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『日の名残り』 カズオ・イシグロ 土屋政雄訳

ひとり遅れの読書みち   第21回

    イギリス貴族の屋敷ダーリントン・ホールの執事スティーブンズが、数日間のドライブ旅行に出かけ、その途中での出会いや執事として働いてきた過去30年余りを振り返る。年老いた今、過去を理解しようとする中で、思い出すのは、敬愛する雇い主ダーリントン卿のこと、女中頭ミス・ケントンとの交流、また亡父のことなど。第1次大戦後のイギリスを中心としたヨーロッパの政治状況も語られる。
    イギリス南西部コーンウォールを目指す旅の途上で偶然出会う村人たちの暮らしぶりや美しい田園風景が、様々な想い出とともに描かれ、自然と執事のやさしさに引き込まれていく。

    スティーブンズが執事を勤めたのは35年間で、その間には様々な出来事が起きた。雇い主ダーリントン卿は国家を想う気持ちの強い人であり、私的な企てながら「国際会議」を開いてヨーロッパの平和と安定の維持を目指す。そうした大事な会議の最中に、スティーブンズは、副執事として働いていた父を亡くす。執事の鑑として尊敬してきた父も70歳を越えて、足腰は十分に動かなくなっていた。仕事中に倒れて部屋に運び込まれる。医者も呼ばれたが、治療のかいなく息を引き取る。スティーブンズは大事な持ち場を離れることができず、悲しみをこらえての業務だった。

    女中頭のミス・ケントンの想い出は複雑だ。大きな屋敷だけに女性のスタッフを管理するケントンとの交流は、業務上どうしても必要なもの。が次第に愛情らしきものも芽生えてくる。ただはっきりとは自覚できていなかったようだ。女史は結局別の男性との結婚を決めてダーリントン・ホールを離れていく。今回の旅はそのケントンに出会うのが目的。20年ぶりだ。女中頭として再び働いてもらうよう勧めるつもりだが、やはり心の奥では本当の気持ちを知りたかったのだろう。

    一方第1次大戦後のヨーロッパではベルサイユ条約のひずみが生じていた。苛酷な条項が大きな負担となって、ドイツだけではなくヨーロッパ全体が不安定化していたからだ。ダーリントン卿は「ドイツ民族への復讐」心を抱く世相を憂いながら「この世に正義」を見出だしたいと働きかけていた。駐英独大使リッベントロップと英政府要人との会談を取り持つなど、ドイツとの融和を図ろうとした。しかしその姿勢は国内外から非難、反発される。スティーブンズはそれでも雇い主への信頼を揺るがすことはなかった。

    なお、早川書房のノーベル賞記念版(2018年初版印刷発行)では村上春樹が解説を寄せている。その中で、イシグロ一家との交流を明かすとともに、本書でイシグロが「見事なブレークスルーを遂げた」と評価している。また「まるで日本人の物語であるみたい書かれているな」と実感したと述べ、主人公の執事については「ストイックな、自らを殺してまで主人に仕える、あるいは規範に殉じるその生き方は、そして彼の内で堅固にクリアに維持される限定された世界観は、日本古来の武士の生き方と共通項を有しているようにさえ感じられる」と記す。興味深い感想だろう。
    

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