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(小説)異・世界革命 空港反対闘争で死んだ過激派が女神と聖女になって 04

 貴族用の宿の貴賓室でレオンとジュスティーヌは、対面して食事をとることになった。あえて護衛の騎士はつけない。見かけによらず度胸のあるジュスティーヌが、数人の騎士が護衛してもレオンをいらだたせるだけで意味は無いと判断したからだ。
 ジュスティーヌ王女の後ろに、アリーヌ侍女とマリアンヌ侍女が控えている。二人は、恐ろしかった。女神様の奇跡を目のあたりにしたことが恐ろしかった。それ以上に、自分たちを斬り殺そうとし、それを止めて下さった姫様を、「人殺しがっ!」と面罵した男が涼しい顔をして目の前で食事をしていることが恐ろしい。
 本来、会食中に給仕をしている侍女と貴族が会話するなどあり得ないのだが、レオンはまるで頓着しない。
「マリアンヌ、すまなかった」
 訓練された武装保安要員でもあるマリアンヌは、内心の動揺をおもてに表さない。
「なにがでございますか?」
「保安員だとバレたら、王女の侍女は続けにくいだろ? これからどうするつもりだ?」
 平静に食事をしているように見えるジュスティーヌが動揺していることにアリーヌは、気づいた。貴族の令嬢であるアリーヌには、マリアンヌが辞めなければならない理由が分かっていた。王族の侍女は、貴族の令嬢から選ばれる。暗殺まで任務に入っている保安要員が、貴族であるはずがない。
「王宮に戻りましたら、お暇をとらせていただき仕事を探そうかと」
 王宮一級侍女職で王族を担当していたという職歴。しかも優しげな美人なら、引く手あまただろう。
「ヴァルクール伯爵家の令嬢というのは、詐称か?」
「養女というかたちで、籍だけお借りしました。一度だけお会いしたことがございます」
「ふん。ヴァルクール伯とやらは、警察官僚か。岡っ引きのクセに貴族とは、笑わせるなあ!」
 新東嶺風の警察嫌いは、セレンティアにきても直らない。公安刑事に面と向かって「ケガレ役人がっ!」と罵り、まわりにいた仲間たちに「それは差別だ」と怒られたようなやつだ。第四インターだったからそれで済んだが、解放派だったら査問やら糾弾やらを食らって鉄パイプでぶん殴られていたかもしれない。
 ジュスティーヌ王女が口をはさんだ。
「ヴァルクール伯爵は、優しそうなお爺様ですわ」
「ふっ。公安の岡っ引きは、そんなふうに見えないと仕事にならないからね。優しそうだけど、よくみると目つきが悪いですよ」
 普段なら絶対にしないのだが、アリーヌは言わなければならないと決心した。ことは女神様に関わる。
「あの、あのっ。女神様の奇跡で腕を⋯⋯ありがとうございました」
 チラとアリーヌを見たレオンは、皮肉に笑った。
「手荒なことをしてすまなかったね。二度は無いと思えと叱られたよ」
「叱られたって⋯⋯? あの?」
「女神セレンにだよ。もう癒しのやる気を失ってるから、腕を叩き斬ってたら、くっつけてもらえなかったかもしれないな。危なかったよ」
 レオンは平気でゾッとするようなことを言う。急に口調がきつくなった。
「⋯⋯いいか? 二度とオレのまわりを嗅ぎ回ったり、妙なウワサを流すなよ。これからは命に関わるぞ」
「ひっ!」となって硬直するアリーヌ。ジュスティーヌが、どうにか引き取る。
「まあ、こわい! もう、あんなにお怒りにならないで下さいね」
「⋯⋯ええ、なれない王宮暮らしで、頭の調子が少しおかしくなってました。セレンが治したから、そっちはもう大丈夫です。これからは、ちょっと面白い仕事をするつもりです。でも、嗅ぎ回ると命に関わりますよ」
 動揺のあまり足元も定かでないアリーヌに比べ、マリアンヌはしっかり侍女の仕事をしている。
「なぁ、マリアンヌ。オレとジュスティーヌが結婚したら、『マルクス伯爵家』を立てることになるらしい。そこで働かないか?」
「!」
「!」
「ありがとうございます。喜んで」
 さすがは保安要員。決断が早い。
「ジュスティーヌさん。結婚しましょう。今晩、オレの部屋に来てほしい」
「えっ? あ、あの⋯⋯それは⋯⋯」
「おいやですか? なら、オレがそちらに伺います。侍女は下げておいて下さいよ」
「い、いえ。わたくしから伺います」
 場が急に静かになった。今夜夫婦になるらしい男女は、黙って食事をとっている。
 どうやらアリーヌの首は、繋がったようだ。でも、そんなことよりアリーヌは、姫様のことが心配だった。それに今晩のことと、将来のことも。


 朝起きると白いガウンのような着物をまとったジュスティーヌが、レオンを見つめていた。顔を見返すとベッドの端に移動し背中を向けて座ってしまう。たぶん照れたのだろう。
 シーツに縦十五センチ、横十センチほどの楕円形に近い形の赤いシミがある。珍しいものなので観察した。生理の血はオレンジ色っぽいが、破瓜の血は赤黒くて本物の血という感じがする。どれ、味と匂いは?
 ぺろ、クンクンクン⋯⋯
「ひっ! やややっ、やめて下さいっ!」
 いつの間にかこっちを向いていたジュスティーヌが、飛びかかってきた。
「匂いをかいじゃいけないのか?」
「ああああたりまえですっ!」
 血の味と匂いしかしなかったけど、恥ずかしいのかな? よく分からない。
「処女を抱いたのは二人目だから、珍しいんだ」
「うっ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
 乱れたベッドと血の付いたシーツ。だれが見ても、ナニがあったか一目瞭然だ。
「恥ずかしい⋯⋯」
 両手で顔をおおってしまった。へえ、王族でも、下々の者に対して『恥ずかしい』という感情を抱くんだ。
 ここは、フランセワ王国の王都パシテからイタロ王国聖都ルーマへ向かう街道に建つ貴族向け高級宿だ。王族すら泊まることがある。⋯⋯てか現に泊まっているな。敵対国であるブロイン帝国やルーシー帝国の『目』や『耳』が潜り込んでいるのは、間違いないだろう。
「フランセワ王国第三王女が、恋人貴族の部屋にお泊まりした」と通報されるのは、時間の問題だ。シーツを置きっぱなしにして『物証』を握らせる必要は無い。なにに使われるか分かったもんじゃない。王族とは不自由なもんだ。
 ベッドからシーツをはがし取る。
「記念に持って帰るかい?」
「いやです」
「なんで? 十九歳まで処女だったなんて、なかなか立派なことだと思うぞ?」
「えっ? なっ! 貴族ならあたりまえのことですっ!」
 へぇぇ? そうなのか? 資産を持たない庶民と、相続財産を持つ階級では、いわゆる『貞操観念』が異なる。エンゲルスが『家族・私有財産・国家の起源』で書いていた通りだ。少し面白い。
 豪華部屋の装飾も兼ねているのだろうが、デカい暖炉がある。もう五月だが、塞いでない。シーツはここで焼いちまおう。
「このシーツは、一般人の給料一カ月分くらいの値段がする」
 王族や上位貴族が、ちょっとなにかしたら、細民の生活なんて吹き飛ばされてしまう⋯⋯。
「焼いてしまうのは、申しわけない気がします」
「まあ、代金を置いていけば、よかろうさ。国家機密を守るためだから、仕方ないよ」
「え? 国家機密?」
「フランセワ王国第三王女が、処女を失った。相手は⋯⋯」
 真っ赤になって両手で顔をおおってしまった。
 シーツを丸めて暖炉に放り込んだ。部屋の隅に置いていたショルダーバッグを引っぱり出す。中に入っているのは、ちょっとした雨具、ナイフ、水筒、乾燥肉、乾パン、小銭などだ。あったあった、火打石と火口。
「なぜ、このようなものをお持ちなのですか?」
「つまらない巡礼に嫌気がさしたら、こいつを持って逃げようと用意してた。暴れて斬り合う必要なんかなかったよなーっ。逃げりゃよかったんだ。ははは!」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
 火打石と火口を使って発火させ、シーツに火をつけた。ジュスティーヌが、えらく感心している。
「まあ。こうやって火をつけるのですね」
 ほどなくシーツは灰になった。
「ほとんど寝てないだろ。朝食は、サンドイッチでも作らせて馬車で食べればいい。休みなよ」
 レオンにめずらしく優しい言葉をかけられて、ジュスティーヌは、にっこりした。
「はい。ドキドキしてしまって。痛みもありましたし⋯⋯。いやだわ! レオンさ⋯あなたは、なにをなさるのですか?」
「オレは、下の食堂でメシを食ってるよ。ちゃんと寝なよ。じゃあ、馬車で会おう」
「はい、⋯⋯あなた」

 階段を降りながら考えた。
「ジュスティーヌは、オレを「あなた」とか言ってた。王女とセックスしたら、その時点で婚姻が確定して夫婦ってことになるのかなぁ?
 あらゆる権力を粉砕して平らにならし、全身血まみれになって共産主義社会を実現したいと本気の本気で考えているのに、結婚をエサに権力者の娘に近づくってのは矛盾だよなー。弁証法の、『否定の否定』の実例になるのかなあ? ははは! オレは活動家だ。理論家じゃないから分からねえや」。

