無言歌

中学時代の同級生・小松洋(ひろし)が中学2年か3年のときに書いた詩に、私が大学時代に曲をつけた……という作品。詩を書いた小松は早熟な文学少年で、東大を出て電通に入り、コピーライターになっていくつかの賞を取り、今は系列会社の社長になっている。
小松と私(たくき よしみつ)を誘って文芸同志会というサークルを立ち上げた工藤誠一は、今は母校・聖光学院の校長・理事長をしている。
工藤も私も、小松とは違って、高校3年のときは落ちこぼれの「私立文系」クラスだった。その工藤が母校の校長になってからは、私たちが在学していたときには考えられなかったほどの全国レベルの進学校になった。
工藤が私たちに声をかけて、半ば強引に「文芸同志会」というサークルを立ち上げなければ、小松はこの詩を書かなかっただろうし、私は大学に入ってから自分の文才がないことを嘆いて、小松のことを思い出し、古い同人誌を引っぱり出してこの詩を拾い出すこともなかった。
そう考えると、ずいぶんいろいろな偶然が重なってできた曲なのだと思う。
それはいいのだが、私は65歳になった今でも、小松が書いたこの詩の内容をまったく理解できていない。
この演奏で驚異的なギターソロを展開している鈴木哲士(てつし)は、私がプロの作曲家を目指して奮闘していた大学生時代に知り合った素晴らしい音楽仲間だが、私は彼の才能を世に出すことができず、自分も含めて自滅してしまった。私は彼がどれだけ素晴らしいミュージシャンだったか、どれだけかけがえのない仲間だったかを理解しきれないまま、彼を裏切ってしまった。その贖罪の気持ちは死ぬまで持ち続けなければならない。
彼を裏切った後にまで、私が声をかければこうしてギターを持って4畳半スタジオでの録音に駆けつけてくれたてっちゃんには、一生、感謝と懺悔の気持ちを持ち続けるだろう。
すばらしい友人たちに恵まれて生まれたこの曲、この演奏の価値を、私は60代後半「高齢者」になった今、しみじみと噛みしめている。
工藤が文芸同志会の顧問になることを頼み込んだ恩師・井津佳士先生は、今の私よりずっと若い60歳でこの世を去ったが、井津先生の教え「評価は喝采の数ではない。一人に向かって語りかけよ」を、今も噛みしめながら、私はこんな作業を続けている。

こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。