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サッカーと僕

第一章 僕にきっかけを与えてくれたもの

僕は、5歳から、今このときまでサッカーをしている。5歳の頃、始めたきっかけは、おばぁちゃんの家にいたときのこと。僕は家の窓から見える中学校のサッカー部の練習をまじまじと観ていた。そこに母が来て「サッカーに興味あるの?」と一言だけ言った。
当時僕はサッカーに興味があったのかわからなかったが「これ面白そう」と一言だけ返した。
そこで母から「ならサッカーやってみる?」と言われた。当時から無口だった僕は「うん」の二文字だけを返した。

後日、通っていた幼稚園のサッカースクールに週に2、3日だけ通わせてもらった。
初めは頭ごなしにボールを触りドリブルをしシュートをしサッカーを無意識に愛する少年になっていた。週2、3日だけでは物足りなかった僕は週末も父に公園へ連れて行ってもらい満足するまでサッカーをしていた。
そんなある日の週末、両親と公園に行った。僕は普段以上にボールを蹴っていた。母からは「もう帰るよ」と何回も言われていた。しかし父はずっと無言で僕を見守っていた。そんな母の言葉に気づく余地もなく僕は必死でボールと戯れていた。痺れを切らした母は、僕の近くに来て言った。「こんなサッカーしたいならどこかクラブチームに入る?」と。僕は、まだ黙々とボールを蹴っていた。そこから僕が満足するまでボールを蹴らせてもらい自宅に帰った。帰宅すると普段の倍以上の汗がユニフォームに染みていた。そこで僕は初めて気がついた。「こんなにサッカーしてたのか」と…

その数日後、母が「明日からクラブチームに入るから幼稚園のスクールはおしまいね」と言った。僕は「分かった」の一言だけを返しこの日は寝た。
翌日、幼稚園が終わり帰宅すると新しいユニフォームが用意されていた。僕はこの日もサッカーがしたくてたまらなかった。母には何も言わずそのユニフォームに袖を通した。母が家事を終え、僕のユニフォーム姿にあたかも気づいていないかのように「よしサッカー行こうか」と言い、車で数分のグランドまで送ってもらい練習をした。ものすごく楽しかった。今までは一人でサッカーをしていた感覚があったが、仲間と一緒に同じゴールを目指す。面白い。この感覚は当時、無意識的に感じていたようだ。


第二章 僕の中核になる言葉の意味

それから僕は小学生になった。小学校が終わり相変わらずクラブチームの練習に行っていた。その頃から同じ小学校の友達とも一緒に行っていた。クラブチームは週末も活動があった。僕は「必死にー」というより「今日もサッカーできる」という感情で毎日練習に行っていた。ものすごく楽しかった反面「コイツには負けない」という感情が芽生えていた。
時々、週末にフェスティバルが行われる。僕のクラブチームは人数が多かったため、その試合にエントリーされるチームには一応、ヒエラルキーが決まっていた。しかし、当時の僕には試合に出られる喜びと楽しみで精一杯だった。僕は運よく一番上のチームに入り試合に出ていた。そのフェスティバルは年に一回開催される大きなものであった。その当時から「サッカーは楽しいしもっと上手くなりたい!」という感情と「この大会絶対優勝してやる!」という感情。自己目標と課題目標が同時に芽生えていた。
当時は仲間と、というより友達と優勝目指す感覚が大きかった。そして、その大会の決勝にいけた。僕がゴールを決め優勝した。嬉しかった。その後、テレビのインタビューがあったが、決勝点を決めた僕は一番端に隠れるように立っていた。無意識だ。インタビューにはみんなものすごく興味を持って受け答えをしていた。後日最後にみんなで優勝を喜ぶシーンの映像を見返したらなんて言っているかわからなかった。僕は内心ものすごく嬉しいがそのような表現はできなかった。