 部屋で一人で食事をするのは陰気くさくて嫌なので、食堂へ降りていった。ほとんどが貴族だけあって、静かに食事をしている。レオンが顔を見せたら、ますます静かになった。
 バレてる⋯⋯。こういうウワサは、広がるのは早い。若い親衛隊騎士連中が多いので、どうしても好奇心に勝てずチラチラとレオンの方を見たりする。
 居づらいなあ。階段の途中で、ベン!と壁を叩いた。皆が一斉にレオンを注目する。
「昨日は、くたびれたっ。腹ペコなので、一緒に食事させてもらうよ。ヘヘ」
 プッ! クスクス⋯⋯。下働きとして連れてきたメイドの女の子たちにウケてる。なぜか嬉しそうだったり、どういうわけか頬を染めて恥ずかしがっている子もいる。若い男性騎士たちもニヤニヤしはじめた。なかには「やったね」と、親指を立てるヤツまでいた。
 年配のラヴィラント隊長とローゼットら女性騎士たちは、苦い顔をしていた。
 空いている席に座ると、隣りは、
「おう、ジルベールじゃないか。おはよー」
 ジルベールは、やけに嬉しそうだ。
「センパイ、昨日はどうでした? ホントは、訊いちゃいけないんですけど。うへへへ」
 まったく名門侯爵家の子息らしくない。今は嫡子となったが母親は元妾で、子供時代は下町に住んで悪ガキと駆け回って遊んでいたそうだ。そんなやつだから気が合うのだろう。
「かなり痛がって、たくさん血が出たぞ」
「うっ!」となったジルベール君。しばらく下を向いている。なぜに動揺するのかレオンには、分からない。ジルベールが、小声で言ってきた。
「ロコツですねぇ~。ジュスティーヌ殿下が、おかわいそうだから、そんなこと言いふらしたらダメですよ」
 自分からきいてきたくせに。こういったところは、やはり貴族だ。

 セレンティアには、電気はない。夜になったらランプ生活となる。今の季節だと、日の出が五時、日の入りが六時半だ。太陽が出ている明るい時間は、十三時間半。夜になったらランプの灯りで薄暗くても可能な作業をして、九時には寝てしまう。貴族の屋敷であっても多少は明るい程度で、基本的に生活パターンは同じである。
 レオンとジュスティーヌ一行も、五時ごろに起きる。六時半までに食事をして支度を調え、七時には出立だ。
 騎士や随員たちが両側に並び整列している間を通り、清楚な白いドレスをまとい王族用の小型ティアラを身につけたジュスティーヌ王女が、アリーヌ第一侍女を連れ、ななめ後ろに小荷物を持ったマリアンヌ第二侍女を従えて、今日はいつもよりフワフワした足取りで王族用超高級馬車に乗り込んだ。ジュスティーヌ王女の様子にみんな興味津々なのだが、さすがにジロジロ見たりする者はいない。
 レオンは、毎日のこの大仰な行事をバカバカしいと思っていた。本当は、同乗するレオンも護衛のふりをしてマリアンヌと並んで後ろについているべきなのだが、そんなことはやってられない。毎度サボってそこらで剣を振り回し、出発直前に王女馬車に乗り込んでいる。

 聖都ルーマまであと六日である。一行は、馬車旅に退屈したレオンが再び荒れるかと危惧していた。ところが前日の事件以降、レオンは、憑き物が落ちたように機嫌よく穏やかになった。
 レオンが激怒するので悪所閉鎖は取りやめたのだが、あの日以来、夜になっても高級宿から抜け出すことがなくなり、悪所閉鎖をする意味もなくなった。
 いつも渋滞する橋で一般人を通行止めにして王宮馬車列が橋を渡った時には、「順番も守れないようでは、王族はガキ以下だな」などと皮肉を言った。以前なら、イライラと腹を立てて黙り込んでしまい、通行止めを命令したわけでもないジュスティーヌに冷ややかな視線を向け、口もきかない態度だった。ずいぶんと丸くはなった。猫を被っているのだが、それでも大助かりだ。
 ちなみにアリーヌだったら、「平民風情が姫様のお馬車をお待たせする? とんでもないっ!」という考えだ。比較的身分制度がゆるやかなフランセワ王国でも、アリーヌの反応が当たり前である。

 やはり男女は、身体を重ねると気やすくなる。ちゃんと話しをしてみると、ジュスティーヌは、非常に知的好奇心が強く創造性が豊かな優秀な人間だということが分かった。弥勒の言っていた通りで、なにも知らないバカでお人形みたいな高慢お姫サマだと思ったのは間違いだった。
 ジュスティーヌの理解の早さに、レオンはしばしば驚かされた。「とても王女なんかにしておくのは、もったいない」。

 レオンの元人格である新東嶺風は、東大をスベって東北の田舎大学とはいえ国立大学に現役合格している。国立大学を受験したので、高三レベルだが理系の知識もそれなりにある。
 空港反対闘争の合間には、大学に戻り学習会に参加したり主催したりで、学生たちを組織した。
 ある時、大学構内で「空港包囲・突入・占拠」のスローガンを情宣をしていたら、自治会権力を握っていた日共=民青が、あろうことか大学当局と一体となって闘争破壊の敵対をしてきた。激怒した嶺風は、腐敗せるスターリン主義者の正体をむき出しにした自治会長に鉄拳制裁を加え、乱闘騒ぎになってしまった。乱闘といっても「スターリン主義者め! よくも同志トロツキーを殺したな!」などと叫びながら、嶺風が民青の自治会長に馬乗りになってポカポカ殴っていたのだが。よほど悔しかったらしく民青は、「トロツキスト暴力集団 新東嶺風(法学部二年)の暴力を許すな」なんて大書したビラをバラまいたりした。名指しされた当の嶺風は、「たしかにオレは、トロツキストで暴力主義者だぞ」と鼻で笑った。
 人集めの口実のはずの学習会のおかげで、マルクス主義の基礎をかなり学べた。とても『資本論』までは届かなかったが、『経哲草稿』や『国家と革命』『帝国主義論』『裏切られた革命』あたりまでは、なんとか進んだ。あとは、『レーニン選集』『トロツキー著作集』『毛沢東選集』をつまみ食いしたくらいだ。それに親友だった弥勒五十六の哲学好きの影響を受けて、ヘーゲル観念哲学、実存哲学、マルクス主義哲学・社会学。反面教師として宇野経済学や京都学派⋯⋯。こんなものが新東嶺風の思想を形づくっていた。
 新東嶺風は、文字通りの過激派で、ブルジョワ権力を打ち倒すためならなんでもするつもりだった。時代や出会いが彼を純粋トロツキストにしたが、気質的にはアナーキストに近かったかもしれない。「第四インターアラブ支部に依頼して自動小銃を手に入れよう」とか、「大量にアドバルーンを飛ばして空港に飛来した飛行機を撃墜しよう」などと大真面目に提案し、組織の幹部をビックリさせたりした。
『兵士の友』とかいうパンフレットを作って自衛隊員に配ってまわり、首尾よく自衛官を何人かオルグして内部文書の軍事教範などを持ち出させ、読みふけったりもした。この時期は、公安警察だけでなく公安調査官やら自衛隊の警務隊やらが身辺をウロウロし、小うるさくてかなわなかった。『戦理入門』『現代戦争史概論』『近代戦争史概論』『野戦築城第二部』『野戦築城第三部』『警務科運用』『作戦情報』『普通科中隊』『普通科連隊』『師団』。旧日本軍の有名な『歩兵繰典』は、神田の古本屋で手に入れた。
 左翼系の軍事書籍も、片っ端から読みあさった。トロツキー『革命はいかに武装されたか』、毛沢東『遊撃戦論』『抗日遊撃戦争の戦略問題』、ヴォー・グエン・ザップ『人民の戦争・人民の軍隊』、ゲバラ『ゲリラ戦争』、マリゲーラ『都市ゲリラ教程』、アルベルト・バーヨ『ゲリラ戦教程』、ノイベルク『武装蜂起』、『プロレタリア兵学教程』、赤軍派『前段階武装蜂起論』、中核派『先制的内戦戦略論』、革マル派『革命的暴力行使論』、戦旗派『戦略的武装論』。
 地下出版されていた極左軍事書籍も、あらゆる伝手をたどって手に入れた。『栄養分析表』『新しいビタミン療法』『遊撃戦の基礎戦術』『薔薇の詩』『腹腹時計』『都市計画案』『雲と火の柱』『世界気象観測報告書』『赤軍』『銃火』『ケーキの作り方』などなど。嶺風の六畳一間の下宿には、そんな怪しげなパンフレットが山積みされていて、仲間が面白がって図書館代わりに利用して読んでいった。
 もちろん基礎は大切だ。書店で買える基礎的で重要な軍事書籍も熟読した。『孫子』、クラウゼヴィッツ『戦争論』、リデル・ハート『戦略論』、ジョミニ『戦争概論』。特にクラウゼヴィッツは、ドイツ観念論哲学の影響を受け、戦争と暴力の本質を解明し、戦争における物質面のみならず精神的諸力の作用に関して深く考察されており、興味深く感じられた。
 嶺風にとっては、かったるいマルクス主義哲学よりも軍事学の方が、実はよほど楽しかった。組織の仲間には、よく『極左軍事主義者』などとからかわれたものだ。でも、赤軍の創設者で初代軍事人民委員のトロツキーに憧れていたのだから仕方がない。嶺風が、空港開港阻止決戦で指導部ではなく実働部隊に入れられたのは、あまりに軍事に偏向しすぎているという組織の判断があったのだろう。

