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“ママのわたし”を透明にしたのはわたし

「出産祝いのチョイスに困ったらママ用のプレゼントを選ぶのもGood!」、妊娠中に読んだ育児雑誌にはそんなことが書いてあった。ママ用のプレゼントとは、ちょっと値の張るルームウェアだとか、時短家電、高級レトルト食品といった、要するに“新米ママ”のための贈り物だ。

当時の私は、待望の赤ちゃんへのプレゼントを差し置いて大人へのプレゼントだなんて、なんだかまるで“他人の子どもに興味がないので”と言っているように受け取られそうな気がして、さんざん迷った挙句 赤ちゃん用品店のクオカードや、何枚あってもいいスタイやおくるみなどを選んできた。

昨年自分が出産したとき、親戚や親しい友人から出産祝いをいただいた。中には「どんなものが欲しい?」とあえて事前に聞いてくださった方もいた。そして「娘ちゃんのものでもいいし、ママが使うものがあればもちろんそれでも」と言うのだ。私は自分が母親という“当事者”になってもなお、「ママが使うものがあれば」というのは単に私に気をつかった一言だと思っていたのである。もちろん、迷わず娘用の育児用品をプレゼントしていただいた。

娘が生まれてからというもの、欲しい服・雑貨・本…欲しいものすべては「娘に買ってあげたいもの」にオートで変換するようになっていた。コロナがなければお出かけ先でさえも娘中心のチョイスになっていたことは間違いないだろう。

たまには自分へのご褒美…と、自分のものを買うつもりで出かけても、怖いくらい無意識に娘のものだけを買って帰ってくる私がいる。でも、本当に欲しかったのだから仕方がないのだ。0才の娘は自分からあれが欲しいこれが欲しいと口にすることはまだないが、「ママが買ってあげたの」という私の自己満足に似た一方的な愛情が、私自身をとても満足させていた。ママとなった私自身が知らずのうちに「ママという存在を透明化していた」ことにも気づかずに。

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今日、実母と買い物に行くことになった。「娘ちゃんのお洋服買おうね、あとママのお洋服も買おうね」と、道中しきりに念を押す実母。「私はいいよ、体型も戻って産前の洋服が入るし」と遠慮するも、どういうわけか実母は譲らない。「自分の服より娘の服が欲しいなぁ」と話すと、「もちろん娘ちゃんの服も買おう、で、ママにも買ってあげるから」と。

そこまで言うなら買ってもらわない理由もないし、せっかくなのでと浮足立って百貨店に着いた。やはりいつもの習性で真っ先にベビー服コーナーに足を運ぶ。店員さんに娘を可愛い可愛いと褒めちぎってもらって上機嫌な私の財布のひもは今日もゆるみっぱなしだった。

3着ほど購入したところでつい「よし、帰ろうか」なんて言いそうになる。実母はすかさず「次!ママのお洋服ね」と婦人服売り場にベビーカーを押した。両手に娘の服を引っさげて、最後に服を買ったのはいつだったかと記憶をたどりながら婦人服売り場に着いた。ちなみに、最後に自分の服を買ったのはちょうど1年前。目立つようになったお腹でも無理なく着られるマタニティ服を買ったのが最後だろう。

もともと服は好きだし、さらに「どれでも好きなモノをどーぞ」と実母が笑ってくれることも嬉しくて5~6店をはしごするが、驚くほどにピンとこない。今夏のトレンドが好みではないとかそういう次元の話ではなく、自分に合う服、いや、自分がどんなセンスの服が好きだったかが思い出せない。それっぽいワンピースを鏡の前で自分に当ててみても、似合っているか否かさえ分からないのだ。

するとお昼寝がしたくてぐずり始める娘。ベビーカーに長時間座らされたこともどうやら機嫌を損ねた要因のようで、体重8kgを越えた娘を実母と交代で抱きかかえながら服を見る。「また日を改めよう」、気持ちだけで十分嬉しいよと。本音だった。それでも実母は、誕生日でもない私のために服を探す。

幸運なことに、美しいブルーのロングワンピースに出会った。ちょうど今日から始まった1週間限定のポップアップショップで一目ぼれした。決して妥協案ではなく、本当に欲しいと思える一着だった。店員さんから「似合いますね」と褒められる前に、自分自身も「似合う」と確信していた。自分のテンションがワッとあがるのを感じる。なんだろう、この感覚。お気に入りを見つけたときの、この感覚。「産後 娘のものばかり欲しくなった」というのは少々誤認があったのだ。「私がママである私を透明化していた」だけだったのだ。私は、ここにいる。

どんなに子育てが大変だとはいえ、大変なことも含めて子どもが可愛いことに変わりはないから、子どもを取り囲む人たちは皆「子どもが」「子どもの」「子どもに」が、口癖になる。私も含めて口を開けば子ども子ども子ども。産後、すべての会話の中心が育児になってしまうがために、子ありとなったママと子なしの友人で会話が合わなくなっていくという話も実によく聞く話だ。

帰宅後 娘をお風呂に入れて寝かしつけた。時計を見るとやはり今日も22時過ぎ。ようやく今日買ったワンピースを袋から出し、鏡の前で当ててみる。自然と口元がゆるんだ。今日このワンピースに出会うまでの一時間、私が探していたのは好みに合うブルーのワンピースではなく、実は私自身だったのではなかろうか。自分がどんなことが好きで、どんなものがほしくて、どんなおしゃれをしたいか…娘のことで占められていた脳内に、自分のことを考えられるスペースがようやくできてきた。いつのまに見失っていたのだろう、知らないうちになくなってしまっていた。

どうして実母がそのことに気が付いたのか、分からない。もしかしたら実母も、30年前に同じように自身を透明化していた当事者だったのかもしれないとさえ思う。

子どもが放つ底抜けに明るいパワーがまぶしすぎて、母親である自分の存在はついかげりがちかもしれないが、娘という宝物をもっと大好きでいるために、自分のことも同じかそれ以上に大切にしてみようと思った夏の日だった。

明日はブルーのワンピースで出かけよう。
なかなか梅雨が明けないが、娘と楽しく7月を駆け抜ける。


後日談。


2020/07/29 こさい たろ


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