パーマカルチャー文化祭2021      世界の『小さな民』にとってのパーマカルチャーとグローバル危機

パーマカルチャー文化祭2021
世界の『小さな民』にとってのパーマカルチャーとグローバル危機

谷山博史

 こんにちは、ご紹介いただいた谷山です。2018年の宮古島デザインコースの履修生です。
 国際協力NGO、日本国際ボランティアセンター、略してJVCという団体で1986年から2018年までの約30年間活動しました。最後は代表理事を務めて退職し、現在は沖縄の名護市に住んでいます。NGOの活動では海外の現場、タイ、ラオス、カンボジア、アフガニスタンで12年間駐在していました。沖縄に移ってからは畑を作り、庭園管理の仕事をし、ライフワークである沖縄の基地問題にかかわっています。今日はPCJ(パーマカルチャーセンター・ジャパン)の関係者の間でもアフガニスタンのことに興味がある人が多いということで呼ばれました。(その後企画メンバーからとにかくあなたにとって希望を感じたときの「はっ」を話してくれとのことでしたので)、まずは私にとっての「希望のはっ」について話したあとアフガニスタンのことに触れたいと思います。
 私がやっていた日本国際ボランティアセンター(JVC)という団体は1980年代から様々な国で持続的農業の活動を村人とともに行ってきましたが、パーマカルチャーの普及と銘打って活動したのは2000年初頭の南アフリカが初めでした。南アフリカではアパルトヘイトの時代に農民はホームランドという隔離された地域に囲い込まれ、正業である農業を奪われました。その影響はアパルトヘイト廃止後も続き、黒人は白人の大規模農場の労働者として働くか、都市や鉱山に出稼ぎに出てわずかな賃金やわずかな年金で生活することを余儀なくされてきました。もともと農民だった黒人たちも農民としての誇りをうばわれ、農業の仕方も忘れてしまっていたのです。
 そんななか2000年代初めに東ケープ州のカラという地区でパーマカルチャーの普及活動を始めたのです。男が出稼ぎで村を出てしまった女性たちの間で広がっていきました。女性たちがグループを作り励まし合い工夫し合いながら広めていきました。自分で作物を作り、家族に安全な野菜を食べさせ、一部を売って収入を得る。ある女性が言った言葉が印象的で忘れられません。「I became a human」。「私は人間になった」と言ったのです。お金もなく権利も奪われた人たちがパーマカルチャーで自立することによって人間としての誇りを取り戻したのです。
 (南アフリカではその後北西部のリンポポ州でもパーマカルチャーの普及活動を始めました。特に力をいれたのはHIV/AIDsの陽性者の人たちへの普及です。陽性者の女性セレナさんはパーマカルチャーを始めて生き方が大きく変わった人の一人です。彼女は生きる自身を取り戻し、陽性者であることをカミングアウトし、同じ陽性者にパーマカルチャーを普及するリーダーになっていきました。)
 他にも海外の現場ではっとしたことはいくつもあります。タイでの活動では東北タイのひとりの若い農民が山形県置賜の菅野芳秀さんのところに研修に行きました。菅野さんが直配で農作物を町の人たちに届けるのを見て「そうか農民が作物を直接消費者に売っていいんだ」と気が付きました。これがきっかけで村と町をつなぐ地場の市場のプロジェクトが始まります。またJVCのスタッフだった村上真平さん(今は愛農学園の校長)の弟子のデーンという農民はJVCで研修をうけたあと村に戻って有機農業を始めました。初めは村人に見向きもされませんでしたが、前の国王の推奨する「足るを知る経済」のモデル農場に認定されたのを機に全国から視察者が来るまでになりました。タイの都市にも「希望のはっ」があります。2017年の大洪水でバンコクでは農作物の流通が途絶えました。それを機に都市農業が一気に広がります。(タイ持続的農業財団(SAFT)が協力もあって、2018年時点で170もの活動が地域住民の自主活動として定着しています。)
 これらの「はっ」の事例で気づくことがありませんか。それはなにかというと、パーマカルチャーや持続的農業の取り組みは、周辺化された人々の間で始まる、あるいは危機の中から生まれるということです。私はこうした人々の取り組みは危機の時代に必ず世界的な潮流になると思っています。しかし、グローバルな危機は待ってはくれません。地球と人類の破局はすぐそこまで来ています。今SDGsが盛んに取り上げられていますが、SDGsはその前文である「2030アジェンダ」なくしては意味をもちません。2030アジェンダの宣言は破局への危機感をこう表現しています。「多くの国の存続と地球の生物維持システムが存続の危機に瀕している」。
