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(小説)異・世界革命 空港反対闘争で死んだ過激派が女神と聖女になって 05

 バロバ大神殿長たちの関心は、もちろん神使・レオンの方にあった。バロバは、率直な性格だった。悟りすました偽善な宗教屋には似合わない性質である。能力と共にこの性格が、女神セレン=新東嶺風の眼鏡にかない、大神殿長に任命される理由になった。
「失礼ですが、マルクス伯爵。『女神の光』をお持ちだとか?」
 レオンは、「二十年経っても、こいつは変わらねえなあ」と思いつつ、
「ええ、持ってます。⋯⋯ええっと、私の部下たちを聖本堂に入れてやると約束しておりまして。許可して下さいませんか?」
 レオンも率直に答えて、率直におねだりをする。バロバは、紙になにか書いて小坊主に渡した。
「⋯⋯すぐに入ってこられるはずです」
「ハハ⋯⋯。ありがとうございます。私は、約束を必ず守ると決めておりますもので」
 同時に指先から『光』を発現して見せる。
「傷治し程度にしか使えませんが⋯⋯」
 ヒュイイイイイィィィィ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
 金の粒をまぶした銀色のピンポン玉が現れた。全神官の注目が、『女神の光』に集中する。想像よりはるかに凄い食いつきだ。
「おおおぉおぉぉ!」
「なんとっ!」
「まさにっ! これはぁっ!」
「生きている内に再び拝見できるとは!」
「女神セレン様、ありがとうございます!」
 天を仰いだり⋯⋯杖を取り落としたり⋯⋯思わず駆けよってきたり⋯⋯。平伏して拝みださんばかりの古参高位神官たちの勢いに、レオンも含めフランセワ王国勢は、驚いてしまった。神官集団の中で最も肝が太いであろうバロバですら、脚がふるえている。
「そ、その御光は、い、いったいどのように?」
 いろいろな所で何度も話したけど、情報が届いてないのだろうか?
「死んだときに、女神セレンに会って授かりました」
 高位神官たちが、のけぞった。こいつら全員が二十年前に見た顔で、偉そうな坊主顔になってるのが、ちょっとおかしい。
「おおおぉおぉぉおぉぉぉ!」
「女神セレン様がっ!」
「女神の光を!」
「なんとっ! ううむ!」
 彼らにとって最も重要であろうことを、脚をガクガクさせながらバロバが質問してくる。
「女神セレン様の再降臨は⋯いつ⋯どちらに⋯⋯?」
 バロバは、率直である。ならば、レオンも率直に答えることにした。

「無いですよ」

 ギョッとして、おそるおそるといった調子で、バロバが聞き返してくる。
「無い、と申されますと?」
「その通りの意味です。女神セレンが、このセレンティアに降りてくることは、二度と、永遠にありません」
 その瞬間に膝を折り、崩れ落ちた神官がいる。バロバは重ねてたずねる。
「なぜ、そのように、お分かりになるのでしょうか?」
 分からないのかね? この人は?
「なぜって⋯⋯。セレンが言ってましたから。怒ってたなぁ」
 神官たちの空気が凍りついた。自分たちがどれほど調子の良いことを言っていたかに、ようやく気づいたらしい。
「!!女神様っ!」
「おゆるしを~!」
「ひぃ! どうすれば、どうすればぁ!」 
「うわあぁぁぁ!」
 頭を抱えてしゃがみこむ神官。壁に頭をぶつけている神官。アリーヌみたいに過呼吸になる神官。床に倒れ伏してふるえている神官。アイドルに会った女の子みたいに気絶して口から泡を吹き運び出される神官までいる。
 突然いきり立った若手の神官が、レオンを指差して、叫んだ。
「嘘だっ! 我々は、女神セレン様の再降臨を祈念し、日夜祈りを捧げているっ! それが聞き届けられないはずがないっ! コイツは悪魔だ! 悪魔の手先だっ! 退け! アクマ! コイツはアクマだっ!」
 耳の痛いことを言われ、逆ギレして金切り声を張り上げるやつは、どこにでもいる。そんな野郎は性格が悪くてバカでムカつくから、死んでもいいのだ。
 弥勒に取りつけられたレオンの冷酷モードが発動した。もうひと押し女神様パンチがほしかったところだ。ちょっと神官どもをビビらせるのに、使わせてもらうことにするぜ。
 指先から再び『女神の光』を発現させる。
 ヒュイイイイイィィィィ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
 金の粒をまぶした銀色の球が現れた。これを正確に表せる言語は、三次元世界には存在しない。あえて無理矢理に表現するなら、『多次元多時空に多層多重に存在し⋯⋯ ( 略 ) ⋯⋯歪みとゆらぎを持つ実存的存在』。
 わけが分からないが、三次元世界であるセレンティアにはあり得ない『モノ』(正確には物質ではないのだが)であり、肉眼で光学的に見ただけで神の世界のなにかだというくらいは直感的に理解できる。
 指先の『光』をクルクル回しながら、レオンは冷酷そのものの表情になった。
「おまえ、神殿の神官だよな。オレが悪魔なら、セレンが護ってくれるだろ。ヘッ。試してみようや。⋯⋯⋯⋯⋯死ね」
 指先からピンポン玉くらいの『女神の光』が離れ、金切り声神官に向かって浮遊して行く。逃げようとしても、スイーッと後についてくる。追尾ミサイルみたいだ。とうとう金切り声神官の背中に当たり、光の粒になって消えた。
「ギャ─────────────ッ!」
 その瞬間に、凄まじい叫び声をあげて金切り声神官が床に倒れた。
「グアッ、くる、くるし⋯⋯。たすけ⋯⋯グエエエェェ!」
 しばらく転がり回っていたが、やがて動けなくなり、身体をねじったような格好になってうなり声を発しながら痙攣をはじめた。
 レオンの『女神の光』は、ちょっとした傷治しにしか使えない。ところが逆に、体内に小さなカサブタをつくることを思いついた。即実行で、金切り声神官の心臓の冠動脈にカサブタをつくり、血流を止めた。
 心筋梗塞の極端な症状だ。二十分で心臓が壊死しはじめ、六時間程度で死ぬ。脳の血管を詰まらせても脳梗塞で死ぬが、心臓の方が派手にもだえ苦しむ。殺しではなく威嚇が目的だから、やるなら心臓だ。
 意外⋯でもなかったが、古参高位神官たちは、金切り声神官にひどく冷淡だった。「あの『女神の光』を、悪魔などが複製するなど絶対に不可能。『女神の光』を授かるような方は、女神セレン様の眷属に間違いない。よりにもよって神殿の聖域で女神の眷属を悪魔呼ばわりしたら、神罰が下るのは当然。苦しみもだえて死んで当たり前」。こんな感じである。
 大勢の死を見すぎ、若干の人格改造まで受けた新東嶺風=レオン・ド・マルクスは、人の死に対して無頓着で冷酷そのものになっていた。死とは、いつかはだれにでも発生する現象にすぎない⋯⋯。
「六時間くらいで死にます。転がり回ると邪魔なんで、運び出した方がいいですよ」
 これでは、「オレが殺してやったぞ」と宣言したのも同然だ。神官だって死ぬのは嫌だろうから、少しはビビるだろう。
 金切り声神官を見下ろしながら、「放置させて、苦しんでいるところを見せつけた方が効果的だったかなぁ」などとレオンが考えていると、ジュスティーヌ王女が割り込んできて色をなして怒った。
「なりませんっ! マルクス伯爵! この者を助けなさい!」
 ヒステリー女は、トボケてテキトーにあしらうことにした。「ツラと頭がよくて親の七光りがあるけど、しょせん小娘だよなー。必要なら一人くらい死んだっていい。むしろ殺すべきだろう」。レオンは、そう考えたのだ。
「えー、聖域で涜神発言をした神罰ですので、ワタクシには、ドーすることもできません」
 大ウソを見抜いているジュスティーヌは、ますます腹を立てた。
「そのようなウソをっ! レオン! 助けるのです。今すぐに!」
 ちょうどその時に喜び勇んで聖本堂に入ってきたフランセワ王国一行の外待機組は、神官席の様子に驚いてしまった。嘆き悲しんでいる神官たちの群れ。なかには死にかかっている神官がいる。巨大女神像の前で、ジュスティーヌ王女が、レオンに食ってかかっている。あんなに仲が良かったのに? どっ、どうすれば? せめてジュスティーヌ様に冷静になっていただかないと。しかし、あの聖域は、招かれた者以外は上がることが許されない。
「早くしないと死んでしまいます。助けなさいっ! 王女として命じます!」
 レオンは、トボケた態度を崩さない。
「女神には、王や皇帝といえども命令できませんよお?」
「卑怯者っ!」
 ジュスティーヌの手が出た。もちろん黙って顔面を張り飛ばされるレオンではない。アリーヌの時と同様に、パシッと手首を掴んだ。
「あぁ、ダメだ⋯⋯」。フランセワ王国一行の誰しもが思った。ジュスティーヌ王女を助けに行こうにも、場所は女神の聖域である。しかも神罰を受けたらしい人たちが、目の前で苦しみもだえている。どうやら死にかかっているようだ。恐ろしくてとても近寄れない。
「離しなさいっ! 無礼ではないかっ!」
 ジュスティーヌの精神力と誇りに、レオンは感心した。同時に「オレの言いなりにならない王女に用は無いな。この場で殺しちまって伝説をつくり、山に入り野盗や流民を集めてゲリラでもやるかぁ」などと考えた。ほんの十二時間前は、ベッドの上であんなに仲良しだったのに⋯⋯。
 レオンをにらんでいたジュスティーヌの青緑の目が潤み、ポロポロと大粒の涙がこぼれてきた。
「おねがいです。あんなふうに人を殺さないで⋯⋯」
 ジュスティーヌが王女権力をいくら振りかざしても、「めんどうくせえ。殺しちまおうか」くらいにしか感じないレオンだが、毎晩寝ている女の涙には、少しは揺れた。神使化しても、まだまだ人間性は残っているようだ。
「ちっ!」
 投げつけるようにジュスティーヌの手首を離すと、死にかかっている神官をチラッと見た。レオンがちょっと指を動かして血栓を除去した瞬間、体を硬直させヒクヒクと痙攣していた状態が治まった。血流を止めて二十分も経ってないから、たぶん助かるだろう。ショックで死ぬかもしれないが、そんなことは知ったことではない。
 ジュスティーヌは、手首を押さえて床にへたり込んでしまっている。忠実侍女のアリーヌが血相を変えてなにか叫びながら神官席に上がろうとするが、冷静侍女で保安員のマリアンヌが体術を使って抑え込んでる。
 もう、ここですることは無さそうだ。レオンは、引き上げ時だと考えた⋯⋯。