 馬車の中でジュスティーヌは、目を輝かせ身を乗り出してレオンの『講義』を聞いていた。しかし、同乗していたアリーヌとマリアンヌは、以前のレオンのようにゲンナリしている。「よく分からないのだけどレオン様の言っていることは、女神セレン様にそむく考えではないかしら?」と思わないでもなかった。レオンの講義は、こんな調子だ⋯⋯。
「世界は、神や絶対知といった観念に向かって発展してゆくのではない。物質、すなわち自然の観察と実験に基づいた合理的な科学に向かって発展する。この考えを弁証法的唯物論という。弁証法は、『対立物の相互浸透と統一』『量から質への転化』『否定の否定』の三つを具体的原則とする。まずは原則のひとつ、『対立物の相互浸透と統一』について検討しよう。ヘーゲル弁証法の基本概念である止揚と正反合は⋯⋯ウンヌンカンヌン⋯⋯」
 こんなことを馬車の中で十時間もしゃべりまくって聞かされるのだから、アリーヌは頭が変になるかと思った。わけの分からないことをひと区切り話すと、うっとりと聞いて目を輝かせている姫様とレオンが討論を始めてしまう。『上部構造』?『生産関係』?『発展段階』?『ジンテーゼ』?『あうふへーべん』?????
 カラスでも鳴いていると思って聞かなければよいのだろうけど、嫌でも耳に入ってしまう。夕方に貴族用宿に着いた頃には、アリーヌとマリアンヌは、もうクタクタのヘトヘトになっていた。

 夕方の五時ごろに貴族宿に着くと、正面玄関前に王女馬車が止まる。馬車の中ではジュスティーヌは王女ティアラを外している。再びアリーヌがうやうやしくお付けする。
 馬や他の馬車から降りてきた随員や騎士たちが駆け足で両側に並び玄関まで続く壁をつくり、その中を貴族侍女を連れた王女サマがしずしずと進み、入宿される。その宿で一番エライ人だったり、場合によってはその宿場町で一番エライ人が、立派な玄関で平伏せんばかりにお出迎えする。王女サマは、優雅かつ鷹揚に微笑み、ねぎらいの言葉を賜る。毎回こんな調子だ。
 うへぇ!
 朝のようにサボれないので、レオンはマリアンヌの後ろでもっともらしい顔を作ってついて行く。まったくバカバカしいったらない。
 生まれたときから虚飾の儀式にならされてきたジュスティーヌだが、こんなものは無意味な権威づけにすぎないとベタ惚れのレオンに吹き込まれ、儀式はなるべく簡易に済ませようと心掛けはじめた。するとレオンの機嫌がよくなり、随員たちにも日を追って二人の仲が親密になるのが感じられた。
 高級宿に着いたらジュスティーヌは、レオンの部屋に入り浸りである。最初は二人の仲がどうなることかと心配していた随員は、ようやく安心できるようになった。巡礼といっても実際は新婚旅行のようなものなのだから、なるべく二人きりにしてさしあげようと、心配りまでしてくれる。
 フランセワ王国では、貴族男女の婚前交渉は、望ましいこととはされていない。まして王族である。眉をひそめる者も少しはいたが、父王が許しているのだから、まあ、問題はない。
 しかし、二人だけの部屋は、皆が想像しているような甘ったるいものではなかった。この世界では高価な紙とペンを持って男女が対面し、「人間は生まれながらに自由であるはずである。なのに現実には無数の鎖に繋がれている。なぜか? どうすればよいか?」とか、「『要素還元』と『再現性』の二つの方法論によって自然科学の進歩は担保される」なんてことを、ジュスティーヌの質問をはさみつつ講義し討論しているのであった。
 中世に近いセレンティアで、奇跡的なほど現代的で開明的な考えの素地を持っていたジュスティーヌは、まるで水を得た魚のようだった。『夫』であるとともに最良の師を手に入れたのだ。レオンだって、これほど熱心で優秀な『弟子』は、かわいい。
 言ってしまえば、最初からレオンはジュスティーヌ王女の権力が目当てだった。いいように利用するつもりでジュスティーヌを受け入れたのだ。ところが少しずつジュスティーヌのことを好きになっていった。もちろん聡いジュスティーヌは、レオンが権力目当てで自分の気持ちを受け入れたことを知っていた。でも、自分自身はレオン様を好きなのだから、どこからか持ち込まれた政略結婚などより、ずっとよい。少しずつレオン様の心を溶かし、暖かいものを築いていこう。そう考えていた。
 事実上もう夫婦である二人は、身体の相性も非常に良かった。それに少なくともジュスティーヌには、深い愛情があった。ガサツで無神経でデリカシーのないレオンへの、優しく賢いジュスティーヌの心遣いも大きかった。聖都ルーマに到着する八日の間に、二人はお互いが信頼できる関係をある程度まで築いていた。
 主神の容姿に似合わず女神セレンの宗教は、地球でいえば仏教系である。セレンの背後に菩薩の弥勒五十六がひかえているからだ。キリスト教やイスラム教と違って、女神セレンは、唯一絶対神ではない。女神が人間や世界を創造したわけでもない。セレンは、人間をとてつもなく高次にして超能力なども持っているが、時には誤りを犯す可能性のある神ということになっている。教典や教義なども、まだまだ整理されていない。キリスト教などとと異なり仏教では、『愛』を執着と捉えてあまり良いものとは考えない。なので菩薩の世界観では、人間は本質的に孤独であり、神や菩薩もまた同様だ。
 前世で女神や聖女だった時には、レオンは、常に孤立してひとりだった。だが、今回は違う。レオンは失うものを得た。

 出発してから八日目の午後に、イタロ王国の聖都ルーマに入った。超高級ホテルの正面に着いた友好国フランセワ王国の王女一行は、極めて丁重に迎えられた。
 アリーヌが喜んだことに、ルーマに入るとレオンはわけの分からないことを喋りまくることをやめ、窓にとりついて黙って興味深そうに外を眺めていた。聖女だった時以来、ルーマは実に二十年振りなのだ。
 聖都巡礼者による経済効果だろう、表通りはかなり賑わっているように見えた。ここが『ファルールの地獄』の中心地とは、とても感じられない。
 王女に次いで二番目に良い部屋に案内されたレオンは、メイドの女の子に頼んで実家から持ってきてもらった「一番みずぼらしくてボロっちい服」に着替えた。メイドとはいっても平民少女の憧れの王宮内務員だ。かなり良いところのお嬢さんである。頑張ってボロ服を探してくれたのだが、全然みずぼらしい感じはしない。実家が末席貴族出身のレオンが着たらよく似合うくらいで、ルーマの街を歩けばかなり良い身なりに見えてしまう。

 もう四時過ぎだが、この服を着て高級宿を抜け出し、まずスラム街に行くことにした。四十分も歩けば着くはずだ。聖女だった時に拠点にしていた場所である。病気治しだけでなく、寄せ場労働運動を参考にして貧民学校を建てたり寄付金で炊き出しなんかもしていた。あれから二十年経ち、スラムはどう変わっただろうか?
 ルーマの街でも珍しい大小二本差しを腰ベルトにつける。ドアから出ると、ジュスティーヌと鉢合わせした。しばしば薔薇に比せられるジュスティーヌであるが、派手な色は好まず、いつも白を基調とした装飾の少ない服を好む。見る人が見れば超高級品だと分かるだろうが、貴族としても質素で清楚に見える。それがジュスティーヌの美しさを増している。ゴテゴテ装飾された瓶に花を入れるより、洗練された白磁の瓶に挿した方が美しく見えるのと同様である。もっとも本人は、そんなことは意識していない。
 一緒についてきたがったが、ジュスティーヌは、スラム街とはどんな場所か理解していない。生ゴミや人糞の臭気がたちこめ、場合によっては死体が転がっているようなところだ。そういった因果を含め、今度つれて行くと約束し納得させた。
 それにレオンは、ここで人を殺すつもりだった。ジュスティーヌは、邪魔になる。闇にまぎれた個人テロルで、二十年前の聖女マリアの時の報復をするのだ。何人殺せるだろうか?

