいでしょうか?」とたずねた。
「はい・・・4日前は楽しく会話したんです。なんででしょう?死ぬなんて全く感じなかったの。元気だったの・・困りますよね。こんな話されても」先ほどまで、頑張ってにこやかにしていた奥さんは空虚な顔で、故人を見つめていた。
「いいえ」と小さな声で答えた。
「失礼いたします」と目元を少し横に引っぱる動作をしてから、「いかがでしょう?」と尋ねた。
「もう少しこう・・・」と奥さんが故人に触れた。「冷たい・・」と声をだした。奥さんはご主人が亡くなってから初めて体に触れたようで、
「こんなに冷たいんですね」と奥さんはご主人の頬を両手で包むようにやわらかく触れてから一瞬うつむくと同時に、涙がジワリとご主人の白装束に広がった。
「よくなった。これでいいです。ありがとうございます」と少し笑った。
実際には顔は変わっていなかった。しかし、奥さんのなかで冷たいご主人に触れて何かが変わったのであろう。
葬式は生きている人間が死を受け入れる儀式なだけだから。とみずき先輩に言われたことがありその通りだなと思う場面に何度も出くわした。どこで受け入れるかは人それぞれで毎回違うのでわからなかった。
「こちらのお姿でお棺にておやすみいただきます」と所長が言うと、周りにいる親族から嗚咽.が聞こえた。
「最終的に喜んでいてよかったよね?」所長は運転しながら、棒チーズを食べていた。「はい・・・「違う」が来たからまずいってなりましたよ」私はビックフランクをもぐもぐしながら言った。
「なんであの故人自殺したんでしょうかね?」
「わかんないよ。そんなの。誰にもね」
「そうですね・・・」昔自分が悩まされた死んでしまいたい願望を思い出して、能天気になんで死んだのだろう。などとデリカシーのないことをいったことを反省した。
今の私にとって死は日常であり冷たい人間に触るのが普通過ぎて、生きている人間の手のぬくもりに違和感があるくらいだった。
私は、死人をとてつもなく美しい存在だと思っていた。それは傷んでいる遺体にも同じことがいえた。その人が生前意地悪で嫌な奴であろうが、逆に良い人であろうが死んでしまえばそこには「肉体」というものだけであり、生きていた時にある何かしらある個性が抜けて何も入っていない箱のように、そこには全てをそぎ落とし純粋なものへと変化した「肉体」だけ。はじめて仕事をしたときに人間の肉体はこうも純粋なものなのだ。と自分もいつかこうなるのだと、友麻は恐怖ではなく妙に安堵した。
「自殺はダメなんですかね?世間では死んではいけない。命は粗末にしてはいけないとかいうじゃないですか?実際かなりの確率で自殺した人の納棺いきますよね?」
「そうねえ」
「自殺した人って安らかな顔していることが多いですよね。本人的にはこれで良かった。と思っているのかなと。メークしながらよく思うんですよ。恨みながら死んだ人もいるかもしれないですが・・」
「実際はどう思っているいかはわかんないけどな。俺もそう思う時あるよ」
「死んで後悔している故人もいるかもしれないけど、死のうって思う選択をいけないことだとまとめあげていいものなのかな?と思うんですよね」私はビッグフランクの棒を振りながら熱くなって
語っていた。
「うんうん。わかる。実際死に至るまでの苦悩とか半端なかったかもしれないしな。まわりの人間は所詮わかってやれないよね」
「そうそうそうなんですよ。結局独りって言うのか・・・生きてれば誰しも思う事なんだろうけど」私はは棒を振る手を止めた。
「でも自殺したら、閻魔大王がいるかわかんないけどさ、怒られると思うよ」と所長は首を振りながら口をへの字にしながら言った。
「そうですね。死んで後悔しているかもしれないですが、自分で選択したことだから責任取るしかないですよね。だからこそ、最後に残った肉体は悔いのない状態に・・・というのが私の営業方針です」
「それもまたこちらのエゴだけどね」所長は、かっかっかっと笑った。
「ほんとそうですよね。生きている人間のエゴですよ全部。故人は実際大迷惑と思っているかもですね」と妙に真面目に言った。
「でも、今日も明日も納棺するわけよ。俺たちのお仕事だしね」所長はさけるチーズの最後のひと柵をほおばった。
「次の現場、病気で亡くなった24歳の女の子ですよ。今日はなかなか厳しい現場続きすよね」
少し声を落として言った。
「そういう日だよ。今日はこれで追加ないといいけどな」所長は少し眉間にしわを寄せていた。
私のいた営業所はかなり忙しく、日によるが一日10件はざらにあり、車2台に分かれて納棺業務をしていた。前の日に予約が入ることが通常だが、その日に飛び込みの依頼もあり追加が重なると営業所に戻るのが夜11時くらいになることもあった。
「ああこの家だ」所長が指さす方角にある家は千倉の高台にある海の見える別荘地だった。
赤いとんがり屋根の家はジブリのアニメに出てきそうな素敵な家だった。
到着すると綺麗に草が取られた畑にハーブや花、野菜が行儀よく植えてあった。友麻は納棺にきたのにも関わらず多少テンションがたかくなっていた
「所長、ジブリジブリ!素敵な家ですね」畑や屋根を指さしながら嬉しそうに言った。
「おお、良い家だね~でも、友麻ちゃんあんまりニコニコしないでよ。今から挨拶行ってくるから」所長はすぐに仕事モードに切り替えながらも、車から降りて玄関にたどり着くまでに何度も立ち止まっては振り返り、絵に描いたような青空と海を、「ほう」という感嘆な声でもあげそうな顔で見ていた。
5分位で所長が小走りに葬家から戻ってきた
「う~ん。故人若いから時間かかるな。部屋広いな。両親おちついてる。きれいな故人だよ」割と早口で所長が言った。
玄関を入ると、家の中はローズマリーの香りがふんわりと香っていた。
故人に挨拶をし、柔らかい人相のご両親に挨拶をした。立ち合いは2人しかいないようだった。最近この家に移り住んだらしく、親戚も遠くに住んでいるらしかった。湯灌の説明をし、準備が整うまで扉を閉めさせてもらうことにした。
「綺麗な故人ですね。でも、24歳にしては幼いような・・・まだ高校生くらいに見えますね」
「さっきお父さんが言ってたんだけど、生まれた時から病気がちで、入退院繰り返しながら生活してきたっていってた」
「そうですか・・・だからなんとなくすれてないというか、少女のようですね。ご両親大事にされてたんでしょうね。メーク立ち合いするかお母さんに聞いてみていいですか?」
「うん。そうだね。一緒にやってもらったほうがいいかも」
所長と私は淡々と小声で会話しながら、故人の腕の硬直や足の硬直をとる為、関節のツボを押さえながら曲げ伸ばしをしていた。その間、故人の好きだったものが置いてある枕元に目をやった。
メークの際遺影ももちろん重要だが、女性の場合趣味なども重要な要素の一つになるので枕元から情報を得るのが一番だったので、関節ほぐしの際にはいつもチェックをしていた。枕元にはぬいぐるみやCDなど、ビジュアル系のバンドのグッズが山のようにあった。中央に置いてある、ミッキーのぬいぐるみに立てかけてある写真集を見た私は急に過去に引き戻された。