 十歳も老けたようなバロバが、最後の頼みの蜘蛛の糸にすがりついてきた。
「人間が二度にわたり女神様と聖女様を弑したこと、赦されることのない大罪です。されど、いと慈悲深き女神セレン様に、お怒りを解いていただくには、いかなるお詫びをすればよいでしょうか? なにとぞお教え下さい」
 バロバ大神殿長が、どこかの成り上がり貴族に拝礼して教えを乞う。レオンの前前世は女神セレンだったのだから、正常な関係とも言えるのだが、この世界の常識では異常だ。
 他の神官どもも口々に叫び始めた。
「どうか、お教え下され~」
「なにとぞ、おとりなしを~」
「セレン様に我らの気持ちを~」
 もともと神官どもなど、社会の寄生虫くらいにしか見ていなかったレオンだ。連中のあまりの愚かさと身勝手さにムカッ腹が立ってきた。
「ライゼム、アドゥ、ガカオ。黙れっ!」
 とりわけ大声でわめき散らしていた高位神官どもの二十年前の俗名だ。普通の人間なら、彼らの名を知っているはずがない。口を閉じた神官どもは、恐怖の目でレオンを注視する。
 レオンの口調が、なんだか神様っぼくなった。
「バロバ・ルゴダよ、おまえは言ったではないか。「女神亡き後は、神殿があとを継ぐ」と。ファルールの地獄に反対したマリアに、「神殿に背く者は、女神に背く者だ」と言ったであろう。神殿を牢に変えた暑い小部屋で」
 バロバ・ルゴダとは、バロバ大神殿長の実名だ。これを知っている者は、この世には、もうバロバ一人しかいない⋯⋯はずだった。そして「神殿が女神のあとを継ぐ」とバロバから聞かされた者は、聖女マリア。ただ一人だ。
 二十一年前の暑い夜だった。ファルールの地獄に反対したマリアは、神官たちに罵られ殴られながら引きずられ、牢獄代わりの小部屋に監禁された。何日も水も食料も与えられなかったマリアに、最後の説得をしたのが、バロバ大神殿長なのだ。頑として説得に応じなかったマリアは、神女服をはぎ取られ半裸で裸足のまま大神殿から叩き出された。だが⋯⋯。
 見透かしたレオンの声が続いた。冷徹そのものだ。
「殺されなかっただけ⋯⋯か?」

 バロバ・ルゴダが幼いころ、かっぱらいにしくじって捕まったことがある。バロバを捕えたその男は、今のレオンと同じ目でバロバを眺め、大通りに引きずってゆくとそのまま放り出した。振り返りもせず去ってゆくその男の背中を見ながら、幼いバロバは、殴られた方がマシだと思った。その時のことを不意に思い出した。
 レオンは、バロバを冷然と見ている。
 他にも『神勅』と称して念を押しておきたいことがあったのだが、こんな連中を相手にするのもバカバカしい。神官どもに、これ以上まとわりつかれる前に、早く帰ることにした。
 神官席から飛び降りたレオンは、少し大回りをして外に出ることにした。入口から真っ直ぐ伸びる廊下の他に、ドームの壁に沿ってぐるりと廊下が巡らされている。その途中に聖遺物と称するガラクタの展示コーナーがあり、少し興味を引かれた。
 神官席で大仰に嘆き悲しんでいるやつもいれば、レオンの後についてくる神官もいる。バロバもよろめきながらついてくる。
 レオンに並んだジルベールが、小声でたずねた。
「あの~。ファルールの地獄って、なんなんですか?」
 レオンは驚いて足を止めた。「こいつは侯爵家のセガレだよな」。能力次第では大臣にもなれる家柄だ。
「聞いたことが、ないのか?」
 ジルベールは、苦笑いした。
「子供のころ、下町の悪ガキから聞いたことがあります。父にたずねたら、二度と口にするなって殴られましたよ」
 泣いたりわめいたりするカオス状態の神官席に見切りをつけ、ジュスティーヌたちも追って来た。まさか王女が⋯⋯。聞いてみよう。近寄るとアリーヌ侍女に、にらみつけられた。たしかに手首にあざをつけたりして可哀想なことをした。だが、それよりも⋯⋯。
「ジュスティーヌ! ファルールの地獄について、王家では、どう考えているんだ?」
「え? さっき初めて聞きました。あの、ファルールの地獄とは⋯⋯?」
 隊長のラヴィラント伯爵にも聞いてみる。
「ファルールの地獄のとき、隊長は十九か二十歳でしたよね。行かれたんですか?」
 野盗団との戦闘の始末も冷静に処理したラヴィラント護衛隊長は、今までになく動揺した。
「ファルールの地獄を話すことは禁じられています。私は、家族の反対で行かれませんでした。家出してでも向かおうとしたのですが、屋敷に監禁されましたよ」
 ファルールに行っていたら、ラヴィラント隊長の人格は、破綻していたのではないだろうか。
「それは⋯⋯。なによりでした。さすがラヴィラント伯爵家です」