そして実はもう一つ年度末にある大きな大会があった。この大会にも前回同様「絶対優勝してやる」と強い志で挑んだ。またもや運よく決勝まで行けた。絶対自分が決めてやると強い志で挑んだ。しかし結果は負けた。おそらく人生で始めて勝負に負けた。体の水分が全部なくなるくらいまで泣いた。試合後のこと、この試合もテレビで放送されるため優勝したチームがインタビューを受けていた。それをみてこの僕が、なぜか試合直後より悔しくて大泣きしていた。インタビューの端にいるタイプの僕が何故あのような感情になったのかいまだに分からない。
大会の結果は銀メダルに終わり悔しさをシャツに滲ませながら車で家まで帰っていた。運転席には父。助手席には僕。後ろの席には母。その隣には僕の影響でサッカーを始めていた妹。そんな車内。あまり口を出さない父が僕に言った。
「今日ものすごく悔しかっただろ?」僕「うん」父「勝負に勝つていうんはな、楽しいとか絶対勝つていうつよい気持ちだけじゃダメなんよ」と言った。当時の僕にはよく分からなかった。そのとき後部座席に座っている母は無言だった。
家に帰り夕方。母が夕食の準備をしている間に父に近くの公園に連れて行ってもらい一緒にボールを蹴った。父は「今日何がダメだったと思う?」と僕に言葉を投げかけた。僕は、よく分からなかったが決勝で得点を決めれなかった悔しさがあり「ゴールを決めてない」と一言言った。「そうか」「ならもっとボールを蹴る練習をせないかんな」と跳ね返ってきた言葉がものすごく心に刺さった。それから練習を再開し父にドンピシャにボールが蹴れるまで終われないという練習をした。
午後8時、「あと一本!」父の声は公園を囲む団地のせいで、ものすごく響いた。僕は喋る気力もなく、がむしゃらにボールを蹴り続けた。
「よし!終わり!!」父の声はまた響いた。僕は嬉しさよりもしんどさの方が大きかった。帰り道では喋る気力もない僕を父は「よくやった」と称える言葉もなくそっとしておいてくれた。

その次の年。僕はもう一つの大きな大会があることを知った。この大会はテレビは来ないが昼休憩に開催されるリフティング大会があった。優勝者は○○産のスイカだ。僕はエントリーし必死に優勝を目指して頑張った。しかし結果は3位。3位は参加賞しかもらえなかった。ものすごく悔しかった。でも僕はスイカが欲しかったわけではない。優勝できなかった。負けたことに対してものすごく悔しかったのだ。
その日の帰り道の車内。再び同じ布陣で席に座っていた。僕は父の横。悔しさと疲れを感じていた僕は無言で車窓を眺めていた。車を10分程走らせたところで父は言った。「今日ものすごく悔しかっただろ?」僕「うん」母は黙っていた。この会話といい雰囲気といい観たこと・聞いたことのある光景だった。その後、父は再び僕を呼び家の庭でリフティングの練習を見守っていた。「またノルマがある…」僕はそんなことを思いながらボールを蹴っていた。それでもサッカーは嫌いにならなかった。その次の日も次の日も父が不在でも一人でボールを蹴っていた。

その翌年、3年生の頃。キッズサッカー最後の年になる。
僕はリフティング大会含む3つの大きな大会に向けて日々努力した。気づけば自分で目標(ノルマ)を立てていた。その大会のことよりも目先のことでいっぱいだった。そして初めに来たのは前回3位だったリフティング大会である。朝、試合会場につき開会式に出た。そこで「今年はリフティング大会中止です」とサッカー協会の人の声が今でも忘れられない。僕は頭が真っ白でいた。悔しいという感情よりもなにも考えれない状況だった。
次にきた大会は今のところ2年連続で決勝で得点を決め優勝している大会だった。
案の定、テレビは来ている。僕は「今年も優勝するぞ」と意気込んで挑んだ。
結果は再び優勝。僕もゴールを決めれた。今までにないほど嬉しかった。試合後のインタビューでは、横一列に得点者から順に並ぶため僕は二番目に並んでいた。「優勝した気分はどうでしたか?」とインタビュアー。僕は「嬉しかったです」の一言だけを返した。後で見ると全然嬉しそうではない。でもこの頃からこれが僕だと確立していた。
最後の年度末の大会。僕は1年生のときの悔しさをもとに優勝を志していた。
相手は先ほどの数ヶ月前に決勝で戦って僕らが勝ったチーム。結果は惨敗。
ものすごく悔しかった。インタビューを受けているシーンを見てまた泣いた。

そして、この年の大きな大会を無事終え、4月から少年サッカーになる。キッズサッカーでの出来事を振り返っていたときふと思った。小学1年生の当時はよく分からなかった父の言葉。振り返ってみるとものすごく心に刺さった。ただ楽しむ、志すだけでは上にいけない。努力して始めて勝負になる。喜びを感じられる。そんな教訓を叩き込まれていた。また、努力しても誰のせいでもない、仕方のないことは起こる。努力しても上手くいかないことはある。そんな、なににでも当てはまる人生の教科書に書いてあるような言葉で父は僕に教えてくれていた。



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