「私が撮った写真集だ」そのバンドのボーカルの写真集を撮影したことなどすっかり忘れてしまっていたが、表紙を撮影した日はひどく蒸し暑くて、廃墟のラブホテルをスタジオにした場所で撮影したので、もちろん冷房はなく、都会の夏のジメジメした暑さと自分の熱気で、ファインダーが曇ってピントが合わせ辛く、なかなかボーカルのいい表情が撮れなくて、独りで焦っていたこと。表紙の写真をボーカルがやけに気に入ってくれたことを思い出した。
「どうしたの?友麻ちゃん。ちゃっ、ちゃっ動いてよ」所長は少しだけイラついた口調で言った。
「いや、所長これ・・・私、撮ったやつ」友麻は写真集を指さして、まるで一人だけ幽霊が見えているかのような顔で言った。
「えっ?マジで?友麻ちゃんホントにカメラマンだったの?」所長は違うポイントで驚き、故人の体にタオルをかけながら友麻の指をさしてる方向をたどるように見た。
「いやいや、嘘つかないでしょう。それ履歴書詐称ですから」所長の一言で過去の金縛りがとけた。
私は怪訝な顔を所長に見せた。
「これ棺に入れる感じじゃない?なんかすごい出会いだね!これぞ、事実は小説より奇なりだね」と所長はすこし、ワクワクした様子で写真集の方へ近寄ったが、「時間ないな、急ごう」独り言を言いながらすぐに故人の横に戻ってきた。
所長と私は故人を浴槽の上のタンカに乗せる為に故人を抱えた。彼女はあまりにも軽く小さかった。
何のいたずらわからないが、あまりにも偶然だった。まず、自分が撮った写真集を持っている人に会ったのが初めてだったし、それが亡くなっている人なんていう事も動揺させる一つだった。
湯灌を終え、お母さんにメークの際立ち会われますか?と尋ねると、「いいです。お任せします」と穏やかに笑った。
着替えは故人がバンドのライブに母親と一緒に行ったときに着た、黒のワンピースだった。ワンピースを着た故人は急に大人びて見えた。詰め綿をし、メークにとりかかる前に
「よろしくね」と故人の肩に手をのせ声をかけた。
故人は肌のきめが細かくメークがはえた。故人を最初に見た時にはあまりメークをしないでいいかなとも思ったが、メークをしないと黒いワンピースだけが浮いてしまうので、少し大人目なメークをした。正直これがいいのか?悪いのかわからなかった。片付けが終わって戻ってきた所長に
「どうですか?微妙ですかね?」
自信なさげに聞いた。
「いや、いいと思うよ。正直最初の印象だとあんまりメークしない方がいいと思ったけど、このワンピースには良いと俺は思うよ。とにかく面会だね」所長は友麻の肩をポンと叩いた。
「はい。では呼んで下さい」と緊張しながらうなづいた。
「では、準備が整いましたので、どうぞ中にお入りください」所長が扉を開けた。
堰を切ったようにお母さんが娘さんに駆け寄り枕元に座りまじまじと見ながら
「ミキちゃん大人になったねー。もうお姉さんの年齢だもんね。ほんとに綺麗だよ、ミキちゃん。お母さんミキちゃんの事、子供扱いばかりしてごめんね」と娘さんの髪をなでながら話しかけた。お母さんは私の方へ振り返り、お辞儀をした。目には涙が溜まっていてもうすぐあふれそうだった。
「お母さん泣いたらダメだよ。こんなにきれいにしてもらってミキも嬉しいはずだよ」とお父さんが穏やかに言いながら、娘さんを愛しむように見つめた。
「ありがとうございました」お父さんは振り返り、深々と頭を下げたので、所長も私も
さらに深々と頭を下げた。
あまりにも軽い故人を、4人で丁寧に棺にいれた。棺に入った娘さんを見たお父さんは、こらえていたものがあふれ出すように嗚咽して泣いた。やはり、棺にあの写真集も入れる事になった。
「これね、ミキが好きなバンドのボーカルの写真集なんです。ずいぶん前に出た写真集なんですけどこれが一番カッコいいって。大事にしてたんですよ」お母さんは写真集を両手にギュッと持って、
表紙を見つめた。
「そうですか・・・」私は素直に嬉しかったと同時に、申し訳ない気持ちにもなっていた。もちろんお母さんに自分が撮影した。などと言うつもりもなかったが、思わず「ありがとうございます」と小さい声で言ってしまい、お父さんも、お母さんも少し変な顔をした。
その空気を一変するように
「では、お手元に入れて差し上げてください」と所長は少し大きな声で、お母さんを誘導してくれた。自分が撮った写真集を、こんなに大事にしていてくれる人がいたことを知って、友麻は正直に嬉しいのと同時に、なんとなく罪悪感もかんじていた。両方が交錯して納棺にあまり集中できなかった。
ふと気が付くと、お母さんが私の手を握り、お礼を言いながら泣いていた。「なによりでございます」と深々お辞儀をした。車へともどってドアを閉めると同時に
「すみません。納棺の儀式、身が入らずご迷惑をおかけしました・・・」所長に謝った
「いいよ。そういうときもあるって。俺も元カノの納棺動揺して、あんまりおぼえてないし」とエンジンをかける準備をした。
「すみません・・」とまた謝った。
うんうんと所長は頷いた。
「実は私、あの写真集撮っていた時、あのボーカルの人かっこつけてんな。とか、ナルシスだなとか、この仕事を受けて、ビジュアル系のいろが付いたらどうしよう。でも、お金もらえるし仕事仕事。と思って撮影していたんです・・・」と聞かれてもいないのに言葉を羅列し
「自分嫌な人間です」と句読点のように言い終わると、鼻と目の奥がツーンと痛くなって、鼻からすごくサラサラの鼻水が出た。いつもこの後涙が出るがグッとふんばって涙を止めた。
所長はハンドルを握りながら、私を二度見し、フッと鼻で笑ってから、
「友麻ちゃん鼻水!・・・まあ、そんなもんだよ。誰かの役に立っているときって、やってやろうと意気込んでいる時より、何にも意識してない時の方が役に立っていることが多いんだからさ。それでいいじゃないか?カメラも納棺も仕事全うしたじゃん。自分がどんな気持ちより、相手が喜んでくれたんだからさ。任務完了ってかんじ?・・・」所長は女子のように語尾を上げて言った。
「ありがとうございます・・・」と私は首をコクっと下げてから、ティッシュを顔一面に広げ、鼻水をぬぐった。
「あんとんねーよ(なんともないよ)。んじゃコンビニで肉まん買うかあ」所長はハイトーンボイスで言った。
丘を下る軽ワンボックスは、積んでいるタンクの水音をチャポンチャポンたてながら、やけに青い水平線を潜るように坂を下りた。
「しつこくて悪いんだけど、友麻ちゃんホントにカメラマンなんだね。自称とかかと思った」所長はコンビニから小走りで、肉まんの入った袋を下げて戻ってきた。
「はい。嘘つきませんよ。だいたい自称カメラマンって履歴書、書いちゃダメでしょ?」
「そうね。だけど珍しいからさ。ほんとかよって思ってたんだよ」あまりに熱い肉まんを両手で躍らすように持ちながら所長は言った。