 レオンが考え込みながら歩んでいると、やがて聖遺物の展示スペースにさしかかった。ガラクタを一段高いところに並べてご大層なものに見せかけている世にも下らないシロモノだ。愚劣の標本のような聖遺物とやらを、ゴミを見る目で流し見していたレオンの足が止まった。粗末な木製の棺の中にドス黒い血の痕が染みついた『聖柩』が、過剰に飾り立てられ展示されている。ジルベールが肩をすくめながら言った。
「悪魔に殺された聖女マリアの死体が、柩から消えたそうですよ。私は、誰かが持ち出したんだと思いますがね」
 レオンが薄笑いを浮かべている。なにか自嘲的な笑いだ。
「それは違うぞ⋯⋯。マリアは、ここで見世物にされるのが嫌だったんだ」
 そう言うなりレオンは、展示スペースに飛び上り、聖柩に抱きつき渾身の力を込めて床にたたき落とした。
 ドゴン! ガッシャーン! ガラガラガラガラ⋯⋯
 ジルベールを含む全員が、青くなった。尻もちをつく者、ヘナヘナとへたり込む者⋯⋯。ジュスティーヌは、両手で顔を覆って泣きだしてしまった。アリーヌと、マリアンヌさえも呆然としている。「とうとう、絶対にしてはならないことをしでかしてしまった⋯⋯」。
 展示スペースから半壊した聖柩を見下ろしたレオンは、どういうわけか、ギリギリと歯ぎしりの音が聞こえそうなほど怒り狂っていた。飛び降りると転がっている聖柩に近づき、今度は思いきり蹴り飛ばした。
 ガッ! ガラララン!
「秘宝館の目玉見世物のつもりかっ! ふっ、ふざけやがってぇ!」
 バラバラにしなければ気がおさまらないとばかりに、聖柩を執拗に蹴りまくった。
 ガッ! ガッ! ガッ! ガッ! ガッ!!
 ようやくバロバが追いついてきた。
「こ、これは?」
 振り向きざまにレオンがバロバを指差して怒鳴った。
「バロバっ! 貴様っ! よくここまで恥知らずになれたなっ! ファルールに無反省なのかっ!」
 今度は聖柩にベットリと染み込んでいる赤黒い聖血痕を、グリグリと踏みにじり始めた。
 ジュスティーヌは、芯の強い女だ。失神しそうな気を取り直し、涙をぬぐってレオンの腕に飛びつき、すがりついた。
「やめて下さい。バロバ様になんということを! 皆、レオンが乱心しました。早く取り押さえなさい」
 呆然としていてだれも動けない。
「待てよ。おまえたちは、なにも知らない。いいだろう、教えてやるよ。たしかにこの場所は、ファルールを語るのにふさわしいなっ」
 後についてきた古手の高位神官どもが、叫びだした。
「待って下さい!」
「若い世代には!」
「知らねばすむことです!」
「それは禁じられて!」
「ようやく傷が癒えたのです!」
 バロバが、手を挙げてさえぎった。
「よさぬか。もう二度と女神の赦しは、得られないのだ」
 レオンは、動揺している坊主どもの姿を憎悪の目でながめ、鼻で笑った。
「フッ、あれからもう二十年以上も経ってるのか。おまえらの最初の恐怖は、『女神の火』だったはずだ」
 レオンは、少し声を落とした。めずらしくなにかを後悔しているようだ。
「あの『火』が、ファルールの地獄を準備したのかもしれない⋯⋯」

 ──────────────────
 
 二十二年前。
 聖都ルーマ大神殿聖本堂に、女神セレンは、必ず毎日二回降臨した。現実に美神が出現し、あらゆる病を癒すのだ。
 不治の病であろうが、手足が切断されていようが、精神病であろうが、単なる気のせいだろうが、あらゆる病気や怪我が聖本堂で『女神の光』を受けるだけで快癒した。
 有料席と無料席があったが、無料席であっても差別なく癒しを受けることができた。有料席は、少し早く入場でき、女神セレンがよく見えるというだけの違いだが、多くの人は有料席を選んだ。金額は、『無料』『千ニーゼ以上』と『一万ニーゼ以上』の三種類である。
 集まった寄付は、神殿の維持費を差し引いて全て栄養不良の貧困者への炊き出しに使われた。そのおかげで餓死から救われた者や生きることができた孤児などが大勢いた。なかには炊き出しに寄生しようとする者が現れた。生真面目なバロバなどの神官たちは憤慨したが、女神は「自由にさせよ」と意に介さなかった。
 乳幼児の死亡率が劇的に下がり、平均寿命は四十歳代から六十歳代まで二十年も伸びた。世界中の病者と傷者が聖都ルーマに集まり、イタロ王国は空前の好景気に沸いた。なかには勝手に女神像のたぐいを売りだし、ひと財産築いた者もあった。これもバロバたちをひどく憤慨させたが、やはり「自由にさせよ」なのだった。
 新東嶺風が転生していた女神セレンは、病苦に悩む傷病者が限りなくゼロに近づけば、それでよかったのだ。生苦、老苦、病苦、死苦という人間の四つの苦しみのひとつを無くせば、それで桎梏のひとつを外すことができた人間は、より高い段階に進むことができるだろうと考えた。
 新東嶺風=女神セレンの理想は、最悪のかたちで裏切られることになる。その最初の予兆は、『女神の火』事件だった。今でもレオンは、それを無視するべきだったのか、それとももっと徹底的にやるべきだったのか、分からないでいる。

 今すぐ治療しないと死ぬ、というような患者がかつぎ込まれると、いついかなる時でも女神セレンは顕現し、病人を癒してから光を残して去った。信じがたいほどに慈悲深く、優しい女神である。しかし、『優しい』を、『弱い』とか『抵抗しない』などと解釈し見下して、つけいってくる下劣なやつは、どこの世界にもいる。現代の日本にもいくらでもいる。
 大神殿聖本堂には、女神と人を隔てる柵のようなものはない。女神セレンは、空中を飛翔し『女神の光』を散らし病者を癒している。空を飛んでいるのだから、柵など意味がないし飛ぶのに邪魔になるのだ。
 とはいえ女神信仰の人たちが喜ぶので、床に降りたり、有料席のあたりで発光して見せたりした。近くで見た人たちは、平伏したり泣いたり拝んだりと大喜びだ。喜ばれるのは良いことだろうから、ちょくちょく廊下を歩いた。床に足が触れず流れるように歩く白い衣の美神。その後ろを残像のように金と銀の光の粒が舞い輝き、その姿は一目見た者が生涯忘れられないほどに美しかった。

 その日の二度目の癒しの際に、女神セレンの前に立ちふさがった者がいた。ネズミのような顔をした男だった。そんなものは飛び越えて進んでもよかったのだが、なにか言いたいことがあるようだったので、対面して立ち止まった。
 ネズミ顔男は、女神セレンを指差して怒鳴り声を張り上げた。
「おまえは、ニセ女神だっ!」
 見物人が席を取ってしまい本当の病人が癒しを受けられないことを避けるために、聖本堂の入口で神力で検査を行い、傷病者と付き添い以外は入場をお断りにしている。なかには健康なのに自分は病気だと思い込んでいる人もいて、そんな人は心の病気だということにして聖本堂に入れていた。
 ネズミ顔男も、そんな病気だったのかもしれない。とはいえ聖本堂にいるからにはネズミ顔男は、病気や怪我を癒されたはずだ。なのに面と向かって指をさしニセ女神よばわりしてきた。
 さらにネズミ顔がわめいた。
「神とはっ、ファルール聖国に厳護されている黄金の女神像様ただひとりのみっ! 他はニセモノだ! 黄金女神像信仰以外は、全て極悪の邪宗教であるっ! 他の神を拝むと地獄に堕ちるのだ! 永遠の地獄が怖ければ黄金女神像様を礼拝せよ! 偉大な黄金女神様をさしおいて、小娘がヒョロヒョロと飛び回り病気治しなどとは、薄汚い魂胆が透けて見えるぞ。こいつは、病気治しをエサに愚鈍な大衆を操る悪魔だ! 死んでから黄金女神天国に入るのが正しい信仰なのだ! 自分を崇めた交換に病気を治してやるなどとは、カネと交換に麻薬をばら撒くのと同じだ! まさに悪魔の所行である! ニセ女神を焼き殺せ! よく見ろ、黄金女神様に比べると、貧相な小娘でブスじゃないかっ! アハハハハハハハッ! ブスッ!」