 多くの都市では中心に官庁街があり、その周辺に高級商業街や高級住宅地、そこから中流街に続き、中流街の端や隅に貧民街やスラム街がまだらに混在する構造になっている。なかには貧民街が全体を覆っているような街もあるが、聖都ルーマはセレンティアでも有数の豊かな都市だ。
 やはり表通りは、二十年前とそう変わっていない。中流街を通って港の方に向かうと貧民街に入った。貧民街の中のドブ川に沿ってスラムが続いている。川は、しばしば境界線だ。境界だから所有者がはっきりしない。それに悪臭や害虫、水害などで住環境が悪い。川筋は、底辺スラム化することが多い。
 川にぶつかりスラム街を歩いた。やはり川沿いの小道は、レオンが聖女マリアだった二十年前となにも変わらない。ここに住む人たちの生活は、少しも向上していなかった。「神殿は、二十年もなにをしていた?」。
 日が落ちたころ、マリアが殺されたあの場所にたどり着いた。唯一そこだけは、変わっていた。貧民学校も小さな校庭も影も形もない。代わりに巨大な神殿が黒々と屹立していた。レオンの胸の中にも、黒々としたものが広がっていく⋯⋯。「明日は、ルーマ大神殿長のバロバと会う。あの野郎も、殺しちゃおうかな⋯⋯」。

 まずは、たしかめたいことがあった。「たしかめたいこと」を警備隊のたぐいの公権力にたずねたら、しょっぴかれるかもしれない。なにかの店でさりげなくきいたとしても、まともな人間じゃないと思われてつまみ出されそうだ。居酒屋だったら、酔った連中に袋叩きにされるかもしれない。密室で腕力の無い相手とじっくり話ができる場所は、やはり売春宿だろう。売淫代なんて情報料と考えれば安いものだ。
 どの都市でも売春地帯は、スラム街の近所にある。さんざん遊んできた経験から、そんなものに鼻の利くレオンは、ちょっと探してたちまち悪所を見つけだした。
 表通りにある毒々しい裸女絵を立てているような売春店ではない。飲み屋の体裁をとった小さな掘っ建て小屋が密集する売春窟だ。女の顔を見て選べるよう、戸口を半開きにして椅子に座った売春婦が客を誘っている。こんな場所の客にしてはやけに身なりの良いレオンは、ちょっと目立った。自分から声をかけてくる女やポン引きはいない。
 レオンが探していたのは、人が良いが少し頭が弱く、何度となく騙され続けてとうとう淫売の世界に堕ちてきたような女だ。全身から人の良さをにじませているような売春婦は、けっこういる。『サービス』が良いし、愚かで不幸な身の上にほだされるので、意外に固定客がついていたりもする。
 売春窟を一周し二周目に入ってすぐに、目当ての女を見つけた。一周目では見かけなかったから、前の客が帰った直後なのかもしれない。
 黒髪短髪で丸顔の女が、戸口の椅子に座って愚かしくニコニコと笑っている。年は、二十代後半くらいに見える。小柄で貧相な体つきだ。美人ではないが不美人ともいえない。最上級の美女であるジュスティーヌとは較べるのも悲しいくらいだが、この売春窟では、上玉の部類だろう。
 レオンは、わざと遊び慣れたしゃべり方をした。警戒されたら口が堅くなってしまう。今の身なりの良さを逆手にとって、物好きな上客を装うことにした。
「よう、カラダはあいてるかい? いくらだ?」
 女は、少しドギマギしたようだ。レオンは、まあまあいい男だし、この売春窟の客にしては、身なりがまともだった。
「あ、えっと。一時間で、さん⋯⋯四千ニーゼだよ。ねぇ。遊んでってよ。ねっ。いいだろ?」
 レオンは、店に入った。

 居酒屋という体裁をとった売春小屋だ。屋内は、すえた匂いがする。入ってすぐの場所にテーブルがあり、上にホコリをかぶった酒土瓶が転がっていた。その奥に不潔な中型ベッドがあった。シーツは体液のシミだらけだ。
 女は、さっさと服を脱ぎはじめた。
「おちんちんを、そこの水であらってねぇ」
 見ると部屋の隅に頭くらいの大きさの壷が置いてあり、ドロンと濁った水が入っている。壷の横に柄杓が転がっていた。
「なぁ、教えてほしいんだけどな⋯⋯」
「なぁにぃ?」
 もう素っ裸になりベッドに座って笑っている。
「クラーヌの丘が、どこにあるか知らないか?」
 首を傾げる。
「アタシ、聞いたことないよ⋯⋯」
「じゃあ、クラーニオの丘は?」
「ヒッ!」
 聞いた瞬間、女の顔色が変わった。両手で身体を覆い、乳房を隠すような姿勢になる。ベッドから腰を浮かし、レオンから離れようとする素振りさえ見せた。少しふるえているようだ。
「お、お客さん、外国の人だろ? なんで⋯あんなところに? イヤだよう⋯コワイよ⋯⋯」
「行きたいんだ。どこにある?」
「だいたいアッチだよっ!」
 指さした方向を頭に刻み込んだ。善良そうな女だ。デタラメではあるまい。特別な丘だ。おおよその場所さえ分かれば場所を特定できるはずだ。一応聞いてみる。
「どうやって行く?」
「あんなところに行くやつなんか、いるもんかい! お客さんもやめなよ。コワイとこなんだよ。アタシのお父ちゃんだって⋯⋯」
 笑顔が消え、本当におびえている。
「だれも行くやつは、いないのか?」
「いるわけないよ! でも、たまに神殿の神官さまが、悪魔祓いをして下さってるよ」
 神殿に案内させるか⋯⋯。少し意地の悪いことを言いたくなった。
「おまえの父親は、悪魔なのか?」
「ち、ちがう! ちがうよう⋯⋯。あそこでお父ちゃんが⋯⋯。お父ちゃんが生きていれば、アタシだって、もっと⋯⋯」
 もう、泣きそうになっている。
「ファルールの地獄でか?」
 文字通り、女は飛び上がった。
「そんな言葉、使っちゃダメだよ。聞かれたら殴られるよ。殺されちゃうかもしれないんだよ!」
 訊きたいことは聞けた。追加に千ニーゼ渡してやる。仕入れた情報に比べれば安いものだ。
「これで、子供とうまいもんでも食いな。子供は、何人いるんだ?」
 裸体を見れば、子供を産んだことがあるか無いかくらいは分かる。
 たちまち売春婦は、機嫌を直した。元の愚かなニコニコ顔に戻る。相場は、三千ニーゼなのに五千ニーゼもせしめたんだから、それは嬉しいだろう。
「二人さ。ありがとねー」
「学校には行ってるのか?」
「あははは。まさかあ! 昔は、このあたりにも学校があったらしいけどね」
 こりゃあ、笑える! 笑いながら捨てばちな気分になった。
「なるほど。フッ、フフフ。じゃあ、遊ばせてもらおうか」
 もしジュスティーヌが、自分以外の男に抱かれたら、レオンはどんな顔をするだろうか? しかし、残念ながら、それは強姦以外ではあり得ない。なのにレオンはやりたい放題だ。

 コトが済むと索漠とした気分を抱えたレオンは、売春窟を出て、もうひとつのやり残した仕事に取りかかった。二十年前のあの五人の中で、まだ生きていやがるのは三人だった。
 最初のターゲットは、材木かなにかを運ぶ作業員、というより土方といった方がしっくりくるが、そんな連中のタコ部屋にいた。鍵はなく、屋内はランプ代を惜しんで窓からの月明かりしかない。ウナギの寝床のような三段ベッドで、その男は口を開けて寝ていた。
 レオンは当たり前のように宿舎に入り当たり前のように近づき、脇差しを抜き、躊躇なく喉をえぐった。大量の血が吹き出した「ヒューッ」という音が鳴り、しばらく死体が痙攣して寝床がガタガタと揺れた。しかし、今ここで人が殺されたことを、だれも気付かなかった。おかげで無意味な殺生をせずにすんだ。
 二人目は、さっきの売春窟にいた。入口にぶら下がっているピンク色のランプが下ろされ扉が閉まっている店が、現在仕事中というわけだ。さすがに鍵を閉めている。ガラスなど無い荒い格子の窓から腕を突っ込んで、内側から鍵を開いた。
 奥の不潔の極みのようなベッドで、売春婦の上に乗った男が尻を動かしている。重ねて二つの串刺しにすれば騒がれずに楽なのだが、罪のない女を殺したくはない。
 床に置かれたピンク色ランプの横を通りベッドの脇に立った。『仕事中』の娼婦は、眠そうな顔をして向こうをむいていて、レオンに気づかない。男は『作業』に夢中だ。「あの時もこんな調子だったのかな⋯⋯」。そんなことを考えながら、男の肩甲骨の下に剣を当て、一気に貫いた。心臓が両断され男は数秒で死んだ。
 女の始末に困った。客が突然「グゲ!」とうめき、脱力し、のし掛かってきて大量の血を吐いたのだから、さぞ驚いただろう。見ると枕元に血刀を下げた男が立っている。
 レオンは、女の喉元に血が滴る剣を突きつけた。悲鳴を聞いて売春窟を仕切っているヤクザがきたら、もっと面倒だ。かわいそうだが騒ぐようなら喉をかき斬って殺すつもりだった。女は真っ青になって腰を抜かして口もきけない。ベットリと血が付いた剣で頬をピタピタしたり、「おまえの顔を覚えた。しゃべったら殺すぞ」とか、さんざん脅してから売春窟を出た。
 死にたくないなら、女は死体と一緒に朝まで静かにしていてくれるだろう。かなりの額のカネを枕元に置いていったが、受け取るだろうか?
 最後のひとりは、表通りに店を開いていた。少し成功したらしい。闇にまぎれて様子をうかがっていると、もう閉店したらしく数人の小僧が裏口から出てきた。鍵を閉めていない。楽々と入らせてもらった。
 店では太った男が帳簿らしいものをつけ、小僧と小娘がなにやら片づけをしている。そこに突然、血に塗れた抜き身の剣を持った男が入ってきたのだから驚いた。まず三人を一カ所に集め、小僧と小娘を掃除道具の入っている戸棚の中に押し込めた。
「死にたくなかったら、騒ぐんじゃねえぞ」
 もちろん出てきたり騒いだりしたら、小僧だろうが小娘だろうが遠慮なく殺すつもりだった。太った男に、剣を突きつけた。
「この店は、二十年前に女を奴隷に売り飛ばしたカネで手に入れたのかな? あの女は上玉だったから、いいカネになっただろ。ん?」
 過去の悪事を突きつけられた男は、顔面蒼白になった。しどろもどろに言い訳をはじめる。
「あ、あのころは、少しグレてました。でも、今は真面目にやってるんです。あの人におわびはしますから、い、い、い、命だけはどうか。妻も子もいるんです。必ず償いは⋯⋯」
 殺すと決めているレオンが、暗い目をしてつぶやいた。
「おまえに犯されたあの女は、死んだ。⋯⋯殺された。どうにも腹が立つ。⋯⋯死んじまいな」
 憎しみに煮えたぎる切っ先が男の喉を突き、そのまま横に薙いだ。花火のように血を噴きながら男が倒れた。床は、血の海だ。
「朝までそこにいろ。出たら殺すぞ」
 戸棚に押し込めている小僧と小娘に脅しをかけた。念のため扉に脇差しをぶっ刺した。こいつらにはかわいそうだが、戸棚から出ようと思っても突き通った刃物に目が行って、出るに出れないだろう。
 レオンは、血の海の店から出た。小僧と小娘は、朝までホウキや雑巾と一緒にふるえているだろう。