「そうなんですよ。面接のときに課長にも疑われて、ハイハイカメラマンね?戦場とか行った?とか、あからさまに信じてない様子で言われました」肉まんの熱さをもてあまし、ダッシュボードの上で一時寝かせることにした。
「でしょ?疑うよね?」
「私、面接のとき社会の厳しさ知りましたよ。会社に勤めたことはアシスタント以来なので・・・自分はカメランの世界で守られていたっていうか、それなりに仕事もあって、信用もあったと思っていたので、急に別次元に来たような気持になりました。そこで、私には何もなかったんだって気づきました」ダッシュボードの肉まんに手を伸ばした。
「どこそこ会社とかの方が説得力あるかもね。世の中的には」
「そうなんですよ。そこから、完全にモード変えなければ生きて行けないなと思いましたね。自分にはそれが良かったと思っています」と所長にお礼を言いながら肉まんにかじりついた。
「そんでよく納棺選んだよね。俺もだけど」へっへっへと笑った。
「ほんと、なんでしょうね?いつもなんとなく全てを決めている気がします。よく考えてないというか・・・なので、カメラマンやめたのをいまだに後悔することもありますよ」
「後悔とかダメでしょ~。後悔したら人生駄目だよ~」所長は肉まんを3口ぐらいで食べた後、豪快に緑茶を喉に流し込んでから
「でもさ後悔ってのも、なんかいいよね。もしも、ああしてれば、こうしてれば。とか妄想してセンチメンタルな感じになるのもさ、いいもんよ」今度は緑茶をゆっくり飲んだ。
「カメラマン続けていたらさっきみたいなこと体験できないですし、でも、続けていたらもっとミラクルがあったかも?とか。いろいろ思考は行ったり来たりですね」
私は肉まんの最後の一口をかみしめながら、あの写真集の撮影は2か月位かけて撮影したが、あのボーカルと最後まで打ち解けなかったことをなんとなく思い出していた。
「友麻ちゃん、今日最後は85歳おばあちゃんだよ。老衰だってさ。体もとくに処置無しだよ。たぶん」と所長は、この後に追加がなければ最後の現場なので、話すトーンが先ほどより高くなっていた。
「地図見るとこのコンビニからすぐですよね」やけに大きいゼンリンの地図をペラペラとめくりながら葬家の場所を確認した。
「だいたいなんで、今時ナビじゃないんですかね?」地図を所長に渡しながら言った。
「会社の掟だってさ。ナビで行くのは、楽をして業務をしているのでだめだとよ」所長は会社のしょうもないルールに従っているふりは大事だと。付け加えて言ってから、地図を確認した。
「近い近い!そんじゃ、いきますか」所長の声は更に高くなった。
5分ピッタリで葬家の入り口に着いた。入り口は狭いがかなり大きな古いつくりの立派な家が建っていた。
いつものように所長が中にはいり、すぐ戻ってきた。
「ハイハイ。綺麗なおばあちゃん。葬家もみんないい人。部屋もすーごく広い。トントンハウス。ハイ行こう!」と軽快に言った。
「了解です」と用意に取り掛かった。所長がこんな風に調子が良い時は仕事がさらに段取り良く進んだ。トントンハウスというのは営業所内の造語で、庭に車を停められ、故人の寝ている部屋にすぐにホースを通せる家の事で、ホースの延長もいらない上、浴槽やタンカなども窓から搬入出来て簡単にトントンで出来るので、そんな家の事をトントンハウスと呼んでいた
家の中に入ると久しぶりに集まった親戚同士がにこやかに談笑していた。80歳を過ぎる故人の納棺の現場は、割と和やかな雰囲気が多かった。綺麗な故人だったので、メークは多少血色の良く見える程度の化粧にした。
しかしよく考えてみると、何で亡くなった人の血色を良くしなくてはいけないのか?たまに、得意の斜め目線が出そうになるが、生きている人が喜ぶからいいのか。
と自分を納得させていた。
支度を整え面会をしてもらい
「寝ているみたい!」をいただいた。そのあと、故人に足袋や脚絆,、手甲、三途の川の渡し賃の六文銭を、葬家の皆で故人の身につける儀式まで来た。
「こちら俗に言われます三途の川の渡し賃六文銭です」と紙に印刷された六文銭の入ったズダ袋を胸元に入れてあげるように所長の少し高い声が響いた。故人の娘さんらしい人が、「待ってください!値上がりしていませんか?六文って・・・ちょっと」真顔で所長と私を交互に見てから、周りの親戚に同意を求めた。
「あっはい。値上がりはしてないと聞いております」所長は堂々とさらに甲高い声で言い放った。
『誰に聞いたんだよ』と心で所長に突っ込みをいれながら、一応頷いて、所長に同意をしているように見せた。
所長の堂々たる値上げ無し。の言動に葬家の誰もが納得し、皆、口々に
「よかったね、ばあさんもこれであんしんして渡れるね」と言い合っていた。娘さんは故人の胸元にズダ袋をいれたあと、ポンポンと故人の胸を優しく2回叩いた。
私はこの儀式がすきだった。普段、あの世なんてない。という顔をしてみんな生きているが、世の中の人が割と、天国も地獄もあの世の存在を信じているという事実がとても面白いし、あったかい気持ちになるときでもあった。そして、葬家の人たちも冷静に見えて、身近な人が亡くなるショック状態なので、納棺師は、あの世とこの世のメッセンジャーかのように扱われ、閻魔大王について聞かれることもしばしばあった。
「所長!値上がりしてないんですか?」
車に乗り込むと同時に、ニヤニヤしながら所長に突っ込んだ。
「してないよ。閻魔大王言ってたもん」にこりと笑いながら、所長はエンジンをかけて窓を全開にした。
春になりたての風は暖かさの中に冷たい空気が混ざっているのが気持ちいい。
海からの風は磯の香りが強かった。
16歳の時にユカちゃんという幼馴染の友達の遺体を見たのが最初だった。
ユカちゃんは歩道橋を渡るにも人の手を握ってないと渡れないくらいの高所恐怖症だったのに、地元で一番高いビルの屋上から飛び降りた。ユカちゃんは棺の中で無表情に横たわって、顔を異様に白く塗られていた。20年たった今でもお通夜の日の会場の雰囲気や照明。棺に入ったユカちゃんの顔。秋晴れの空、火葬場の煙突から煙がもくもくと出ているのをずっと見ていたこと。すべて鮮明に思い出せる。
ゆかちゃんが亡くなる1週間前、偶然駅でユカちゃんを見かけた。同じ電車に乗っていたらしく、ホームに降りると、ユカちゃんが少し前に歩いているのが見えた。声をかけようと人込みを縫うように追いかけたが、なかなか距離が埋まらず、ユカちゃんはエスカレーターに乗りドンドン高く上がって行った。
ユカちゃんは改札をでると、出発間際のバスに飛び乗ってしまったので、声をかけられずじまいだった。
私はユカちゃんよりはるかに年上になった今でも、生きているときに笑いあった顔より、棺の中の顔を未だに思い出す。
人間は生きているうちにどれくらい人の死を見るのだろう。
人はいつか死ぬ。寿命だろうが、自分で命を絶とうが、突然の事故であろうが、息をしない肉体になり燃やされる。そしてその人の核となる魂とやらは何処へ行くのだろう?