 慈愛と癒しの女神セレンとはいっても、中身はあの気性の荒い過激派の新東嶺風である。この言いぐさには、激しくムカついた。
 エンゲルスが『唯物論と観念論』で述べたように、「『物質的な実体』に基づいた存在が思考を規定」した。砕いていうと、女神の身体に入っていたために嶺風の精神は、かなり女性化していた。なので、とりわけ最後の「ブスッ!」に腹が立った。
 弥勒と交信する。
「このまま引き下がったら神様ってより、病気治しの拝みオババの高級版になっちまうぜ? お祈りという小銭をチャリンと投げ込むと、病気が治る自動販売機だ」

“病気が治って人類から四苦のひとつを滅すればそれで良いのだから、女神が自動販売機でも大きな問題はないぞ”

「なら、食ったらどんな病気でも治る草の種でも、そこらじゅうに蒔けばいいだろっ! ブスとはなんだ。ブスとはっ?」

“余計ないさかいを避けるためにも、女神にはある程度の権威や威厳が必要だというのか⋯”

 嶺風=セレンは、とたんに元気が出た。
「そうそう。でもな、暴力の裏打ちのない権威や威厳なんぞ、張り子の虎だぜ。オマワリが怖がられているのは、殺人道具であるピストルを腰にぶら下げているからだ」

“うーん。人殺しはダメだぞ~”

 許可が出た。
 ネズミ顔男に関心を失った女神セレンは、子供の手から放れた風船のようにその場から浮上し、垂直に上がっていった。天井にぶつかってもそのまま通り抜けて、聖本堂の屋根の上に現れた。
 その時、物乞いから閣議の最中の国王にまで、百万人のルーマ市民の脳内に女神セレンの神秘の声が響いた。

「十分後に、海をみよ」

 大神殿聖本堂は、大騒ぎになっていた。混乱にまぎれてネズミ顔男は、姿をくらませてしまった。卑怯者なのだから、そんなものだ。
 バロバ大神殿長は、癒しの時には必ず神官席の説教壇に立って神殿内の様子を確認していた。女神セレン様のまえに立ちふさがり怒鳴り散らしている涜神者を確認し、すぐに若手の神官たちを送ったのだが、逃げられてしまった。この時の苦い経験が、のちにバロバの涜神者に対する厳しい姿勢となり、ファルールの地獄をさらに悲惨なものとした。
 先ほどから女神セレンが、聖本堂の上方五十メートルの空中に立っておられる。美しい銀色に輝き、高層建築物などないルーマのあらゆる場所から見えた。その日は曇天で嵐に近い強風だったのに、古代ローマ風の白い衣装をたなびかせ、しかし空中で女神セレンは、立った姿勢で微動だにしない。
 聖都ルーマは、函館や長崎といった港と高台の街に似ている。おそらく全ルーマ市民百万人が、高台に建てられた大神殿の上に浮かび輝く女神セレン様の姿を目にした。スッと腕を伸ばして海を指した女神の後を追って、すべての人が海を注視した。
 お怒りであろう女神へ謝罪の祈りを捧げていたバロバに、女神セレン様の御声が届いた。うるわしい御声だが内容は、バロバに理解できない。「きっと尊いお言葉なのだろう」。

 じゅっきろめーとるさきこうどせんめーとるにうらんにひゃくさんじゅうごをいちぐらむせいせい ひゃくぱーせんとのしつりょうけっそんをしょうじさせよ れんさはんのうをじぞくさせりんかいじょうたい はつねつはんのうをともなうかくぶんれつはんのうをおこせ かくばくはつとどうじにほうしゃせいぶっしつとゆうがいほうしゃせんをじょきょすること
 (十キロメートル先、高度千メートルにウラン二三五を一グラム生成。百パーセントの質量欠損を生じさせよ。連鎖反応を持続させ臨界状態。発熱反応を伴う核分裂反応を起こせ。核爆発と同時に放射性物質と有害放射線を除去すること)

 十キロ彼方の海の上に太陽が生まれた。
 爆風によって一瞬で曇天の雲を吹き飛ばし青空が見えた。衝撃波でその付近の海が煮え立ち真っ白になった。海面を白くして目に見える形で衝撃波が陸に近づいてくる。太陽はさらに巨大になり、七十度の熱線がルーマの人びとの肌を刺した。爆発の約三十秒後に轟音が到達した。火山が大噴火し、同時に数百の雷鳴が轟いた音だ。

 ドカン! グワン! ドドォー!!! ガラガラガラ! バリバリバリバリ! ゴオオオオォォォォ!

 数秒後に衝撃波が到達した。
 ドン!
 爆心地から十キロも離れているのに、爆風速は六十メートルを超えている。ハンマーで叩かれたような衝撃で人びとがよろめき、石が吹き飛んだ。目と耳をふさぎ、うずくまっている者も多い。
 ようやく衝撃波が通過し、目を開くと、太陽は巨大な火の柱となって天空を登っている。火の柱に続いて、見上げるような雲の柱が目の前に立ちふさがった。やがて何キロも飛ばされてきた巨大な魚が何十匹も街に降ってきた。魚たちは奇形にねじれ目玉や内臓が飛び出し、路上に転がり死んでいる。
 恐怖した人びとが屋内に逃げ込むと、やがて嫌な臭いのする黒い雨が降ってきた。どす黒い雨は、翌朝までやむことなく、聖都ルーマを暗く染めた。

 凄まじい女神の怒りをその目で見たイタロ王国国王は、ただちに王立科学アカデミー勅任教授団を召集した。イタロ王国は、同盟国であるフランセワ王国の先をゆく先進国だ。聖都ルーマは、自治都市であるとともに首都でもある。原始的な天文台や地震観測所さえあった。そこから全てに優先して観測データが集められ、学者たちによって夜を徹して分析された。
 翌朝、徹夜のせいばかりでなく、恐怖で顔色を青くさせた学者たちが、なんとかまとめた報告書を国王に提出した。学問に理解のある王ではあったが、読んでも意味がよく分からない。

 (極秘)(緊急) 
『女神の火』現象に関する報告書 王立科学アカデミー
 現在入手しうる各種データに基づいてルーマ東方十キロの海上上空約千メートルで発生した、いわゆる『女神の火』現象に関する分析及び知見をまとめた。
 (注)機器による精密観測が不可能であるため、各種数値は計算値である。
 ①-1 出現した火球の直径は約四百メートル。表面温度は五万度に達したと推定される。
 ①-2 火球中心部の温度は百万度を超えたと推定される。
 ①-3 火球直下約八百メートルの水表面の温度は四千度に達したと推定される。
 ①-4『女神の火』火球において多くの未知の現象が観測された。特に理論上の仮説であった放射線の存在が多数確認された。
 ②-1膨大な熱エネルギーが急激に解放されたことにより生じた非常に強力な上昇気流によって、巨大な『雲の柱』が発生した。対流雲の一種と推定される。
 ②-2『雲の柱』の到達高度は二万メートル以上である。雲頂は成層圏まで到達した。
 ②-3『雲の柱』下層より、超高温によって生じる亜硝酸や窒素酸化物、その他未知の物質が多数採取された。
 ③-1 爆発で放出されたエネルギーは八十兆ジュール以上と推定される。エネルギーは、爆風、爆音、衝撃波、熱線、放射線、その他未知の現象となり放出された。
 ③-2 爆発時における爆発点の気圧は五十万気圧以上と推定される。これにより強烈な衝撃波が生じた。
 ③-3 爆心地での爆風速は五百メートル毎秒以上と推定される。局地的に音速を超える衝撃波が発生した。
 ③-4 爆心地での爆風圧は一平方メートルあたり五十五トン以上と推定される。
 特記
 以上のような膨大なエネルギーの放出現象は、現在のところ恒星表面の熱反応でのみ観測されている。