 血の臭いを嗅ぎつけた野犬の群れに吠えられながらレオンが高級宿に戻ったのは、十時ごろだった。現代日本人の感覚では深夜一時過ぎくらいだ。やけにフカフカして逆に寝づらいベッドに転がっていると、ノックの音がする。公然の秘密なのだが、ジュスティーヌが忍んできたのだ。
 ところが部屋に入るとドアの前で止まり、動こうとしない。どうやら怒っているようだ。
「レオン様」
 声が尖ってる。
「ずっと貧民街を廻られていたようですわね」
 ある国の民度の水準を知るには、刑務所とスラム街、それに下等な売春窟の様子を見るのが、一番良い。
「ああ。マリアンヌを使って、あとをつけたな。あいつも結構な美人だから、男にまとわりつかれて閉口していたよ。まいてやったけどな」
 体を起こしたレオンが、一瞬真剣な顔をして、それから暗く笑った。
 まったく悪びれる様子のないレオンに、ジュスティーヌはたじろいだ。だが、もう言葉を止めることができない。
「いかがわしいお店にお入りになったとか。なにをなさっておられたのですか?」
「情報収集が目的だったよ。ついでに売春婦を抱いた」
 レオンには、隠す気なんぞさらさらない。
「なっ! そのような不品行は、二度となさいませぬように」
 怒ったジュスティーヌが、王女様口調になった。
「ほほう? ジュスティーヌ⋯⋯サマは、私の妻ですか? もう女主人気どりにおなりになっている? いかなる御権限で御命令を? 王女サマとしての御命令とおっしゃるなら、いかなる法的根拠によるのでしょうかね? ははは!」
 レオンは、みごとに開き直った。ついさっき三人も殺したばかりで気が立っているうえに、ムシャクシャしてなにもかもに腹が立った。皮肉のつもりなのか、馬鹿丁寧なしゃべり方をする。
「どうぞ、ご自身のお部屋にお戻り下さい。ここにお越しになるような「不品行」な振るまいは、二度となさいませぬように」
 言い終わるとふたたび寝ころんで、プィッと向こうをむいてしまった。「たかが娼婦と遊んだくらいで、ゴチャゴチャとくだらねえ。必要なことだったんだ。こっちは殺しで気が立ってんだよ。なんでもいいからどこかに失せろ!」。こんなところがレオンの本音である。ずいぶんひどい『革命的左翼』もあったものだ。
 ジュスティーヌは、身分が高く美しいだけでなく、自制心が強く、聡明で賢い。いつも王女としての矜持を保ち、誇り高かった。当然だが、そのようなジュスティーヌは、常に人びとに好かれ尊重されてきた。こんなに無茶苦茶な扱いを受けたことは一度たりともない。
 ジュスティーヌは、なんとしてでもレオンと結婚するつもりだった。「聡明で賢い」のならあり得ない決意なのだが、これはもうジュスティーヌにとっては、衝動ともいえる大前提だった。レオンを失ったら、自分は干からびて死んでしまうと思えるほどに、どうしょうもなく心を奪われていた。
 人は、自分の持たない精神的な傾向や能力を持つ者。逆に自分と似た者。それに欠落を抱えた者に惹かれる傾向がある。
 ジュスティーヌは、身分制社会の王女として生まれ育ちながら責任感は持っても特権意識にとらわれず、ほとんど差別意識を持たない点で、能力以上にその『性格』が天才的だった。王女として生まれ育ったジュスティーヌは、そろそろ二十歳になる今まで貧しい人や餓えている人がいることさえ知らなかった。弱者の苦しみををレオンに吹き込まれたジュスティーヌは、王女という自分に罪の意識さえ抱えるようになっていた。
 ジュスティーヌの父王は、娘とレオンのある部分がそっくりだと感じていた。一国の王女が、ろくな護衛もつけず無断で外国に巡礼旅行に出るなど、巨大なロケット花火を作って「これに乗って月に行くんだ」といって自爆する水準の暴挙である。優秀なジュスティーヌは、うまく自分の役割を演じていたが、実際には王宮の暮らしにうんざりし退屈し切っていた。突発的に命知らずな無鉄砲なことをしでかす性格。他人を強く惹きつける磁力を発している点も、ジュスティーヌとレオンはよく似ていた。
 親だから分かるそんな性格のジュスティーヌなので、娘は生涯独身で終わるのではないかと父王は危惧していた。あのジュスティーヌが恋焦がれているという男が現れたことに喜び、喜んで伯爵位を授け、内々に結婚を許した。この二人をくっつけると、フランセワ王国の貴族界をかき回されるではないか、という程度の危惧は抱いていたのだが⋯⋯。
 レオンは、セレンティアの人たちには、超天才に見えるだろう。しかし、女神や聖女に転生し、千万を超える人の生死や裏切りを味わってきた新東嶺風=レオン・マルクスは、正常人の道徳観や貞操観といった精神構造が崩れていた。人間を『個』として見ることができず、『群』として見てしまう。レオンがしばしば見せる思いやりやデリカシーに欠ける言動は、これが大きな原因だ。また、数千万の死を見せられてきた結果、もともと少なかった死や暴力に対する抵抗感が極度に低くなっていた。
 ジュスティーヌを愛しはじめているのは、たしかだった。しかし、なかなかジュスティーヌだけが特別とはならない。「近くも遠くもどのような者でも、あらゆる人間は等価である」という神や菩薩の原則は、レオンの骨身に染みていた。ありていに言えば、三千ニーゼで身体を売っている娼婦と大国の王女が、どちらも砂のひと粒という意味でレオンにとっては等価だった。
 そんなレオンの超天才性と人間観、生死を越えた異様な性格が、優しく円満で良識的なジュスティーヌの魂を離れられなくなるほど強く惹きつけてしまっていた。また、王女として常に他者の上位に立ち、荒々しいものとは無縁に生きてきたきたジュスティーヌが、レオンの持つ激しい暴力性に性的に引きつけられたのも事実である。