「みんなまた生まれ変わったりするのかな?」所長は珍しくセンチメンタルな事を業務連絡のように淡々といった。
磯の香りの強い風をまともに受け、顔は少しベタベタしていた。
「所長がそんなこと言うの、珍しいですね。まあ、あるような気もしますよね」潮風のベタベタをぬぐいながらいった。
「これだけ毎日人が亡くなっていれば、循環しないとね…」友麻は生まれ変わりを信じていたが、ロマンチックな事のように思えて照れくさいので、明言しなかった。
「ふーん。そうね」所長は自分が質問してきたわりには、あっけない返事だった。
「私はまたやり直すの、面倒だなって思っています。生まれ変わりは今回で終了したいです」誰に宣言しているのか分からないが、なんとなく大きい声で言った。
「友麻ちゃん結構信じてるんだね。そういうの。そうだよね。また小学校から入って勉強とか、俺、嫌だなあー、でも、美味しいものとかまだ食べたいしなあ、迷うね」
「で、友麻ちゃんは何がそんなに面倒なの?」所長は面接のように聞いてきたので、
「全般的にです!」と妙にきっぱりと言った。
「ほほう、全般的にね?まだ全部終わってないのに言い切るね。俺はそういうの、良くないと思うよ。妙にあきらめた感じ」ハンドルを握りながらあからさまにギロリと睨んだ。私は所長に反撃した。
「まだ、終わってなくてもなんとなくわかるんですよ。今回もかなり面倒だと思ってます」
「いやいや、仮によ、友麻ちゃんが今まで何回か生まれ変わってきたことがあって、今日までは面倒でも、明日からは面倒じゃなくなるかもしれないし、明日の気持ちなんてわかんないよね?今、面倒くさがってたら、今までの人生と同じなんじゃない?またやり直しなんじゃないの?そういうの。来世はもっと楽しいかもよ。それか今回頑張ったたら望み通り生まれ変わらないかもしれないし」所長は「どうだ」と言わんばかりに顎を上げて言った。
「急に言いますね。妙に真理をついたところ。グサリと刺さりました。致命傷です」
所長の突然のパンチにふらついた。
「でさあ、ケイちゃんどうなったの?」所長はそうそう!というような顔で朝の話の続きを聞いてきた。
「ああ、ケイちゃん・・・」
この後の話をするのが嫌だった。
「で?日食で動物動いたの?」所長は今日の仕事に追加がなく、営業所に帰るだけなので、少しテンションが高かった。
「動物は日食で動きが止まったり、変わった動きはしませんでした。野牛が集団で歩いているのを見ていたんですが、日食になって辺りが暗くなっても、全く動じることなくてくてく歩いていました」
「あんまり関係ないみたいですね。私が見たのがたまたまそうだったのかもしれませんがね。全然動じてなかったです」
「へえ、そんなもんなんだね」所長は少し不服そうに言った。
「じゃあ、そのあと、ケイちゃんとは別々に帰ったんでしょう?ケイちゃんは無事だったの?」
「ああハイ。あの人タフですから、全然、余裕です」
「でも・・・今では連絡取らなくなったんですよ。なんかね。カメラマン辞めてから会うたびにお互いなんとなく距離が出てきたというか、話がかみ合わなくなってしまって」
「私がカメラマンの仕事に未練があるのに、やめてグチグチしていたしそんなんじゃ、距離ができますよね」
「今じゃ、友達とは言えない
距離です」
夕暮れの傾いた太陽があたった海に目をやった。
「そうか、長年の友達もなんとなく気まずくなる時、ていうか、話があわなくなってくるときあるよな」と所長はあるあるというような頷きをした。
「楽しかったですよアフリカ。でもね、私の記憶では楽しかったこともケイちゃんはどうだったかなんて実際わからないですし、私の記憶の中ではすごく良い思い出なんです」
「友麻ちゃんまたネガティブだなあ」と所長は少し困り顔で
一瞬見た。
「ほんとネガティブですよね」私ははまた言われたとでもいうように、やけ気味に答えた
「ネガティブは友麻ちゃんの防衛本能なのかもな」所長は私の言葉をポジティブ変換してくれた。
所長はこの話は終わりした方が良さそうだと察知し気まずい雰囲気を変えるように
「明日も仕事だなあ。いやあ、頑張りますか?友麻ちゃんは明日、次郎と業務だな」と
高い声で言った。
「ああハイ。同期コンビで行ってきます」つられて高い声で言った。
外は黄昏時の光になっていた。青と赤紫とも言えない色で影がなくなり、昼間よりも入り江の岩場は輪郭が黒くハッキリ見えていて、海は凪いでいた。
アフリカの黄昏時に、長い長い一本道は風が凪いでいたせいなのか、周りの風景が舞台のセットのような作り物に思えたことを思い出した。風もなく影もなく、心地いい温度だったことを覚えている。自然の中にいるのに、無機質な感じが不思議だった。あのときに撮った写真はまだあるだろうか?アフリカの空の色を見たくなった。
「お願いします」朝いちばん車に乗り込み、この挨拶をするのが会社のマニュアルになっていた。次郎さんは昨日の帰社時間が遅く、少し眠そうだった。
次郎さんは私と同期と言っても私より一回り若い青年だ。感情はあまり表に出さないが自分の意見はしっかり言い、的確に仕事をするタイプで、たまにとっぴおしもない行動をして、皆をなごませてくれ、営業所の皆から愛されていた。
「友麻さん、今日の一件目、かなりヘビーですよね?」次郎さんは眠いのも手伝って、いつもより低い声で言った。
「そうですね。昨日遅く、ネットニュースで見た時にこの辺の住所だし、この納棺来るかもって・・・思って」
「そうですか。自分、昨日遅くてニュースとかチェックしなかったので」
次郎さんは若いが4歳になる息子がいた。とてもかわいがっていて、子供の話をするときだけは感情をあらわにするのがとても人間らしく見ていて面白かった。
「子供の納棺だけどだいじょうぶですか?」低い声で聞いた。
「仕事だし大丈夫ですよ」次郎さんはいつもよりきりっとした声で言った。
私はうんうんという感じで頷いた。
葬家に着くまでの道のりの車内の空気は重かった。
だんだんと葬家に近づくに連れ緊張感が増したが、周りの景色はいたってのどかな田舎道で、この時期特有のウシガエルが「ボウ、ボウ」鳴いていた。
「着きます」次郎さんは
地図を閉じた。
「はい。お願いします」私と次郎さんはあからさまに緊張していた。