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯?」
 困惑した国王が下問する。
「報告書の内容を、分かりやすく説明いたせ」
 そういう質問があることを予想していた王立科学アカデミー総裁が、報告書をかみ砕いて解説した。
「女神セレン様は、大気中に太陽をおつくりになったのでございます。それが空気に触れて爆発したのでございましょう」
 太陽!?
「ルーマ市街に太陽などをつくられたら、どうなるのか?」
「溶岩の湖ができるのか、すべてが吹き飛んで成層圏まで吹き上がるのか⋯⋯。今は分かりませぬが、生きているものは、なにひとつございますまい」
 自らの目で見て凄まじいとは知っていたが、そこまでとは! 驚愕した国王が腰を浮かせた。
「!!!いっ、いかん!」
 昨日、女神セレンに大不敬を働いた愚か者がおったという。王座を蹴って立ち上がり、大神殿に急行した。

 バロバ大神殿長も頭を抱えていた。女神セレンが、優しいだけの癒し神ではなかったことが、驚きだった。バロバに限らず皆が、いささかではあるが女神を舐めて甘ったれていたのだ。女神の怒りが、あれほど凄まじいものであろうとは⋯⋯。
 不敬ネズミ顔男を捕えず逃がしたのもまずかった。バロバは、不信心者の大不敬発言の内容を読んで、そのあまりにひどい言いぶりに深い穴に墜ちていくような感覚に陥った。女神セレン様の怒りがぶり返して、今度こそ聖都ルーマを焼き払うのではないかと不安にもなった。
 女神に対してできることは、お祈り以外になにひとつない。だが、国王府が文句をつけてきた時の用心に、取りあえず、「あなたの国民の不敬発言のせいでしょう」と、国王にその不敬発言の写しを送りつけた。こんな時でもバロバは、なかなかの政治家である。

 女神セレンの癒しは、毎日欠かさず八時と二時に行われた。普段なら付き添いも含めて三千人近くが聖本堂に入るのだが、昨日の『女神の火』におびえてしまい、すぐに癒やさないと死んでしまいそうな人や外国から来た人など、普段の十分の一程度しか入場しなかった。
 代わりに神官席に国王を先頭に国王府の高官たちと、バロバ大神殿長と高位神官たちが勢ぞろいし、備えられた椅子には座らず床に跪いて女神に謝罪の姿勢を示している。
 その少し前に国王とバロバ大神殿長がはち合わせた時には、お互いに責任をなすりつけて罵りあった。しかし、女神の面前でそのような醜態をさらしても無意味である。それどころか、さらなるお怒りを買いかねない。今日は信者の数がとりわけ少ないことも、お怒りを買うかもしれない⋯⋯。
 とにかく国と神殿の代表が、誠心誠意の謝罪の姿勢を表さねばならないということになった。そこで皆で跪いているのだが、数分後には、成層圏か溶岩かで自分は死んで地獄に堕ちているかもしれないと考えると、全員が冷や汗まみれになった。
 八時ちょうどに聖本堂内の空中に『女神の光』が銀色に輝き、やがて人型に凝集し、女神セレンが顕現した。相変わらず美の化身のようなうつくしさである。いつもと同じように病者たちの上で旋回し、女神の光を散らして癒しの奇跡を行い、仕事が終わると光の粒に戻り消えていった。
 女神セレンは、国王と高官連や大神殿長と神官団には、一瞥もくれなかった。赦すとは言われなかったが、お怒りの様子もない。聖都ルーマは、命拾いしたようであった。
『女神の火』に関しては、王立アカデミーの報告書も含めてルーマ大神殿より各国の神殿に伝達され、そこから各国政府にも伝えられた。
 聖都ルーマは国際都市でもあったので、目撃した外国人から民間にも『女神の火』の凄まじい話が、セレンティア全土に広がったのである。

 新東嶺風=女神セレンは、最近ちょっと舐めた態度をとるようになったやつらを少しビビらせてやる程度のつもりだった。
 そのためルーマから十キロばかり離れた海上でウラン二三五を核分裂させて、特殊相対性理論「質量とエネルギーの等価性 E = mc2」によりエネルギーに変換させた。広島型原子爆弾の一・五倍程度の威力の核分裂爆弾を炸裂させたのである。空港反対闘争のために飛行機を撃ち落とせ、とか真顔でいう男である。やることが過激なのだ。反核運動なんかにも、ちょいちょい顔を出していたくせに⋯⋯。
 放射性物質や有害放射線は、あらかじめ取り除いておいた。嵐に近い天候だったので船なども出ていない。ルーマは海に面した斜面に発展した街なので建物は強風に強く造られていた。大きな物的被害はほとんどなかった。
 人的被害も、恐怖のあまり百人以上も寝込んでしまったとか、衝撃波で転んで骨折したとか、飛んできた石が当たってコブができたといったくらいで、『女神の癒し』で簡単に治療できる程度のものだった。
 問題は、人の心だった。嶺風は、「ビビらせてやったぜ」と大得意だったが、人びとの精神に大きな傷を残したのだ。
 セレンティアは、南北アメリカ大陸によく似ておりアラスカの部分を大きく広げた形の穏やかな大陸である。地震や火山の噴火などは、ほとんどない。火薬も普及していないので、大きな爆発などを見た者はいない。セレンティア人は、雷が一番激しくて恐い爆発音だという人たちなのだ。
 そんな人たちが、目の前で凄まじい核爆発を見せられたのだからたまらない。実は、ショックで脳や心臓をやられて死んでしまった人が数十人もいた。嶺風が女神の力を使ってこっそり癒したのだが、「ちょっとやりすぎたかなぁ」と多少は反省した。でも、もうやってしまったことだ。手遅れである。

『女神の火』の恐怖は、全世界に広がった。「女神セレン様のお怒りにふれると永遠に地獄の業火で焼かれる」とかいう尾ひれまでついた。

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 レオンは、聖女マリアの聖遺骸が納められたという『聖柩』を、まるで汚いもののように、足先でつついている。見かねたバロバ大神殿長が哀願するように言う。
「レオン様、それは⋯⋯」
「大神殿の神官が、マリアに関してアレコレいう権利があるのかな? ⋯⋯まぁいい。『女神の火』の後も、女神セレンは毎日顕現して癒しを行っていた。降臨して二年目だったかな。女神が斬殺されたのは」
 それを言われると大神殿の神官たちは、平静ではいられない。女神セレン様をお護りできなかった後悔で、気が変になりそうになる。
 レオンは、広大な聖本堂の一角を指差した。
「めった刺しにされたのは、あそこら辺だった。近くにいたマリアは、女神殺害を見てショックで死んじまったっけ」
 正確にその場所を指差してる。
 悪魔の手によって女神セレン様が昇天されてしてしまい、二度と顕現されなくなった日を思い出して、神官が嗚咽した。
「そんなに悲しむ必要はない。死人を生き返らせたり、手足を生やしたりできる神なのだから、復活なんて簡単だよ」
 再び蜘蛛の糸が見えてきたバロバが、すがりついてきた。
「それでは、女神セレン様はなぜ?」
 あきれた。そんなのは女神の意志に決まってるじゃないか。噛んで含めるように言わないと分からないのか?
「セレンはね、無意味なことを止めたんですよ。人は、女神に頼るのではなく自らの力で自らを救わねばならない。それで、人であるマリアを聖女として復活させた。あんたらは虐待したが⋯⋯」