 売り言葉に買い言葉で、ここから出て行ったら、レオンとの結婚はなくなるかもしれない。そんな危険を冒すことはできない。ジュスティーヌの賢さと自制心は、そう判断した。レオンとの結婚をあきらめる選択肢は、もとより無い。
 王女が臣下に降嫁した場合、婚家では宝石のように扱われるのが普通だ。しかし、できたばかりのマルクス伯爵家にそんなことは、期待できない。それより王女の夫が下等な悪所に出入りして悪名を流すようでは、実家の王家にまで迷惑をかけてしまう⋯⋯。そんなレオンの悪癖に自分が耐えられず、狂ってしまうかもしれない。
 賢いジュスティーヌは、その場に立ちつくしたまま考えた。「必ずレオン様とは、結婚します。そのためには、わたくしの一時の感情は抑えましょう。それより、フランセワ王国と王家、臣下や民の立場や気持ちを考えなければなりません。わたくしは、誇りあるフランセワ王家の王女なのだから、レオン様にひれ伏して愛情を乞いねだるようなことは、してはいけない」。
 野盗に襲われ王宮に戻った頃を思い出した。勇気を出してレオンに近づいたジュスティーヌに返ってきた侮蔑の視線。初めて愛した男にそのような態度をとられる。なぜ自分がレオンに嫌われるのか? 嫌われるどころか、なぜ軽蔑されるのかも分からず、ジュスティーヌは深く悲しんだ。
 香りに誘われるように自然に人が集まる薔薇のようなジュスティーヌは、生まれて初めて他人に好かれるために努力をした。そのかいあってか、あるいは王女の地位が目当てなのか、レオンに愛しいと思われるようになった⋯⋯と思う。なのに今回の喧嘩だ。
 レオンが、そうと決めたらすべてを切り捨てる性格であることは、分かっていた。「感情的に責めたのが、いけなかったのだわ。もっと理詰めで、納得していただけるような言いかたをしなくては」。しかし、王女として、レオンにへつらうような態度をとることは許されない。
 誰が、どこからどう見ても、悪いのはレオンの方であろう。なのに立ち往生して冷や汗を流しているのは、ジュスティーヌなのだ。どうにか分かってもらおうと、子供をあやすような調子になった。
「さっきは、怒ってごめんなさい。わたくしたちは、フランセワ王国の代表です。なのにレオン様が⋯⋯⋯⋯悪いところに行かれたら困ってしまいます。それにわたくしは、女ですから。その、他の人と⋯⋯そのようにされるのは、悲しいですわ」
レオンは、転がったままジュスティーヌの方を向き直ると笑った。暗い目をしている。「へえ、切り口を変えたな」。そんなことを考えているようだ。
「もう行かない」
「え?」
 ジュスティーヌは、意外な言葉に驚いた。
「女が欲しくて行ったわけじゃない。あれは情報収集だ。ああいう所じゃないと集められないネタがある。安淫売を抱いたのは、それが取引だったからだ」
 王女が聞いたこともない言葉、「『ヤスインバイ』ってなにかしら?」とジュスティーヌは思った。
「王都に帰ったら組織を建設する。それでたぶんネタ集めにオレが動く必要は、なくなるだろうよ」
 ジュスティーヌの表情が、明るくなった。当然だが、レオンが自分以外の女を抱くことが、ひどく苦しかったのだ。
「あっ、あら。そうですか。それは良かったですわ」
 突然レオンが、真剣な顔をした。
「でもな、二度とオレに尾行をつけるのは止めろ。場合によっては、マリアンヌでも殺す。後味の悪いことをさせないでくれよ」
 ジュスティーヌは、自分も相当まずいことをしていたのだと気づいた。前にもレオンに言われたのに⋯。スパイされることをひどく嫌がる人だった。だからあんなに怒ったのだ。レオンならだれであろうと、必要ならば容赦なく殺してしまうだろう。たとえ気になることがあったとしても、二度と決してレオンの行動を探るようなことをしてはいけない。ジュスティーヌは、肝に銘じた。
 めずらしくレオンがあやまった。
「悪かったよ」
 レオンがなにを「悪かったよ」と思っているかといえば、他の女を抱いたことではなく、それがバレてジュスティーヌを傷つけたことに対してである。結婚する気の女がいるのに買春したことを悪いとは、テンから思っていない。
 仲直りのつもりだろう、レオンが腕を伸ばしジュスティーヌを誘った。花に誘われる蝶のようにフラフラと近づくジュスティーヌが、よく見ると、レオンの腕に点々と血が付いている。怪我ではない。ならばだれかを⋯⋯。
「レオンさまっ。剣を見せて下さい!」
 隠す気など、さらさら無いらしい。ベッドに立てかけていた剣を、「ホイ」と鞘ごと投げてよこした。ジュスティーヌ王女殿下に対して、これほどぞんざいに物を渡す者は、他にはいない。
 こわごわと剣を抜くと、異臭がただよい血のりがベットリと付いていた。
「いったい、だれを⋯⋯」
 まともな返答のあるはずがない問いだと気づき、口をつぐんだ。再びジュスティーヌは、王女様口調になる。
「このようなことが露見したら国際問題になることは、ご承知なさってますわね?」
 レオンは、ふてぶてしい。
「個人テロルで三人始末してやった。なあに、バレやしない。バレたところで、知らぬ存ぜぬでシラを切ればいいだけだ」
 汚いやり方だが、たしかにその通りなのだ。
 レオンが再び腕を伸ばした。
「どうした? 来いよ」
 ジュスティーヌは、すこし後ずさりした。再び口調が尖った。
「レオン様、その前にお風呂にお入り下さい」
 もしジュスティーヌが、売春窟のおそろしく不潔なベッドやドロリとした水の入った壷を見たら、卒倒したかもしれない。セレンティアには性病は無い。でも、人を殺したり娼婦に触れた腕で抱かれるのは、気持ちが悪かった。不潔なものは洗い流してほしい。
 この程度の禊ぎで、ついさっき人を殺した男に容易に抱かれるジュスティーヌも、少しおかしくなっているのかもしれない。なぜ平然と人を殺して帰ってくるような者が、これほど愛しいのだろうか? 変な超常の力は使われていない。ジュスティーヌは、自然にレオンを愛するようになり、底無し沼に落ちたように沈んでいった。

 女神の宗教は、いくつかの分派はあるが、セレンティアで唯一の宗教である。大陸の名からして女神セレンから派生した『セレンティア』だ。
 世俗権力とは別に、セレンティア各国に女神セレン神殿があり、独自のネットワークで結ばれている。その中でも別格的権威を有するのが、イタロ王国聖都ルーマの女神セレン正教大神殿である。実際に女神セレンが聖本堂に降臨し、二年にもわたって三百万以上の人を癒したのだ。さらに女神セレン昇天後には、代わるように神殿で聖務を奉仕していた神女から聖女マリアが現れ、多くの人たちに尽くした。この場所は、女神に愛された特別な土地であり神域であった。それと同時に、二度にわたって『ファルールの地獄』が発生した呪われた都でもある。
 バロバ大神殿長は、元は強盗団の首領であった。女神セレンの奇跡を目の当たりにして回心し、女神直々に指名されて大神殿長に就任した。腐敗とは無縁の高潔な宗教家で、組織者としても極めて有能な人物だった。宗教関係の行事では、王や皇帝ですらバロバ大神殿長に跪拝する。
 実際に存在していたのだから当たり前だが、ジュスティーヌを含めてセレンティアの全ての人間が女神を信じている。女神セレン正教の敬虔な信者であるジュスティーヌは、レオンが時折見せる神殿に対する嘲笑的な態度が恐ろしかった。スラム街から戻ってから、どういうわけかレオンのルーマ大神殿に対する軽蔑と憎悪は、以前よりはるかに強く深くなったように感じられた。
 小馬鹿にした態度で大神殿に入り、バロバ大神殿長様に無礼を働き、女神セレン様をあざ笑う。レオンがそんなことをしでかすと想像しただけで、ジュスティーヌは、身ぶるいするような思いだった。しかし、なにか懇願したところで、言うことをきくような男ではない。ジュスティーヌには、レオンの背をそっと抱いて頬を寄せることしかできない。