次郎さんがエンジンを止めると、ウシガエルの鳴き声がさらに大きく聞こえた。
「自分挨拶してきます」次郎さんはサッと車を降りて行った。
次郎さんなかなか戻って来なかったので、自分だけ車内にいるのも悪い気がして、なんとなく外に出て、化粧バックの確認などをしていた。それから5分位してから、次郎さんは走って戻ってきた。
「友麻さん、遅くなりました。故人だいぶ、頭からの出血がひどく、まだ出血がとまらないようです。顔は綺麗ですが、髪が血で固まってしまっています。
湯灌は出来ないので、髪を桶で洗い、体をふき、体の処置をする方向性で行きましょう」
次郎さんの判断通りに準備することになった。
私と次郎さんは処置道具と大量のドライアイスをもって葬家に入った。
故人の家は小さなアパートだった。
棺がギリギリ入るくらいの大きさの玄関には、故人の兄らしき7歳くらいの少年が座り込んでいた。私は少年に「お邪魔いたします」
と頭を下げた。少年は不思議そうに見つめていた。
故人が寝ている部屋までは玄関から5歩くらいで着いた。部屋にはおばあさん、お母さん、お父さんがいて、故人をぼんやり見つめいていた。
次郎さんは「故人様にお手合わせさせていただきます」と低いが、優しい声で言った
故人への挨拶が終わり、次郎さんは葬家に挨拶をはじめたので、友麻も後ろで次郎さんに合わせて挨拶をした。
これからの流れを説明し、処置が多いので、見ていらっしゃると痛々しいと思われることもあるので、お立合いは出来かねますと説明すると、お母さんはよろしくお願いします。と次郎さんと私の顔を見て頭を下げた。
しかし、おばあさんは
「なんで立ち会えないのよ!そばにいてあげたいのよ!」とやり場のない怒りを2人にぶつけてきた。
次郎さんは「出血もひどいですし・・・申し訳ございません」と丁寧に言った。
「お体のご処置をさせていただいて、お着替えが終わりましたらお化粧を一緒にして頂けますでしょうか?こちらのドレスをお召しになるようなので、少し薄い色の口紅を付けてはいかがでしょうか?」友麻は壁にかけてある2着のドレスを手で指し示しながら、出来るだけゆっくりと穏やかな声で言った。
「これ着せていただけるんですか?硬直があるから着られないと思って。上からかけてもらおうと思っていたんです」お母さんはおばあさんと目を合わせながら言った。
「こちらのドレスをお召しになってから、ドライアイスのご処置をさせていただき、お布団をかけてしまうので、ドレスは首回りしか見えなくなってしまいますが、ドレスがもう一着あるようなので、どちらかをお布団の上からかけて差し上げるのはいかがでしょうか?」少しほほ笑んで言った。
「どちらもこの子のお気に入りなんです。そのようにおねがいします・・・」お父さんは初めて声を出した。
「ではそのように整えさせていただいてよろしいでしょうか?では、ご処置とお着替えが済みましたら、お声がけいたします」次郎さんはいつもより通る声で言った。
「お願いします」と両親とおばあさんは、私と次郎さんに深々と頭を下げた。
お待ちください。と両親とおばあさんに部屋から出てもらってから、次郎さんと小声の打ち合わせを急いでした。いつもよりも時間が押したからだ。この後も納棺があり、時間を詰めないと間に合わなかった。
私は体の処置ヶ所の確認をした。頭部からの出血は続いていた。その他は、擦り傷と打撲、目立った外傷はなかった。
まずは、頭部の出血を止める必要があったので、頭部の出血ヶ所を止血剤で固めた。思ったよりも止血個所は広かったので、友麻はドライヤーを使って、止血剤を乾かしたが広範囲だったので、思ったより乾くのに時間がかかった。
次に、血で固まってしまった髪の毛を洗った。髪の毛を入れた桶の中は、すぐにどす黒い血で染まってしまったので、次郎さんに何度も車まで行ってもらい、お湯を変えてきてもらった。血まみれのお湯を葬家で捨てるわけにもいかなので、綿でお湯を吸い取り、ビニールに捨てていた。部屋の中は血の匂いで充満していた。私は部屋の中にずっといたので、わからなかったが、次郎さんは行ったり来たりしていたので、
「友麻さん、この部屋、むせかえる位血生臭いです。カーテンがっちり閉めて窓開け喚起します」とひそひそ言った。その声にただ頷いて返事をした。
10回位で、桶の水が濁らなくなり、桶の中に浸かっている髪の毛は、黒く細い糸のように、お湯の中をゆらゆら泳いだ。
髪の毛を乾かすと、女の子の髪はサラサラになりシャンプーの香りがしていた。
次郎さんは「かわいくなりましたね」とわが子を見るように言った。
「うん。これで峠は越えた。そんじゃ、体拭いていて着替えに入ろう。腕の擦り傷は一応、傷が見えないよう包帯巻くね。おなか辺りに打撲がかなり痛々しいからこれも包帯巻くよ。見えないけど一応ね。もしも見えたらご両親悲しむからね」
「わかりました」次郎さんと私は体を清拭剤で拭きながら話した。
清拭が終わるともう一度、出血がないか確認して包帯を巻き始めた。清拭のタオルを片付け終わった次郎さんの動きが止まっているのが、横目で見えた。
「どうしました?」しっかりと横を向いて次郎さんを見ると、声を出さないように肩を震わせ泣いていた。
「あっ・・次郎さん大丈夫・・・・?」私は正直驚いてしまった。あのクールな次郎さんが肩を震わせ泣いている姿を見てしまった。と悪い気がしたので、すぐに女の子の方に向きなおした。
「大丈夫です。自分の子供と同い年なんで・・・こみあげてきてしまいました」
「いいよ。納棺の儀式やっておこうか?車にもどっていてもいいし」
涙を流している次郎さんをなるべく見ないように包帯を巻いていた。
「大丈夫です。仕事ですから!」と少し強い口調で言った次郎さんが、涙を自分のハンカチで、必死に拭いているのが横目で見えていた。
「わかりました。じゃ、そろそろ着替えるから、黄色いドレスを取ってくれますか?あっあと、鞄から消臭スプレーとってください」
次郎さんにニッコリ笑って言った。
「わかりました」と次郎さんもつられて笑った。
ドレスを着た女の子は、気のせいか表情も柔らかくみえたので、
「よかった」と独り言をいった。 化粧の前に詰め綿をしなければいけないので、子供の粘膜を傷つけないように慎重に詰
め綿をした。顔には傷がなかったのが何よりだった。