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 女神セレンが降臨して二年が過ぎた。神力をもって、風邪から末期癌まで三百万以上の人びとを癒し、病から回復させた。
 中身は新東嶺風である女神セレンは、大嫌いだったソ連の専制君主スターリンの言葉を思い出していた。「ひとりの死は悲劇でも、大勢の死は数字にすぎない」。この伝でいけば、「ひとりの癒しは善美でも、大勢の癒しは数字にすぎない」。
 聖本堂で、毎日病気治しをしただけではない。神託と称して公衆衛生学を広めたり、女神イモなどの栄養豊富で栽培が容易な作物を与えたりした結果、イタロ王国の平均寿命が二十歳も伸びただけでなく、セレンティア全土で平均寿命が十年近く伸びた。
 すべての病気をセレンティアから根絶し、四苦から病苦を取り除くことで、人間の水準を一段高いところに発展させる。それが弥勒から授けられた嶺風=女神セレンの使命だった。
 計画は順調に進んでいた。いくらかのツッコミどころはあるにせよ、だれにとっても利益になる良策であるように思えた。ところが、救うつもりだった肝心の人間から、何重にも拒絶されることになったのだ。

 その日も女神セレンは、癒しを終え中央の廊下を歩いていた。もう、病気の人はいないかなと周囲を見回した時、突如として腹に剣が突き立てられた。背中からも太刀が突き通され、剣先が胸から飛び出した。
 女神の身体でも痛みは感じる。実際に、狂うんじゃないかと思うほどの激痛に襲われた。しかし、見苦しく逃げ回ったりせず、女神らしくセレンはその場に立ちつくしていた。
 実際に嶺風=女神セレンは、良いことばかりしているつもりである。その結果が衆人環視での惨殺だ。さすがに「あんまりじゃないか」と言いたかったが、喉を切り裂かれ、肩から袈裟切りにされ、倒れたところを十人掛かりで取り囲まれ、メチャメチャに切り刻まれて声も出なかった。
 セレンの傷からは、血液のかわりに光の粒が吹き出してきた。めった刺しにしても埒があかないと見て、クビを刎ねとばされると、人の形を維持することが不可能となった。セレンは光の粒のかたまりとなり、数秒後に消滅した。
 数分間の出来事だった。すべてを間近で目撃したマリアという神女は、卒倒してそのまま心臓が止まってしまった。女神セレンをテロった連中は、十数人ほどの集団で、太刀のたぐいで武装していた。なにやら勝ち鬨をあげると、悪びれることなく堂々と廊下を行進して出口に向かおうとした。
 その時、殺される瞬間の動物が発するような悲鳴が聖本堂に響いた。叫びながら枯れ木のような老婆が先頭の大男に躍り掛かると、その足に噛みついた。これが『ファルールの地獄』の始まりとなったのだ。
 老婆は一瞬で斬り殺された。たが次に若い女が『女神殺し』につかみかかり、剣で貫かれて死んだ。訓練され武装した十数人のテロ集団に、さっきまで病人や怪我人だった素手の五千人が、一斉に襲いかかった。どれだけ斬っても刺しても殺しても、爪や歯を武器にした人びとがテロ団に押し寄せていった。
 数におされ武器を奪われたテロ団員は、八つ裂きどころではなかった。皮は一寸刻みに引きちぎられ、内臓は引きずり出され床に叩きつけられ踏みにじられ、骨は粉々になるまで打ち砕かれた。最聖所であった大神殿聖本堂は、血の臭いが充満し目玉や切断された手や足が転がっている現世の血の海地獄となった。
 比較的正気を保っていたバロバ大神殿長は、テロ団員を生かして捕らえることを命じた。神官たちが発狂した群衆に割って入ろうとしたが、殴り倒され踏み殺されそうになるありさまだった。袋叩きになり血だらけになった神官たちが、ズタズタに死にかかったテロ団員をなんとか一人だけ確保した。
 テロ団員に厳しい尋問などは必要なかった。怒りと憎しみに憑かれたようになっている神官たちに取り囲まれていながらそいつは、「邪悪な悪魔セレンを打ち倒したのだ!」と誇らしげに言い放った。

 ──────────────────

 ファルール聖国は、人口三百五十万ほどの小国だった。聖都ルーマからは、北東に二千キロほど離れた半島国家だ。
 他国と同様に女神信仰であったが、ファルール聖国の宗教は奇妙だった。黄金女神像といわれるセレンの偶像を熱烈に信仰していたのだ。国王が最高神祇官を兼ねており、貴族は全員が神官。あらゆることが宗教で規制される神権国家だった。
 彼らは、黄金女神像のセレン以外の神など信じていない。実際に本物の女神セレンが降臨し病気治しをはじめたと聞いても、最初はデマ扱いし、やがて否定しきれなくなると悪魔の誘惑であると断じた。
 現実には、黄金女神像にいくら貢ぎ物やら生け贄やらを捧げても、病気や怪我は治りはしない。狂ったオウムのように一日七回も黄金女神像の前で頭を振って祝詞を唱えても、やはりなにも変わらなかった。「信仰と交換に病気を治すのは悪魔であり、死んでから天国に連れていってくれるのが真の女神である」という教義を広めようとしたが、病に苦しむ人たちにはなんの役にも立たなかった。
 不治とされた病人や怪我人が、悪魔の誘惑に負けてファルール聖国から脱出しはじめた。彼らに続いて女神セレンの話を聞いた多くの者が、ファルール聖国から逃亡をはじめた。軍が国境を封鎖すると、人びとは丸木舟をこしらえて海から逃げた。
 ファルール聖国にとって黄金女神像信仰は、国の背骨である。いわゆる上部構造とされる『政治制度』『社会規範』『文化』といった一切が、黄金女神像信仰に規定されていた。ファルール聖国は、貧しい後進国だ。黄金女神像セレンが授けたと称する煩瑣な戒律に縛られて農業をはじめとする産業の発展は阻害され、国民の多くは半ば栄養失調状態にあった。宗教という上部構造が、社会の基盤である生産力の発展を阻害する逆規定の典型である。
 黄金女神像セレンの信者でなければ、ファルール聖国で生きることはできない。黄金女神像信仰が、ファルール聖国と社会を支えていた。ところが本物の女神セレンが現れたために、黄金女神像信仰が崩れはじめた。その結果、政治体制どころか、ファルール社会を構成していた全てが音を立てて崩壊しはじめた。悪魔セレンが出現して以来、わずか二年でファルール国民の一割が国外に流出した。
 ファルール聖国の政治=宗教指導層は、単なる宗教搾取者ではなかった。何世代にもわたって彼らは、心の底から黄金女神像を信仰していた。そして今、聖国民を惑わし黄金女神像様に害をなす悪魔のニセ女神を地獄に追い返さねばならないと決定した。いくら遠国でうごめいているとしても、打ち払わねばならない。
 悪魔セレンをせん滅して黄金女神像様の威光を再び輝かせるために、選りすぐった神兵による聖戦士団が結成された。二千キロも遠征し、ルーマで彼らは見事に使命を果たした。