 私は世界の紛争・戦争の現場と「開発」によって人々が追いつめられる現場を沢山見てきました。そこから実感として感じることは、地球上の化石燃料や鉱物資源、水、森林、土地などの自然資源は枯渇に向かっているということです。その一方で経済成長を先進国と競う新興国が資源争奪に登場してきました。希少化する資源の争奪は今後さらに加速するでしょう。だとすればどうなるでしょう。各国が武力を用いて奪い合うか、自然資源を生活の糧として慎ましく暮らしてきたいわゆる途上国の人々から奪うしかないのです。経済成長を競う開発と紛争・戦争は車の両輪となって地球と人類の破局を加速しているのです。
 日本の私たちは危機の被害者であると同時に加害者です。2007年08年の世界食糧危機のとき食料の輸入国を中心にアジア、アフリカ、中南米で自国の食糧基地を作る動きが加速しました。そして土地収奪が頻発しました。土地収奪に関わる事件は2012年には2002年の10倍に増え、2015年は土地を守ろうと闘う環境活動家(その多くが先住民)が歴史上最も多く殺された年となりました。(今でもこの傾向に歯止めがかかりません)
 日本政府がアフリカ南部のモザンビークで日本の食糧供給基地を作るための大規模農業開発プロジェクト(「プロサバンナ」事業)を始めたのが2009年です。農民の大規模な反対運動が起こります。私たちはモザンビークの農民のSOSを受けて日本政府に事業の白紙撤回を求める闘いを7年間戦い続けました。結果として事業の中止を勝ち取ることができましたが、事業予定地の農民は分断され農村社会に傷跡を残しました。これは安保法制にも関係しています。日本政府は集団的自衛権の行使を認める要件に存立危機事態というのを想定しています。そして存立危機事態はエネルギーの輸入ができなくなる事態、食料の輸入ができなる事態も該当すると政府は国会審議の答弁で述べています。人の国から食料を奪い、農民の反対でそれが阻害されれば自衛隊を派遣することができるということなのです。(さすがに農民を弾圧することはできないので「テロリスト」がいるとかなんとか言うでしょう。)
 アフガニスタン戦争やイラク戦争も背景には資源問題があります。イラクは石油、アフガニスタンは石油・天然ガスのパイプラインと鉱物資源(一兆ドル)です。
 8月15日20年間つづいたアフガニスタン対テロ戦争はアメリカの敗退で幕を閉じました。タリバーンが政権に復帰したのです。各国のメディアや政府にとって驚天動地の事態でした。日本のメディアも思考停止に陥り、タリバーンへの恐怖を煽るネガティブ情報を垂れ流しつづけました。しかしアフガニスタンに5年近く住んでアメリカの戦争を見続けてきた私には、予想されたことでした。私が現場駐在していた2006年の時点でタリバーンの影響力はすでに国土の5割近くに浸透していたのです。タリバーンが勢力を拡大させた最大の原因は米軍と連合軍による度重なる誤爆、誤射、超法規的な逮捕、拷問、暴力的な家宅捜査にあります。多くのアフガン人が外国軍は自分たちを攻撃するものととらえ、タリバーンの自爆テロを被占領住民を代表する自衛行為とみなしていたのです。このことがタリバーンに参加するアフガン人の人的な供給源の裾野を広げたのです。そしてアフガニスタン対テロ戦争そのものが違法な戦争であり、講和なき戦争だったため、戦争を終わらせる出口がありませんでした。この戦争に日本を初め世界中の国が参加しました。今必要なのはタリバーンを悪玉に仕立てることではなくこの戦争そのものを検証することです。
 沖縄にいてアフガニスタンの事態を見ていると、沖縄の状況とアフガニスタンの状況が重なって見えます。米軍が超法規的な存在であること、米軍も政府も住民を守ってくれないということ、それだけでなく住民の命と生活を脅かす存在であるということです。私が沖縄に移住して辺野古新基地建設の反対運動をしているのは、アフガニスタンでの経験から自分の足元で基地と戦争の問題にかかわるためです。そしてパーマカルチャーは私にとって土地や資源の収奪と戦争に加担せず、不服従の抵抗をするためなのです。

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