「次郎さん、葬家呼んでください」友麻は化粧準備をいそいそしながら言った。
「わかりました」次郎さんはドアを開けて「おまたせいたしました」と声を上げた。
おばあさんは「遅いわね!」と怒りながら部屋に入ってきた。そのあとにお父さん、お母さんが順に入ってきたので、私と次郎さんは「お待たせいたしました」と深々頭を下げた。部屋の入り口で中の様子を伺っている男の子がいた。さっき玄関で会った男の子だった。
「麗香ちゃん!やっぱりかわいい!黄色が良く似合うねー」おばあさんが急に大声をだしたので、男の子はびくっと体をゆらした。
「ほら、お兄ちゃんも見てあげなさい」とおばあさんは男の子の腕を引っ張った。男の子は昨日までいっしょに遊んだり、喧嘩をしていた妹が、よそ行きのドレスを着て横たわっている様子を、ただただ瞬きもせず、じーっと見つめていた。
私と次郎さんは立ち合いの化粧をするための声掛けを家族にした。
「お化粧をしていただきたいのですが、お願いできますでしょうか?」
友麻は、化粧道具の横に座り、家族に見た。
お母さんが「私・・」と言いかけたと同時におばあさんが
「私やる!」と言ったので、このままおばあさんに全部任せた方が丸く収まるのだが、お母さんの残念そうな顔があまりにも痛々しかったので、
「では、皆さんで少しずつして差し上げてください。お父様もよろしければお願いいたします」少しだけ声のボリュームを上げて言った。
「あっえっ?うんそうね」おばあさんは納得した様子だったので、丸く収まった。
少しこちらのペースに持って行きたい時に、穏やかながらも少し声のボリュームを上げるとなんとなく場が収まる説は、みずき先輩が教えてくれた術だった。
紅筆と口紅のパレットをまずはおばあさんに手渡した。おかあさんとおばあさんは相談してごく薄いピンクを選んだ。
おばあさんは上唇を塗った後、お母さんは下唇を塗った。お母さんはお父さんに紅筆を渡そうとしたが、お父さんは泣き崩れてしまい首を横に振っていた。その様子を男の子は膝を抱えながら座ってじっと見ていた。
お母さんは男の子にも紅筆を渡そうとしたが、首を物凄い勢いで横に振って嫌がった。
「ありがとうございます」お母さんはパレットと紅筆を渡した。
「少しだけお顔色整える為、パウダーをさせていただきます」と友麻は穏やかに言い、化粧筆でサッとファンデーションを塗った。
おばあさんは、「寝ているみたいになった!麗香起きなさい」と大声で言いながら泣き出した。お母さんは涙をためながら、優しく微笑んでいた。
このような場面はいつもこちらも泣きそうになるが、自分が泣いては収拾が付かないので、グッとこらえてあくまでも自分は冷静です。という演技を心がけていた。
「それではこちらのお姿でご納棺をさせていただきます」と次郎さんは穏やかな低い声で言った。
女の子の遺体の寝ている布団を持ち、家族皆で納棺してもらうことになった。通常大人の納棺の場合、遺体を落とさないように、一番重い両肩の布団は、男性の納棺師が持ち、頭側の布団は、女性の納棺師が持ち、他のヶ所を家族に手伝ってもらうようになっていたが、子供の納棺なので家族に任せた。
お父さんが肩口を持ち、お母さんが、頭、おばあさんは腰、男の子は足元の布団をもった男の子は先ほどまで近づくことも嫌がっていたが、次郎さんが男の子に「ここをもってあげてね」と、男の子の目を見て言うと「うん」と次郎さんを勇敢な顔で見つめ返した。両足は布団で覆われて隠れるほど、男の子は全力で足元の布団を持った。
その顔は妹の遺体を落とすまいと、力強かった。
次郎さんは皆が布団をしっかり持った事を確認し、低い通る声で、
「それでは、1、2の3でお布団を持ち上げてください」
「ご納棺でございます、1、2の3」と次郎さんの声掛けと同時に、黄色いドレスを着た女の子の布団は宙に浮いて、ゆっくりと棺に入った。
男の子は、棺に入った後も握った布団をはなさず、妹を見ていた。
「もう、大丈夫だよ。しっかり持ってくれてありがとう」次郎さんは少し笑みを浮かべて言った。
「うん・・」男の子は、握っていた布団を離し、その場でペタンと座り込んでしまった。
「ありがとうね」とお母さんは、男の子の頭をそっとなでると、男の子の目から涙が出た男の子は、お母さんにしがみついてワンワン泣いた。その涙が伝染するように、他の家族も泣き出した。
私と次郎さんは顔を見合わせて、
「涙の谷」のタイミングを
見計らった。
「涙の谷」というのは、みずき先輩が教えてくれたものだ。
葬家が泣き出して収拾がつかないときでも、必ず皆、一瞬、涙を止めるときがあるので、そのタイミングで、次の段取りに移ると良いよと教えてもらったことがある。しかし、その「谷」を逃すと「涙の山」が始まるからとも言っていた。一瞬涙が止んだ所で、私は次郎さんに、
次の儀式の合図をした。
次郎さんはドライアイスの処置、私は布団の上にかけるドレスを用意した。
「では、皆さまで、旅支度のセットをお足元に入れて差し上げてください」と通常の旅支度の儀式とは異なるやり方で行った。白装束を着ないので、脚絆や手甲、六文銭などは足元に入れてもらうようにした。
おばあさんは足袋、お母さんは脚絆、お父さんは手甲、男の子は六文銭。
「手元に入れてあげてね」私は男の子の目線にかがんだ。男の子は泣くのを必死にこらえ、両手には握りこぶしをつくって、棺の横で懸命に立っていた。緊張とこらえきれない涙で顔が赤らんでいる。私は男の子に六文銭の入った袋を渡すと、右の手の握りこぶしだけ開いて受け取った。袋をグッと握りしめ、棺の中の妹の手元に、そっと六文銭を入れた。
「これで大丈夫」と
男の子を見てほほ笑んだ。
「うん!」男の子は顔を高揚させて少し笑った。
最後に薄いピンクのドレスを、
布団の上から皆でかけてもらった。
ピンクのドレスをかけた女の子は、白い箱に入ったお人形のように、棺の中で眠っていた
「・・・棺に入っちゃったけど、麗香ちゃんとっても綺麗だし、眠っているみたいだし・・家族みんなで協力したから、喜んでいるはずだね」おばあさんはゆっくり落ちつた口調で言った。
「麗香・・・よかったね。お姫様になれたね…」お母さんは涙も涸れはてている様子で、一番冷静に優しい笑顔で、女の子をみつめていた。