 ──────────────────

 さしあたって恐ろしいのは、『女神の火』だった。起きるとすれば、女神が顕現される明日朝八時だろう。
 バロバ大神殿長は、すでに死を覚悟していた。バロバは、率直で責任感の強い男だった。聖都ルーマのすべてが『女神の火』によって消えるとしても、必ず事件の記録は残さねばならないと決意した。
 倒れそうなほど疲労していたがバロバは、朝までに女神が昇天された現場の目撃証言やテロ団の生き残りの供述調書を、自らの見解も加えてまとめた。それらの写しを国王府、各国の神殿、さらにイタロ王国に点在する神殿に早馬で送った。これらはファルール聖国への怒りと憎しみを全世界にまき散らすことになってしまう⋯⋯。
 夜明け前から大勢の人たちがルーマから逃げようと街道で列をなしていた。それ以上の数の人びとが、大神殿に集まり広場を埋めつくした。女神セレン様におわびしたいと考えたのだ。バロバの報告書を読んだ神官たちは、随所に立って事実をありのままに伝えていた。ひとことも聞き漏らすまいと黙って聞いていた民衆の間に、ある感情が渦巻いた。女神セレンの癒しで、肉親や親しい友人の命を救われた経験のない者は、ルーマには一人もいなかった。
 八時になった。大神殿長や国王をはじめ、ルーマのあらゆる人びとが女神セレン様に赦しを乞い平伏していた。
 ⋯⋯しかし、なにも起こらなかった。なにも起こらなかったのだ! 時計のように正確に顕現されていた女神セレン様は、現れなかった。死なずにすんでホッとした者もいたが、やがて気がついた。「我々は女神セレン様に見放されたのだ。女神は二度と顕現されない!」。人びとは泣いた。これは、『女神の火』よりも恐ろしいことだ。
 やがて、だれかが思い出した。
「女神様を殺したやつが、生き残っている!」
 群衆が、叫び声をあげて神官席に詰め寄った。もとより神官団と国王たちも女神弑逆者に対する怒りと憎しみは人びととなんら変わらず、生かしておくつもりはなかった。
 大神殿前広場に十万人を超える詰めかけた。大神殿のバルコニーに国王とバロバ大神殿長が姿を現した。なにか醜い物をバロバが引きずっている。血だらけの服の男だ。バロバは、その髪を掴むと顔を群衆にさらした。
 こいつが女神殺しだ!
 十万の憎しみの声が、地鳴りとなって響いた。バロバは、両手で女神殺しを持ち上げると、凄まじい勢いで群衆の中に投げ入れた。

 聖都ルーマの外れに、気の優しい正直で善良な男がいた。
 働き者だったが、ひどく貧しかった。妻が病弱で、寝込むことが多かったからだ。体が思うように動かない妻は、男が見ていないところでいつも泣いていた。
 男には、八歳と六歳の娘がいた。二人とも痩せていて、よく病気をした。子供たちは、病弱だから痩せているのか、栄養が足りていないので病弱なのかよく分からなかった。
 女神セレンさまが降臨されたという話を聞いた。妻を背負い子供たちを連れて五時間かかって大神殿にたどり着いた。わずかなカネを持っていたが、神官さまに、貧しい者は払わなくてもよいと言われた。聖本堂の中に案内され、しばらく待つと女神セレンさまが顕現された。
 男には、この世にこれほどきれいなものがあるとは、想像さえできなかった。光り輝く女神さまの姿は、人生で最も美しい光景として男の魂に、死ぬまで刻みこまれた。
 天国のような美しい時間が過ぎ、女神セレンさまが神界にお帰りになると、いつも苦しそうに咳ばかりしていた妻が、健康になっていた。少しふらつくものの自分で歩くことさえできた。子供たちもすっかり顔色がよくなり、咳をしなくなった。
 聖本堂を出ると家族は食堂に案内された。女神さまからの贈り物だといって食事を振る舞われた。今まで食べたこともない、この世のものとは思えない美味な食べ物だった。配膳をしていた神女さまが女神さまのお言葉だといって、「飢えた者や痩せた者は、いつでもここにきて食事をするように」と言われた。
 男は、テーブルに突っ伏して泣いた。
 一家は幸せになった。男は正直な働き者だったし、健康になった妻も気だての良いしっかり者だった。子供たちも健康で明るくなった。少しだがおカネが残り、神殿に納めることができるようになった。
 家族は、女神セレンさまが聖本堂に降臨される八時と二時には、神殿に向かって跪き顕現されている女神さまに感謝の祈りを捧げた。子供たちにとても優しい父だったが、女神さまにお祈りを忘れることだけは絶対に許さなかった。

 ある日、男が朝起きて仕事の仕度をしていると、おそろしい話を聞いた。女神セレンさまが、病気で苦しんでいる者を癒やすため顕現されたあの女神セレンさまを、剣で刺し貫いた者たちがいるというのだ。男は大神殿まで走った。
 大神殿前の広場には、見たこともないほど大勢の人たちが集まっていた。何人かの神官さまが、口々にバロバ大神殿長さまが書かれた説明を読んでいた。皆が人垣をつくり黙ってそれを聞いていた。「ファルールという悪魔の国が、女神さまが光で人びとを癒し苦しみから救うことを憎み、暗黒の悪魔軍を差し向け、癒しの最中に卑怯にも後ろから獣のように襲いかかり、女神さまの尊い御体を魔剣で切り裂いた」のだという。
 詰めかけた人びとが叫んだりわめいたりしながら広場をうろうろしていた。男もなにをすればよいか分からず、ただ立ちつくしていた。やがて聖本堂から大勢の人たちが出てきた。多くの人は泣いていた。女神さまが顕現されなかったのだ。だれかが「もう女神さまは、きて下さらないのだ」と叫んだ。男は、足元が崩れ深い穴に落ちていくような気がした。
 十万もの人が神殿前広場に集まり、身動きできないほどになった。しばらくして大神殿のバルコニーに、バロバ大神殿長さまと国王さまがお姿を現した。お二人は捕らえた悪魔の一味の髪をつかみ、バルコニーの手すりにさらした。悪魔の顔は、遠くてよく見えなかったが、怒りで目が眩みそうだった。バロバ大神殿長さまは、両腕で悪魔を持ち上げると神の力でそいつを民衆の中に投げ込んだ。しばらくその辺りで赤い霧が立ちこめたように見えた。
 男は、考えながら家に帰った。こんなに考えたのは、生まれて初めてだった。帰ると妻と子供たちが抱き合って泣いていた。男は真っすぐ台所に行き、一番大きい包丁を取り出した。丁度良い棒が見当たらないので、ほうきを引っ張り出した。ほうきの柄に荒縄で包丁をくくり付けた。背負いカバンに水筒とわずかにあった干し肉をいれた。
 妻は、泣きながら夫の戦支度を手伝い、顔を見上げて笑ってから再び泣いた。娘たちは、外に飛び出すと野花をたくさん摘んできた。ほうきの柄に包丁をくくり付けた父親が玄関から出る時に、頭上に花の雨を降らせた。妻と娘たちは、父が再び帰ることはないだろうと分かっていたが、行かなければならないことも知っていた。自分が女なので、ついていけないことが悔しかった。
 男は、ファルールに着くまで徒歩で七十日もかかることを知っていた。しかし、たとえ雑草を食い乞食をしてでもたどり着くつもりだった。しばらくして気がつくと、大きな包丁を持った少年とか錆びた剣を引きずった老人たちがいっしょに歩いていた。
 武器を持ってファルール聖国を目指す群衆の流れは、日ごとにふくれあがり、二十万人をこえた。
 暴徒を制止するよう命令されたイタロ王国軍が前に立ちふさがったが、群衆は止まらなかった。兵士の隙間をすり抜けて前進した。剣を抜く兵は一人もいなかった。フランセワ王国との国境には、フランセワ王国軍が配置されていたが黙って通してくれた。女神信仰の厚いフランセワ王国では、むしろ歓迎され、食糧の供給さえ受けられた。街道では大勢のフランセワ人が、彼らに手を振り食べ物を運びお祈りを捧げた。五十万人以上のフランセワ人が加わり、群衆はさらに膨れ上がった。群衆は、いつしか『神殿軍』と呼ばれるようになった。
 神殿軍は、フランセワ王国を四十日かけて縦断し、ボラン王国に入った。ファルール聖国と仲が悪かったボラン王国では、フランセワよりさらに歓迎され、武器の供給さえ受けた。ボラン王国の東北に国境を接する半島国家が、ファルール聖国である。
 やがてブロイン帝国やルーシー帝国など、世界中から神殿軍が集まってきた。その数は百万を超え、日を追って増えていった。
 ファルール聖国も、手をこまねいてはいなかった。動ける男を全て徴兵して国境を固めた。人口三百二十万の国で、六十万人が兵となった。大国である人口千五百万のフランセワ王国の常備軍が、約十万人である。