 翌朝、なかなか寝つけなかったジュスティーヌが起きると、大神殿からの書状が届いていた。
 フランセワ王国のしきたりでは、妻に届いた手紙は、夫が先に開封して読む権利がある。王族としては最も開明的なジュスティーヌですら、そんな男尊女卑を当たり前に思っていた。それどころか、自分に届いた手紙を開封もしなければ読みもしないレオンに、「まだ妻と認めていないのかしら」と、さびしい気持ちになることさえあるくらいだ。なので、大神殿からの手紙を「見せてくれ」と言ってきたレオンに、ちょっと驚いた。初めてのことだ。
 手紙を読んだレオンは、「フン」と鼻で笑い、少し考え込み、二人での朝食中も無口だった。食事を終えると、「ちょっと降りてくる」と言ってさっさと席を立ち、行ってしまった。ひどいマナー違反なのだが、王女と侍女たちは、レオンの悪気のない無礼と奇行にはもう慣れっこになってしまった。
 階段を降りると、高級レストランみたいな食堂に出る。騎士、侍従、侍女、女官といったフランセワ王国一行の貴族連中が、食事をしている。メイドや下働きといった平民は、貴族と食事部屋を分けるのが普通だが、ジュスティーヌの、より正確にはレオンの方針で、平民区画をつくりそこで一緒に食事をさせている。本当は混ぜてしまいたかったのだが、メイドが水でもこぼして貴族に殴られでもしたら気の毒なので、こうなった。
 階段の踊場に立ったレオンが、食堂を見下ろして叫んだ。
「注目!」
 話し声が止み、レオンに注目が集まる。このフランセワ王国一行で一番地位が高いのは、もちろんジュスティーヌ王女だ。だが、ジュスティーヌは、レオンのいうことならは大抵きく。護衛責任者のラヴィラント伯爵でさえ、王女のオトコといってへつらう人物ではないのに、どういうわけかレオンの主張をほぼ丸飲みにする。つまり実質的には、この一行はレオンの指示で動くことになる。
「先ほど大神殿より、書簡が届いた。本日九時に大神殿聖本堂にて我々とバロバ大神殿長らとの会見が行われる。聖本堂内に立ち入りが許されるのは十名。それ以外の者は、聖本堂入口にて待機。聖本堂内での武装は、一切許可されない」
 大神殿聖本堂は、女神セレンが病者や傷者に癒しを行い、昇天した聖所だ。また聖女マリアが、『女神の光』を顕現させる前に聖務を行っていた場所でもある。そのうえバロバ大神殿長が、お目見えになる。まさか大神殿長様が、お出ましになるとは⋯⋯。拝顔の栄に浴せれば、末代まで語り継げる栄誉だ。なのに、たった十人しか入場が許されない。
 だれが選ばれるのかと食堂がざわめく。レオンは無視して続けた。名前を呼ぶ順番は、村の寄り合いと同じでエラい順だ。ソ連共産党政治局の序列にも似ている。⋯⋯というかそのままだ。
「聖本堂に入るのは、ジュスティーヌ・ド・フランセワ王女殿下が筆頭である。続いてジージョ・ド・ラヴィラント伯爵、レオン・ド・マルクス伯爵、ローゼット・ド・クラフト子爵夫人、ジルベール・ド・フォングラ親衛隊騎士、アリーヌ・ド・スタール王宮一級侍女、マリアンヌ・ド・ヴァルクール王宮一級侍女、ミルヒ・ラヌーブ王宮内務員、シェリル・セノール王宮内務員、リーリア・スレット王宮内務員、以上九名がジュスティーヌ殿下お護りする。三十分後に正面の入口に集合。以上!」
 食堂が、「~王宮内務員」のあたりでどよめいた。王宮内務員とは、メイドのことだ。まさか平民に押し退けられるとは思わなかったのだろう。ちょっと度胸のあるヤツが文句をつけてきた。
「貴族の代わりに平民を入れるとは、どういうことでしょうか?」
 そもそもセレンティアで階級制度を廃絶することが、レオンの目標のひとつなのだ。しかし、そんなことをここで言ってもはじまらない。どうせ理解もできないだろう。
「フランセワ王国の人口は、約千五百万人だ。その中で貴族は、一パーセントにも満たない。聖本堂に入るのは、王族一人、貴族六人、平民三人。むしろ貴族の数が多すぎるくらいだ。それに、バロバ⋯⋯⋯⋯ええっと、バロバをなんて呼ぶんだっけ?」
「バロバ大神殿長様です」
「あれが大神殿長サマ⋯⋯ねえ。へへっ! まぁ、後から大神殿長サマに頼むから、たぶん全員が聖本堂に入れる。そう心配するな。すぐに集合だ。急げ」
 集合が三十分後と急なのは、「自分も入れろ」としつこく食い下がられるのがうっとうしいからだ。ここらへんの手口は、現代日本のゴロツキ与党政治家の真似をした。
 聖本堂入りとなったメイドの女の子たちが困惑している。レオンは、平民の女の子や子供には特に優しい。「大丈夫だよ。オレについてきな。なんの心配もないぞ」と声をかけ、頭をナデナデした。
 メイドは、平民だとはいっても、大店、町長、王都庁の役人といった階層の十五から二十歳までの少女たちだ。しつけや教育もしっかりされている。とはいっても平民階級のメイドが、王女殿下のお供で『聖地の中の聖地』である聖都ルーマ大神殿聖本堂に入ることは、前代未聞だろう。
 二十歳前後で退職して王宮から離れると、メイドは、借りた名字を返上する。ところが「以前この名字で王宮で働いてました」と、返上した名字を通称として一家が使用することを黙認される。例えば娘が王宮メイドに採用されると、『カクエー商店』だった店名を『田中商店』に改称することが黙認される。これは商売人にとっては、『店の格が上がる』とかで、浮沈に関わるとても重要なことらしい。そこそこ大きな商店では、幼い時から娘を厳しく仕込んで王宮勤めをさせようとする。だからメイドといっても、賢さ、性格、容姿、いずれも優れた女の子ばかりだ。
 女神イモの皮むきなんかをしてメイドちゃんとじゃれながら、レオンは、しっかりと観察していた。ルーマ行きが決まると、最も優秀なメイドを五人ほど引き抜いて一行に加えた。「この子が留守したら仕事が回らなくなる」などと苦情がきたほどだ。旅行中も五人を観察し、この三人を選抜した。この三人は、王都パシテ王宮メイドの、つまりフランセワ王国の平民娘の中で、最も優れた女の子たちなのだ。
 ちなみに、ミルヒ・ラヌーブ王宮内務員は、雑貨屋や武具屋など八店舗を有する大店の娘だ。シェリル・セノール王宮内務員は、王都で一番大きな衣料品店の娘。豊かな平民が主な顧客で、近々めでたく『セノール服店』に改名する。リーリア・スレット王宮内務員は、建設会社の社長の娘。土建屋というと荒っぽいイメージがあるが、お嬢であるリーリアが休憩中の作業員に飲み物を出して回るなど、人を大切にする社風で知られている。リーリアが王宮メイドに合格した時は、会社中が酒盛りで大騒ぎになった。ここもめでたく『スレット建設』に社名変更するらしい。
 レオンが聖本堂入りの一行に平民娘を加えたのには、もちろん意図がある。
 レオンは、神殿の中を蝶々みたいに飛びまわって癒しをする女神や、ボロ小屋で病気治しをする聖女をやるのは、もううんざりだった。いくら女神の癒しをしても人間の獣的な性質は変わらない。悪いことはひとつもしていないのに、二回とも惨殺されてしまったのだから、なおさらそう実感する。
 今度は、力だっ! 暴力が担保する権力で、セレンティアを革命してやる。
 女神イモの普及など女神時代の努力の結果、その大前提になる生産力の増大は、かなりうまくいった。次の段階は、暴力の行使で生産関係と上部・下部構造の変革を上と下から強制する。その結果、さらに生産力が増大し、螺旋を描くように上部・下部構造が発展する。少なくとも物質的な苦を減じ、人間の正の面を大きく発展させることができるはずだ。
 レオンは権力の基盤を、フランセワ王国王都パシテの平民に置くつもりだった。しかし、王宮貴族と平民の繋がりは、ほぼ無い。ほとんど唯一の例外が、通いで王宮勤めをするメイドたちだった。
 レオンは、積極的にメイドたちに近づいた。自我があるのか無いのか分からないような貴族侍女。官僚くさい女官。お堅い女騎士。彼女らと比べると、かわいらしく快活で、くるくるちゃきちゃき働く町娘のメイドたちは、レオンをリラックスさせ、一緒にいると楽しかった。
 メイドたちの方も、レオンに興味津々だった。国王陛下が掌中の玉のように大切にされ、外国の王子や公爵家からの結婚申し込みさえもお断りされているジュスティーヌ王女殿下の想い人。悪漢に襲われたジュスティーヌ様を、白刃を振るってたった一人で三十人(*盛られている)もやっつけて救った本物の勇者! 殊の外お喜びになった国王陛下は、ジュスティーヌ様と結婚されるように、伯爵の位を授けられた!
「賜った報奨金は、ジュスティーヌ様をお助けする時に焼けてしまった宿屋に全部あげてしまったそうよ」
「まあ! なんてご立派なんでしょ!」
「王宮にいらっしゃるんでしょ? ちょっと怖そうな方ね」
「ジュスティーヌ様の方が、お熱だとか」
「きゃあ! あのジュスティーヌ様がぁ?」
 育ちが良いとはいえ、若い女の子だ。当然、ウワサ話が大好きだ。
 王宮の普通の貴族は、メイドなどに関心はない。なのにレオンは、ちょいちょいメイドの仕事場に遊びにきた。一緒になって女神イモの皮むきを手伝ったりする。かわいい娘ばかりなのだが、セクハラじみたことは一切しない。最初は緊張していたメイドたちも、たちまちレオンに手懐けられてしまった。実際にレオンは、メイドたちには愉快で優しく親切だった。それによく見れば格好も悪くない。メイドの休憩室に王室用超高級菓子を持ちこんで、「さあ、みんなで食べよう! 王サマの味だぞ!」なんてことはしょっちゅうだ。
 廊下のすみで泣いているメイドがいた。洗濯物の高級服がやぶけてしまった程度のことなのだが、レオンは、「よーし! オレにまかせろ」というなり、
 バリバリバリバリバリ~!
 高級服を真っ二つにやぶいてしまった。仰天して腰を抜かした泣き虫メイドの頭をちょっと突っつくと、「うっかりやぶいちまった。メイド長に謝らないとなあ」と言ってメイド長のところに行き、自分が破いたことにしてうまく納めてくれた。さらにその後で、メイド長には喜びそうなものを贈って抜け目なく機嫌をとった。
 レオンの行動は、まったく貴族的ではない。本物の貴族には、メイドたちの機嫌をとるという意識自体が生まれないだろう。
 メイドの間では、レオンの評判はうなぎ登りだった。最初は、
「ジュスティーヌ様の想い人ってどんな方かしら~」だったのに、「やっぱり王女様は、人を見る目がすごいわあ! 素晴らしい方を選んだわね~」ということになった。
 メイドたちが実家に帰ると、やはり王宮のことをきかれる。本当は話してはいけないのだけど、そこは怒られそうになくて、楽しく面白い話をしたくなる。それは、ジュスティーヌ様の想い人といわれ、貴族の世界でも注目の的である、本当は優しいレオン・ド・マルクス伯爵のことになる。
 雑貨屋の娘なら、そんなことを聞いた店員がなじみの客に話す。建設会社のお嬢だったら、作業員たちに話が広がる。服屋だったら、店員が採寸しながら世間話しをする。フランセワ王国には、まだマスコミはない。レオン・ド・マルクス伯爵の噂は、口コミで平民街に広がっていった。
 しかし、メイドに優しく、庶民派で、気前がよく、腕っぷしの強い王女様の婿殿という程度では、まだまだ支持基盤には弱い。民衆を味方につけるには、『職』と『パン』と『サーカス』を提供しなければならない。さらにそれだけでなく、神秘性も必要だ。そこでルーマ大神殿聖本堂とバロバ大神殿長サマのご登場となる。メイドの三人娘には、人間拡声器になってもらおう。