お父さんは棺の横に座り、棺の淵に手をかけながら泣いている。男の子は、お父さんの横に立ち、棺にかけた父の手を上からやわらかく握り、涙を流さず妹をじっと見つめているさまは、勇敢な騎士だった。
「おふたを閉じさせていただきます」と次郎さんが棺の蓋を閉じることを、ゆっくりとした口調で言った。しかし、お父さんは棺から手を放そうとはせず、私と次郎さんが目を合わせた。その様子を見ていた男の子が、「パパこっち」と柔らかく握っていた手に力をこめて、お父さんを引っ張った。お父さんは力無く手を棺から離した。蓋をゆっくり閉じると、お父さんは床に突っ伏して融けてしまうぐらいに涙を流していた。
男の子はお父さんのそばに静かに立って、私と次郎さんを見つめていた。
「これにてご納棺の儀式を終了とさせていただきます。おつかれさまでございました」と挨拶をすると、男の子は「うん」と言ってから少し笑った。
おばあさん、お母さんは、深々とお辞儀をしていた。お父さんは突っ伏したまま、しゃがれた声で「ありがとうございます」と小さく言った。
友麻と次郎さんはもう一度深々とお辞儀をし、前机の準備をして玄関で挨拶をした。
お父さんはずっと棺の横で突っ伏していたので、おばあさん、お母さんに挨拶をすると、お母さんの太もも辺りからひょっこりと男の子が顔を出した。
男の子に「おじゃましました」と深々とお辞儀をした。
「うん。バイバイ。またね」と言いながら手を振ったので、
おばあさんは
「縁起でもないこと言わないの!」と叱った。何故怒られているのか全く分からない男の子は「なんで、ババ怒ってるの?なんで?」とキョトンとした顔で、お母さんに尋ねていた。お母さんも返事に困り
「いいの」といいながら、私達に謝ったので、
「失礼します」とそそくさとドアを開けて外に出た。振り返り、もう一度お辞儀をすると、男の子は少し笑って手を振っていた。私達も膝の辺りで手を振った。
車に乗り込むとすぐに次郎さんが「おつかれっした!」と大きい声で言ったので、
「お疲れっす!」と負けずに野太い声で言った。
2人とも緊張が解け「ふううう」と大きくため息をついた。
「腹減りましたね」
「そうね。セブンいきますか?」
「了解です」と次郎さんは軽快に返事をした。
私達はやり切った感でいっぱいだった。車窓から入る風とエアコンを同時に浴びながら2人で「あああああ風気持ちいい贅沢だああ」などと声を出したりしていた。先ほどまでうるさいくらい鳴いていた、ウシガエルの声も聞こえないほどに、エアコンを全開にした。
エアコンは台風のような轟音を立てていた。その轟音と混じるように、「波」という着信音設定の携帯が鳴っているのが聞こえてきた。
「えっ?まじで?嫌な予感」
とエアコンの質力を小さくしながら電話に出た。
「お疲れ様です!」電話に出ると電話の向こうから
「おつかれーっす!どおだった?大変だった?お疲れさん!」と軽快な姉御の声がした。みずき先輩だ。
「お疲れさまです。時間かかりましたが、無事終了です」
「よかったね。おつかれちゃん」みずき先輩はいつも、いろんなアドバイスをしてくれる皆のお姉さん的な存在。同い年だったが頼りになる姉貴として慕っていた。
「でね・・・物凄い悪いんだけど、追加入った。疲れているとこ悪いんだけど、葬儀社のホールに向かってほしい。場所はいつものメモリアルホール。保冷庫に入ってるから納棺っていうより、直せるようだったら処置してほしいらしいんだよね」みずき先輩は一気にしゃべった。
「はい。直せるって?自死?」
「違うんだよね。事故。今日は事故続きで悪いんだけどさ」みずき先輩が謝ることはなかったが、気遣ってくれていた。
「処置わかんなかったら電話して。こっち所長と一緒だから所長に任せられるから、電話に出られるからさ」
「わかりました。すぐ向かいます」電話を切りながら、次郎さんを見た。次郎さんは少しがっくり顔で私を見ていた。
「次郎さん、メモリアルホールで追加入った。事故だって」
淡々と言った。
「了解。コンビニは後で、ですね」次郎さんはやはりがっくり
声で言った。
「そうだねえ。後でにしようか…」私もちろんがっくりしていたので、おばあさんのようなしゃべり方で返事をした。
メモリアルホールに着くと担当の人が待っていた。
「待ってたよお。すごいの。事故~。直るかなあ?直してほしんだよねえ~顔~」といつも
語尾が伸びる前田さんだった。
「はい。故人様はどちらにいらっしゃいますか?」次郎さんはきっぱり語尾を切って話した。「こっち~」と案内された部屋には、検視がお終わりグレーのビニールシートに包まれた遺体が保冷庫に入っていた。いわゆる「警察下げ」だ。事故、自死、自宅で突然死、他殺など、病院ではないところで、突然亡くなった遺体は検視が入り、警察から帰ってくるので、「警察下げ」と呼んでいた。
グレーの防水ビニールの頭側と足側を結んであり、「ささだんご」のような形になっていた。この姿を見る家族はトラウマになりそうだな。と友麻はいつも思っていた。
故人に挨拶をし、グレーのビニール結び目をほどいた。結び目は頑丈に結んでいるので、ほどくときにやけにガサガサと派手な音がした。顔は右半分陥没し、右目が飛び出ていた
「なんかねえ、バイクに乗っていて、電柱にぶつかったみたいなのお。顔から。だからこんなかんじ~らしいぃ」前田さんはこの故人を見慣れたのか、いつもと変わらない感じでまじまじと故人の顔に自分の顔を近づけながら言った。
「ちょっと、難しいですかねえ。右半分は復元レベルなので、今ここで直すことはできません。お時間いただくようになりますし、お値段も通常状料金とは異なりますし」
次郎さんは丁寧に前田さんに言った。
「あっそおぅ~でも、そこを何とかぁ、ご両親今からくるからさぁ。あっちょっとまってぇ、電話入った、ごめんね~・・・あっもしもし、おつかれさまです・・」前田さんは携帯で話しながら外へ出て行った
「友麻さんどうですか?無理ですよね?」
「うーん、無理だね。目が飛び出ているし、左半分綺麗にして右隠す感じはどうかな?と思ったけど、鼻が陥没しているから、鼻も隠す必要あるし、鼻を隠すと、左目だけって・・」まじまじと見ている故人の顔は、仕事でなければ直視することが困難な程に、顔のパーツはつぶれたり、飛び出ていたりしていた。故人の顔を触ったり、頭の向きを変えたりしている私を次郎さんは少し遠くから見ていた。
