暗記科目の弊害

突然ですが、「人間は考える葦である」というフレーズについてどのくらい知っていますか?

おそらく聞いたことがあるくらいの人が多く、少し知っている人でもパスカルが言ったということまでどまりだと思います。

では、「パスカルの本名は?」や「葦とは何か?」、「何という著作で書かれているか?」などより深い知識は持っているでしょうか。そもそもこういった周辺知識よりも、そもそも「人間は考える葦である」の意味は分かっているでしょうか。

ちなみに僕がこのフレーズについて知っていることは、フランス人哲学者のブレーズ・パスカルがその著書『パンセ』(意味は「断章」だったはず)において書いたフレーズで、人間というのは自然においては一本の葦(細い植物的な)のように弱い存在であるけれど、考えるということができる点は人間の特殊性であり、その尊厳である、という意味がある、といったところです。

僕自身哲学科ではあるため、フレーズの意味はだいたいおさえてはいますが、パスカルの具体的な出自や『パンセ』の出版年などは覚えていません。完全に勉強不足ではありますが、調べれば分かるということは覚えています。

さて、ここまでつらつら書いてきましたが、僕が問題に思っていることは、小学校から大学受験までやってきた暗記科目と言われる科目についてです。過激なことを言うかもしれませんが、僕が思うのは、「暗記科目っていらなくない?」ということです。

さっきのパスカルの例を挙げるとと、「人間は考える葦である」というフレーズを暗記して知っていることに意味ってありますか?これをパスカルが言ったということを暗記して何か新しい考え方が生まれましたか?と僕は聞いてみたのです。

暗記科目とは

それではまず僕がいらなくない?って考えている暗記科目について考えていきます。

暗記科目と俗に言われる科目は、社会理科かなと思います。でも、ここで一つ誤解しないでいただきたいのが、僕は社会や理科がなくなるべきと言っているわけではないことです。

よくないのは、暗記科目としての社会や理科です。もう少し詳しく考えていきます。

みなさん、テストの前日に理科や社会の単語帳や年号を覚えるなどして、ある程度のテストの点数をとった経験がありますでしょうか?ちなみに僕はあります。あまり社会が得意ではなかったので、ひたすら年号を覚えていた記憶があります。

つまり暗記科目とは、単語や年号を暗記して、それを答案用紙に正しく書くことで、ある程度の点数を取ることができる科目と言えるでしょう。

暗記科目のテスト

さてこういった暗記科目のテストでは、おそらく単語や年号を聞かれることが多かったと思います。これは、裏を返せば、単語や年号を正しく覚えているかによってしか学習の進歩を把握するための尺度がないということになります

これに対して、数学のテストを考えてみてください。数学の授業では、公式を教わることが多いと思います。そして、数学のテストではその公式をそのまま書くことはほとんどなく、公式を使って問題を解くと思います。つまり、テストにおいて、公式を正しく使えるかどうかにより、公式への理解、すなわち学習の進歩を把握することができると言えます。

ここで覚えることの差が生まれています。数学では公式を理解するというステップがあるのに対して、暗記科目には理解というステップはありません。

そのため、勉強はひたすら暗記するというテストのための勉強にしかならなく、テストが終わると忘れることが多いと思います。

(テストも理解も人によって異なると思いますが…)

暗記科目ができる人

以上のように、暗記科目の暗記事項をどれだけ覚えることができるかがテストでは勝負になっています。それゆえに、暗記事項に興味関心がある人の方がたくさんの暗記事項を覚えることができると思います。

例えば、武将が好きな人は歴史やその武将の戦いなどをたくさん覚えることができると思います。それで社会でいい点数がとれるという流れです。

よって、暗記科目のテストは暗記事項に興味を持てるかどうかで点数の高さが決まるという仕組みになっていると言ってもいいでしょう。

さて、このような高い点数を取れる人は、本当に頭がいい人と言えるのでしょうか

正直僕はこの答えが分かりません。頭がいい傾向にはあるけれども、必ずしもそうとは言えないくらいは言えるかもしれません。なので、暗記科目が得意な人=頭がいい人とするのは少し軽率だと僕は思います。

暗記科目的な考え方

さて、暗記科目ができる人がたくさん暗記して、テストで問題に正しく答えることができるのは立派なことではあります。

ただ僕はこれは意味がないことと思っています。なぜなら、やっていることはGoogle検索と何も変わらないからです

暗記科目のテストと照らし合わせてみると、テストの問題が検索ワードになります。そして、その検索ワードを頭の中、あるいはGoogleで検索することで、答えを導き出し、その答えをデバイス上に提示あるいは解答用紙に書きます。

このように考えると、暗記科目のテストでやっていることは、検索をかけるのが、頭の中かGoogleかの違いしかGoogle検索と違うことがありません。テストにスマホは持ち込めないですが、テスト以外だとスマホを使えるので、暗記科目のテストはテストとしてしか意味をなさない無駄なものだとおもいます

つまり、頭の中よりもGoogleの方がより多くの知識を持ってるので、日常でGoogle検索ができる以上、暗記科目は必要ないと僕は思うに至ります。

暗記科目の弊害と改善点

ただし、弊害もあります。何でもGoogle検索すれば答えが返ってきてしまうとなると、何も考える必要がなくなってしまいます。必要なのは文字列をただ正確に検索するだけということです。

この文字列と答えの一対一対応でいいというスタンスが様々なところに弊害を及ぼす恐れがあります。

例えば分かりやすいコンテンツを求めるようになってしまうなどは考えられます。ただ打ち込むだけの脳になってしまうと、複雑なことを捉えにくくなってしまいます。Google検索できないので。それゆえに、設定が新鮮で、ある程度の過去を持ったイケメン美女が剣や銃でドンパチするコンテンツが流行るようになると思います。これに対しては是非はあると思いますが、僕は多少ややこしいコンテンツの方が好みです。

それでは、以上のような脳死とも言える状態に陥らないためにはどうすればいいのでしょうか。そこで、Googleで文字列に答えを対応させるという思考ではなく、Googleの使い方を学ぶ思考が必要になるでしょう。つまり、暗記科目でもただ暗記するのではなく、それを応用できるように学ぶのです。社会なら年号と出来事からその時代の潮流を捉えるなどが挙げられそうです。

さいごに

暗記科目はGoogleが発展していく以上、なんの意味も成さないものとなってしまいます。なので、暗記科目と呼ばれることが多い社会や理科は、暗記科目から脱さねばならないと思います

基本的には最近の教育の流れとしては、こういった暗記科目としての社会や理科から変わりつつあるのかなと思います。また学校や個人によっても水準は異なると思います。

ただやはり暗記するだけではなく、自分で応用し、考えることができるという点が必要な点のように思えます

その点が、人間をただの葦ではなく、考える葦にしてくれるので…