トラネキサム酸笑顔【毎週ショートショートnote】

審判が私の右腕を高く上げた。

その瞬間、私はボクシングのバンタム級世界チャンピオンになった。

妻、息子、トレーナー、私を応援してくれた全ての人の顔が頭をよぎった。

私は青コーナに走り、トレーナーが抱えていた二歳の息子を受け取った。相手に殴られた私は目や鼻から出血していた。しかし息子はそんな私の顔をみて笑った。すると、私の鼻血がピタリと止まった。

この時の映像が放送された後、医学界から息子に依頼要請が来た。

「息子さんの笑顔は、まるでトラネキサム酸のような止血作用があるようです」

そして息子は緊急事態が起きるたびに救急治療班に駆り出されて、大けがをした人々の前で笑顔になった。不思議と怪我人の出血も全て止まった。

最初は息子も自然な笑顔を見せていた。しかし五年程過ぎたある日、救急隊がある事を報告してきた。息子が笑わなくなったとの事だ。息子に理由を聞いた。

「ねえ、僕が笑ったらパパはいくらもらってるの？」

それからまた息子は笑うようになり、私は笑えなくなった。