「自分、こういう遺体なら大丈夫です。っていうか、見てもさっきみたいになりません」
次郎さんの言うさっきみたいというのは、女の子の遺体を見て泣いた事を言った。
私は次郎さんを一瞬睨んだ。
もちろん次郎さんに悪気がないのはわかっているが・・・、気まずい雰囲気になるのはわかっていたが、イラついてしまった。
「いや、この人もさ、同じだよ。ご両親今からくるって、言っていたよね。この人たぶん、40歳くらいだろうけど、両親にとっては大事な子供なんじゃない?さっきの女の子のご両親の気持ちと何ら変わんないと思うけど」と冷静に言った。
「アッ、自分そういう意味じゃなくて・・・」
「うん。わかってる。だけどさ、私たちこの遺体の処置何もできないのに、失礼じゃん。陥没した顔で死にたくなかったと思うよ。この人だって。何も出来ないからさ、せめて少し顔拭いてあげよっか?」
となるべく穏やかに言った。
「はい・・そうですね・・・」
次郎さんは少し苦い顔をした。
次郎さんと私は無言で仕事に取り掛かった。部屋の中の空気は悪かった。その時、タイミングよく扉が開いて、文字通り空気が変わった。前田さんが戻ってきた。
「どお?無理ぃ?」だいぶ空気を一変する話し方で2人は助かった。
「すみません。中途半端に直すのは余計辛いと思うので、今から顔の出血跡や、産毛の処理を少し綺麗にさせていただきます」と言った。
「そおっかあ、そうだよね。中途半端もつらいかあ、じゃ、綿布かけておくしかないねえ」
「力不足で申し訳ございません」次郎さんと一緒に頭を下げた。
「いいのいいのぉ、急だったからねぇ、いつもお世話様あ」と前田さんは首をコクっとさげ、くるりと扉の方へ歩きながら、終わったら事務所にいるから声かけてと、後ろ手で手を振った。
顔を拭いて産毛を剃ると、それだけでもだいぶ綺麗に見えた。
「綺麗になりましたね!」
次郎さんを見ながら、
ニッと歯を見せた。
「はい。そうですね。だいぶスッキリ感がありますよね!右側凄いことになっていますが・・」次郎さんの声も少し元気になった。
「もう後は何もできないよ」天井からやけにうるさい音のする空調を見ながら言った。
「そうですね。扉閉じて前机用意します」次郎さんはガラス張りの保冷庫の扉をそっと閉じた。
前机を用意し、お線香を数本立て2人で手を合わせた。お線香の煙は、天国への門のような、やけに煌びやかな金色の祭壇の方へとゆらゆら上がっていた。
事務所にいる前田さんへ挨拶に行くと、頑張ったから。と、お駄賃をもらう子供のように、凍らせたフルーツゼリーを一個ずつ手渡された。
「ゼリーは凍らせて,半分とけた状態が一番おいしいよねえ~」と前田さんは嬉しそうだったので、2人はそれが可笑しくて、顔を見合わせて笑いあった。前田さんにお礼を言うと、「またね~」と笑顔で見送ってくれた。
「春だけど、毎日暑いですよね」車に乗り込んだ次郎さんはエンジンをかけて
冷房を全開にした。
「次郎さん、前田さんゼリー食べよっか?これから昼抜きで、次行かないと間に合わないもんね」と言いながらすでに蓋を開けていた。
「そうなんですよ。昼抜きですよ。この会社マジ、ブラック!」と次郎さんは言い捨てながら、ゼリーの蓋をこじ開けた。
「そうだ!そうだ!ブラック企業だ!暗黒だ!」半分凍っているゼリーの弾力と、シャリシャリ感でテンションが上がったので、次郎さんに加勢した。
納棺師になりたての頃、遺体の傷みや、においのひどい現場後は、家に帰っても何も食べられない事が多々あったが、感傷的なって食べないでいると、仕事がある日は毎日食べられないということになってしまう。業務が立て込むことが多く、次の現場に行く車中、運転しながらおにぎりを食べることが通常だったので、休憩時間というものはなかった。仕事は、スーツを着ているが、やっていることは、遺体を抱きかかえたりする肉体労働だ食べないとこちらが生きていられなくなる。
自分は繊細で、死にたい願望が常に付きまとう人間だと思っていた節があったが、そんな繊細じゃないし、死にたい願望がある割には、納棺業務後お腹かが減るような太い人間だと最近わかった。
結局「生きていたい」と体がいうように、豪快にお腹が鳴った。
「半分凍らせたゼリー最高!」
「小さい幸せですよね。でもマジで半分凍ったもものシャリシャリ感・・・」次郎さんはしみじみ言いながら、強風にした冷房の吹き出し口に顔を近づけた
「結局さ、いろいろ小難しい事が多いけど、半分凍ったゼリーに救われるわけよ」
へへへと笑った。
次の現場に向かう山道には、ぽつぽつと山桜が咲いていた。山桜は路地に人間が植え込んだ桜とは違い、儚さを感じなく勇ましい。
一年に一度、強烈に存在を主張するのだ。普段は周りの木々に同化しているが、春になると新緑の木々の中で、淡いピンク色の羽を付けて
「ここにいる」堂々と
立っていた。
風が吹く度に花びらは、枝から飛び立つ順番を待つように、ひらひらと羽ばたく練習をしている。強い風が吹いた。
花びらは白い生きもののように、すいすいと風に泳いで飛びたっていった。
久しぶりの休みだった。
テレビをつけた私の目に飛び込んできたのは、彼女の映像だ。
どこのチャンネルに変えても、やはり彼女のニュースばかり。
スタジオマン時代に、友麻の手を握った「竹島桃子」
ワイドショーは、彼女が自殺した理由をフリップにまとめ、生前の映像を流し、コメンテーターは悲痛そうな顔でコメントしていた。ワイドショーは勝手に、彼女の自殺の理由を決めつけていた。
私は「・・たぶん・・・。理由なんて本人にもわからない」ぶっきらぼうに呟いた。
自分で自分を救う。いまだに、どうすれば救えるかなんてわからない。この先わかる時が来るのだろうか?いや、言葉では言えないけど、毎日その答えをだしているような気もする。
ふと気が付くと膝が軽く猫の
「オー」がいない。いつも寝ている場所や家じゅう探したがいない。
少しだけ開いた網戸の隙間から「オー」は外の世界を旅しにでかけてしまったらしい。
「オー」は間違いなく目をゆっくり閉じた。
あの時、「オー」がゆっくり目を閉じたのは
さよならだった。
了
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