 七十日かけてファルールにたどり着いたこの正直で善良な男は、悪魔の軍勢が前に立ちふさがっているのを見た。少し立ち止まって支度を整え、男は包丁をくくり付けたほうきを振りかざしてそのまま正直に敵陣に突っ込んで行った。一瞬で男は殺され、血を噴いて地面に転がった。
 準備を整えて待ちかまえていた軍隊と、包丁のたぐいが武器の群衆では勝負にもならなかった。まるで肉挽き機に吸い込まれたように神殿軍は突撃し、血の池と肉の山になって殺され続けた。
 神殿軍の一部は、国境の山を越えた。戦略的になんの意味のない場所なので、ファルール軍はいなかった。何日か進むとファルール人の山村があった。女や子供、それに老人たちが働いていた。若い男は、みんな兵隊にとられていたからだ。
 神殿軍は、ファルールの悪魔どもにおどりかかった。泣こうが命乞いしようが一切容赦はなかった。母親から赤ん坊を取り上げて地面に叩きつけた。それでも死なないので首を切断した。狂ったようになった母親には錆びた出刃包丁を根元まで腹に突き刺した。生き返ったらいけないので、念のため心臓をえぐり出した。這いずり回って逃げる老人には、後頭部をこん棒でめった打ちにした。まだヒクヒクと生きているので、砕けた頭蓋骨に手を突っ込んで脳をグチャグチャにして殺した。村の隅から隅まで探し回って殺しつくすと、あらゆるところに火を放った。悪魔の住みかなどで寝るくらいなら、雨でも野宿する方がずっとマシだった。悪魔の死体は、まとめて焼いた。残った悪魔の骨も呪われているので、砕いて粉にして風に吹き散らした。畑の作物は、悪魔の食い物なのですべて引き抜いて死体と一緒に焼き捨てた。こんなものを食ったら悪魔になってしまうかもしれない。餓死した方がまだよかった。
 丸木舟で数百人の神殿軍が、ファルールの海岸にたどり着いた。漁村も山村と同じこととなった。神殿軍の通ったあとには、人はおろか家畜や作物まで生きているものは何ひとつなかった。
 前線では、すでに五十万人の神殿兵が戦死していた。神殿軍は、一切損害を省みず朝も昼も夜も間断なく攻撃を続けた。いくら防いでもあらゆる隙間から神殿軍が侵入した。一旦侵入すると自分たちが追い詰められ殺されるまでファルール人を殺しまくった。とうとうファルール軍の前線の一角が崩れた。勝てそうだと見て参戦したボラン王国軍が、戦線の穴をついて拡大した。
 戦線が崩壊し、大半が徴兵された一般人であるファルール軍は、潰走した。交渉も降伏も許されなかった。兵士であろうが民間人であろうが、手当たり次第に殺された。見かねたボラン王国軍が降伏したファルール軍を保護すると、神殿軍が攻め込んできてボラン王国軍を殺し始めた。悪魔をかくまう者は、悪魔だ! ボラン王国が抗議しようにも、神殿軍に指揮者などいなかった。
 女を犯す神殿兵など、ほとんどいなかった。そんなごく少数の者は、悪魔と交わったという理由でその場で殺され、焼かれた。犯された女も悪魔なので、一緒に殺されて焼かれた。
 ボラン王国が得たものは、なにもなかった。神殿軍の破壊を止めようとすると問答無用で殺しにくるので、なにもできなかった。元ファルールの領土は、徹底的に破壊し尽くされた。
 ファルールの生き物は、ネズミやトカゲの類まで見つけ次第、殺され焼かれた。村も町も都市も、ありとあらゆるものが焼き払われた。森や林には火がかけられた。燃えなかった木は一本ずつ切り倒され、再び芽を出さないように切り株は根ごと掘り出されて焼かれた。池や川には毒が流し込まれ、無数の魚が腹を見せて浮かんだ。だが、それを食って死ぬはずの野生動物は、もう、あらかた殺されていた。
 雑草の一本、虫けらの一匹ですら忌まわしかった。この呪われた土地を不毛にしなければならない。ファルールという存在を抹殺するのだ。消し去るのだ。
 大量の塩が運び込まれ、ファルールの悪魔が耕していた畑に撒かれた。最初に皆殺しになった山村にも、数日がかりで塩が運ばれ畑に撒かれた。塩では手ぬるいので、水銀や硫酸やその他の毒物が大量に生産され撒き散らされた。神殿兵の中に水銀中毒になり狂ったようになって死ぬ者が出たが、だれも気にしなかった。とうとうセレンティア中の塩を集めて使ってしまったので、海水をぶちまけることにした。宗教的信念だけが持ち得る忍耐力と持続力で、数年間ひたすら海水をファルール全土に撒き続けた。畑だけではなく森や林まで不毛の地に変わった。
 ファルールは、白い砂漠となった。

 ──────────────────

 唖然としているジュスティーヌやジルベールに、レオンは語る。
「ファルールという国は、今はもう無い。国境だったところは高い壁で遮断され、ファルールから飛んでくる鳥は射殺される。ファルール人は、絶滅した」
 レオンは、再び聖女マリアの『聖柩』をつま先で突っつきはじめた。
「セレンが癒したのは、末期癌から風邪まで含めて約三百万人。ファルールの地獄で死んだのは、約五百万人⋯⋯。完全にマイナスだよなあ。フフフ⋯⋯」
 誰も触れられず歴史から抹殺しようとしていた『ファルールの地獄』について、これほど整理され具体的な話を聞いたのはバロバですら初めてだった。王女であるジュスティーヌが聞かされていなかったのは、事件にフランセワ王国が加担していたことを隠そうという意志の表れだろう。戦争のない平和なフランセワ王国の伝説を信じていた王女は、驚き、そして恐怖を隠せない。
「そんな⋯そんなことがあったなんて⋯⋯」
 当時十九歳だったラヴィラント伯爵も、あの時にそれほどの規模の大虐殺があったことは知らなかった。青ざめている。
 レオンが向き直った。
「でもな。ファルール地獄は、これで終わりではなかった。いや。これからが本当の地獄だったのだ!」
 ラヴィラント伯爵には、なにか思い当たることがあるようだ。顔を背けた。バロバと神官たちが、恐怖の色を見せた。
「どうしょうもなかったのです⋯⋯」
「止めることは、できませんでした」
「私たちは、なにをすれば良かったのでしょう!」
 レオンが鼻で笑った。
「マリア以外は、新しい地獄を止める気なんか、無かったくせに」
 レオンは、再び聖女マリアの『聖柩』を見た。想うところがあるのだ。
「昇天した女神セレンは、それでも人間を救おうとした。セレンが殺された現場に居合わせ死んだマリアに癒しの力を授け、復活させた。ふん! マリアが生き返った時は、大変な騒ぎだったな。癒しの力まで授けられていたのだから、カミサマ扱いだ。⋯⋯最初だけはな!」
 バロバが、おぼつかない足取りで寄ってきた。
「どうか⋯⋯。それ以上は、おゆるし下され。どうか」
 レオンは、ますます冷ややかだ。
「マリアも、同じようなことを言いませんでしたか? 真のファルールの地獄には、マリアと神殿が深く関わっている⋯⋯」
 バロバをはじめとする神官たちが、一様に青ざめた。後ずさる者もいる。
「そうだ! クラーニオの丘だ! クラーニオの丘に連れて行って下さい。今も神殿が悪魔祓いをしてるんでしょう?」
 神官たちは、今や真っ青だ。
「く、クラーニオの丘をどこで?」
「あそこは⋯⋯。あそこはいけません!」
「最も穢れた恐ろしい場所です」
「忌地なのです!」
 レオンは、切り札を出した。
「セレンに、三つばかり伝言を頼まれています。言っても無意味なので伝えず帰ろうと思ってたんですが。クラーニオの丘でなら⋯⋯。ふさわしい」
『女神の眷属で神力を有する神使レオン』と、とっくに神官たちは判断していた。荒い性格なのは、女神セレン様のお怒りの表れなのだろう。神使様の命令である。お怒りを鎮めていただき神勅を聞かせていただかねばならない。

(続く) 01 02 03 04 05  06

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