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足があるのになぜ歩かない

 うちの夫は、ひと癖あるタイプだ。ところどころ変なこだわりをもっているし、それだけならまだしも、そのこだわりについてぐちぐちと話してくるので、辟易することもしばしば。

 その夫は、階段があるところではエスカレーターには乗らないというポリシーをもっている。

 そしてそのことを私に「お年寄りとかなら仕方がないが、なんで健康な足があるのに歩かないんだ」とぐちぐちと愚痴るのがめんどくさい。何回聞いたかもうわからない。愚痴というより「本当に不思議でたまらない」みたいな調子のときもあるし、「まったく、日本人はなっとらん!」みたいなオッサン全開調子のこともある。

 最初に言われたときは、「うーん、まあ確かにそうだよな」と思いつつも、愚痴るわ、かたくなにエスカレーターに乗らないわで、「ちょっとめんどくさいな」と思った。

 とはいえ、まあ自分の足を使ったほうが健康にもいいわけだし、不自由のない身体をもっているんだから、歩いた方が幸せかも、と思うようになり、私もよほど疲れているとか荷物が多いとか調子が悪いとか、そういったとき以外は階段を使うようになった。

 すると、夫の気持ちが少しわかるようになった。

 例えば、東京でいうと地下深くに走る大江戸線などの場合は、かなり距離があり階段の数も多いので、そんなシュチュエーションなら、わかる。私もエスカレーターを利用することがあるだろう。

 しかし、びっくりしたのが、10段20段くらいの階段とエスカレーターがあるところでも、半数以上、下手をしたら8割くらいの人がエスカレーターを利用していることが普通なのだ。しかも、エスカレーターがすいているならまだしも、わざわざ並んでエスカレーターに乗っている光景に、衝撃を受けた。

 下手をすれば階段なら数秒の距離を、わざわざエスカレーターを利用するために並ぶ?    階段のほうが早くないか? 本末転倒では?

 その光景を見て、階段の方が健康によいとか、そういう問題でなはないのかもと思った。

 そのとき、私には、「歩かなくても(何もしなくても)自動で地上へ行ける」ことは、「考えなくても周りに合わせていればなんとかなる」と、考えることを放棄している人の象徴のように見えた。感染がどうとかではなくて、ただ皆がしているところではマスクをし、皆が外している場所ではマスクを外す、といった行為と同質のようにも感じた。

 実際、エスカレーターを利用している人のほとんどは、何も考えていないと思う。頭も身体も使わずに自動でエスカレーターへ吸い込まれていく。私がそうだったからわかる。

 エスカレーターごときで何をめんどくさいことを言ってるんだ、と思うかもしれない。でも、人生や人々の営み、もっというと社会というのは、ひとりひとりの小さな選択の積み重ねでできている。だから、考えることと、自分の行動を自分で選択することは、やめてはいけないことだと思う。

 例えば、環境や健康に配慮した商品を選ぶとか、無駄なゴミを出さないとか、人に席を譲るとか、そういうことも、すごく小さな選択と思考の結果だ。でもそいういう小さな行動で、社会はできている。

 ついでに言うと、政治が腐敗しているのだって、自民党ガーとかそうゆうことではなく、ひとりひとりの選択の結果(ものすごい年月と途方もない数の選択の積み重ねだけど)だと思っている。例えば、利権まみれの会社から人材がすべていなくなったら、多少政治も変わらざるを得ないわけだけど、そうはならないのは、そいういう企業を選択する人いまだ少なくない数、いるからなわけで。

 いろいろと偉そうなことをいったが、私もエスカレーターを使うことはある。でもそんな時でも最低でもひとまず考えて「今は疲れているから乗ろう」と選択するようになった。

 それと、単純に、階段は、慣れると朝は身体を目覚めさせるのにもちょうどいいし、下を向きながらエスカレーターで上る人の隣を、足を使って歩くとシャキッとした気分になれる。「階段=めんどくさい」みたいに思っている人も少なくなさそうだけど、“エスカレーターに並んで”まで避けるほど、嫌わないでほしいと、今では思うのである。

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