 聖都ルーマ大神殿長のバロバは、困惑していた。今まで多くのニセ眷属やニセ聖者が現れたが、どうやら今度は、本物かもしれない。フランセワ王国王家とフランセワ王国神殿は、そのように判断している。しかも今度は男だというではないか!
 バロバは、人が二度にわたって女神を否認し殺したこと。特に二度目の聖女マリアの死には、自らも深く関わり、聖女を昇天させ地獄を招いたことを、深く悔やみ闇のような恐怖を感じていた。「人類は、女神セレン様に見放されたのではあるまいか?」。
 早急に会わねばなるまい。本当に女神の眷属ならば、聖女マリア以来二十年ぶりの顕現である。
 大神殿聖本堂は、縦百二十メートル、横八十メートル、高さ三十メートルほどのたまご型ドーム球場のような形をしている。立っていられない病者・傷者たちなら三千人。つめれば一万五千人を収容できた。空気圧を利用した建築技術などあるはずもないセレンティアでは、内部に柱の無いこの規模のドーム型建築物など、存在自体が奇跡である。女神セレンが屋内で飛翔し、病者や傷者に癒しを行う際に邪魔なので柱を無くしたのだ。複数の建築家の脳に女神セレンから設計図が送られ、突貫工事で建築された。
 女神セレンの昇天によって癒しが無くなった今では、聖所として封印され、年に数回だけ女神セレン降臨記念日などに、聖遺物とともに公開されている。そんな聖本堂を特別に開扉してフランセワ王国の一行を迎えたのだから、ルーマ大神殿としても相当な熱意だった。
 聖本堂は、たまごの先の部分が一般席より高いステージのような神官席になっており、説法壇と巨大な女神セレン像、それより小さな聖女マリア像が安置されている。正面口は、ドームの下側にある。そこから入場し下から上までドームを廊下で縦に割るように通り、およそ百メートル歩いて神官席の説法壇の前まで達する。
 普通ならば信者の立場であるフランセワ王国一行が先に入って最前列の信者席で待機し、神官たちのお出ましを待つところだ。国王や皇帝である場合に限り、特別に招かれて神官席に上がることが許される。大国フランセワ王国といえども第三王女の私的巡礼では、聖本堂の神官席に上がることはできない。

 ルーマ大神殿は、セレンティア最強の情報網を駆使してレオン・ド・マルクスの行跡をたどった。結果は、「女神セレンの眷属に間違いない。神使であろう」である。聖女マリア昇天から二十年ぶりに顕現した女神の眷属、レオン。前の二神は、美しく優しくたおやかな慈悲と慈愛の女神だった。ところが、このレオンという眷属・神使は、たしかに奇跡の力を宿し、神界で女神セレンとお会いしている。
 しかし、野盗と斬り合って十数人も殺しまくり、家に火を放ち、逃げる敵の眼窩を剣で貫いてとどめをさすような殺人鬼でもある。招かれた王宮では、なにが気に入らなかったのか屋敷が買えるほど高価なガラス瓶を投げつけて叩き割る。止めようとした若い王宮侍女の腕をへし折り蹴り飛ばし肋骨を砕く。たまりかねて剣を抜いた護衛騎士をその場で二人まとめて叩きのめし半殺しにする。授章の場では、国王の面前で決闘騒ぎを起こし、血を見る寸前の事態となり、参列していた数百人のフランセワ貴族を騒然とさせた。
 売春婦や平民メイドといった下賤な者どもとねんごろで、ところかまわず性行為にふけっているという噂もある。スラム街を支配している売春稼業の暴力団とも親しいらしい。
 今回の巡礼の途上でも、公衆の面前で王宮侍女の服を切り裂き短刀で脅して強姦しようとした。驚いて止めようとした護衛騎士団にまで剣で脅して、斬り合い寸前となった。
 そのうえ、どうやってたぶらかしたのか、ひょっとしたら無理やり手込めにしたのか、一国の王女を愛人にして、あろうことか聖地巡礼の最中に処女を奪い、それから毎晩自室に引っぱり込んで犯すというありさまだ。まるでケダモノである。
 悪魔が女神の眷属に化けているのではないかという意見も出た。だがレオンが女神の眷属ならば、アレが出るかもしれない。神罰『女神の火』を下されたら、神殿はおろか聖都ルーマが溶岩の下に沈みかねない。そして永遠に地獄の業火に焼かれて、もだえ苦しむのだ。
 神官団の多くの者たちは、今日のこの会見の無事を祈り、脂汗を流していた。

 フランセワ王国の一行が時間通りに正面入り口から入ると、すでに神官団が神官席に着いて待っている。このことは、高位貴族らの作法に詳しいジュスティーヌ王女、ラヴィラント伯爵隊長、アリーヌ侍女らを驚愕させた。
 フランセワ王国一行の中から選抜された十名は、百メートル歩いて神官席の前に到達した。レオンは、遮るものはなにもないかのようにフワと二メートルも飛び上がると、そのまま当たり前のように神官席に上がり込んでしまった。残されたジュスティーヌたちは、文字通りふるえ上がった。しかし、顔色に出すわけにはいかない。涼しい顔をしたレオンが、手をさしのばしてくる。
「ジュスティーヌ⋯さま。お手をどうぞ」
 ここで手を取ってしまったら、レオンの乱心ではなくフランセワ王家の意志ということになってしまう。ジュスティーヌは、レオンを無視して跪き、拝礼の姿勢をとった。
「ジュスティーヌ・ド・フランセワ王女をこちらへ」
 レオンが女神だった頃に見たような顔だが、二十年分老けた高位神官があわてて指示する。早歩きに降りてきた案内役に従って、舞台そでの隅の階段からジュスティーヌが神官席に上がってきた。「正面に階段を造ってないところが、いかにも張り子の虎の宗教権威だよな」とレオンは、神殿のこけおどしに舌打ちしたくなった。
 レオンが勝手に神官席に上がったことは、不問とされたようだ。さっき指示していた老け神官が、ジュスティーヌに近寄ってきた。この下っ端が代表してジュスティーヌに挨拶するつもりらしい。レオンが声を上げた。
「バロバ大神殿長⋯⋯サマが、ジュスティーヌ王女殿下にご挨拶される。一同起立!」
「いいのかなぁ⋯⋯?」という調子で、信者席に残ったフランセワ王国の一行八人が、跪いた姿勢からノソノソと立ち上がった。
 ジュスティーヌは、ふるえあがって消えてしまいたい気分だ。たかが第三王女の私的な巡礼に、聖本堂の正門を開いて迎えるのが超特別なら、神官団に迎えられるのも超超特別だし、神官席に上げられることも国王か公的な使節団でもないかぎりあり得ない。まして女神様から直々に大神殿長に任命された『女神の代理人』バロバ様から直接に言葉をいただくなど、国王陛下でも難しい。
 消え入りたいジュスティーヌの気持ちなど委細かまわず、レオンは、ズカズカと神官団の中に入っていった。わざと神官たちにまぎれていたバロバの前に真っ直ぐ進み、声を上げる。
「はじめま⋯し⋯て、かな? バロバ大神殿長。フランセワ王国ジュスティーヌ王女殿下がお待ちです。こちらへどうぞ」
 なれなれしく腰に手を回して、バロバを引っ張りだしてきてしまった。「なぜこの男は、ワシの顔を知っておるのだ? しかし、レオン・マルクスが女神の眷属ならば、当然であろう」。バロバは、そう思い直した。
 少しも嫌な顔を見せずバロバ大神殿長は、ジュスティーヌの手を取って愛想よく微笑んだ。
「ジュスティーヌ王女、聖都ルーマ女神セレン正教大神殿神殿長バロバが、あなた様を歓迎いたしますぞ。女神セレン様の祝福のあらんことを」
 本当は、消え入りたいような気持ちなのだが、ジュスティーヌとて生まれながらの王族だ。おくびにも出さず薔薇のように微笑んだ。
「バロバ大神殿長様。女神セレン様の祝福をいただき、この身に余る誉れにございます」
 実際に、バロバから祝福を受けてジュスティーヌは、申し訳ないとは思いながらもひどく感激している。ジュスティーヌも、敬虔な女神セレン正教信者なのだ。だが、この中で群を抜いて女神に近いのは、レオンである。なんといっても前前世は、その女神だったのだから。だが、もう神殿を見限っている。
 (続く) 01 02 03 04  05  06

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