石垣りんのお給料。

石垣りんは14歳で高等小学校を卒業し、昭和9年、事務見習員として日本興業銀行(現在のみずほ銀行の前身のひとつ)に就職した。それから定年の55歳までほぼ40年間をつとめあげた。
高等小学校というのは尋常小学校のうえに2年間ある課程で、女学校よりは下になる。いまの中学2年生で学業がおわるということだ。

 学校の勉強が嫌いな私には好都合ともいえる時代でしたが、これは行く先たいへん不都合な結果をまねくことになります。高小卒という肩書は(中略)入社以来定年退職する日まで付いてまわるのが学歴なのでした。

「巣立った日の装い」

不都合な結果をまねくことになる、と書いているが、これは銀行からあたえられる給与の学歴格差のことではないかと思われる。戦前から1970年ごろにかけての日本興業銀行の給与体系については詳細は知らないが、大卒、高卒、中卒とその学歴におうじて、また男女の別でも、金額にしっかりと格差をつけられていたろうと想像する。高小卒の石垣はその給与水準のいちばん下のカーストに位置する存在ではなかったろうか。
別のエッセイでは、友人が石垣のつとめる銀行にたずねてきたとき、こういった。
「あなたのとこの男性、みんないい背広を着ているのね」

 服装を整えさせるためには、それ相応の生活資金を給与しなければならないわけで、みんないい背広を着ているのネ、ということは、まあまあの暮しをしているの? というほどの意味にも受け取れた。男の人たちはそうかもヨ、とこちらはあきらめたような気分で、紺の事務服の衿もとのあたりに目を落としていた。

「着る人・つくる人」

お給料わたしはそんなにもらってないのよ、というため息が聞こえてきそうな文章だ。でもいまさら学校にいきなおすこともできないし、仕事を変わるのもかんたんじゃないし、しかたないわね。
現実問題として石垣はじぶんの稼ぎで家族の生活をささえていたので、銀行の給与が安かろうとそれを辞める選択肢はなかったはずだ。
銀行勤めのかたわらで石垣は詩人として世に出ていくが、たまに文芸誌などに詩やエッセイを寄稿したとしても、大きなお金になるわけではない。詩人でお金持ちになったという人は聞いたことがない。お金持ちが詩人になるケースはある。あるデパートの社長などがそうだ。

石垣は40年つとめた銀行の退職金で1DKのマンションを買う。それが前の文章で紹介した大田区の終の棲家だ。

 大田区南雪谷一丁目、退職金で完済できるかどうかの瀬戸際にたつはずのスミカであり、楢山へゆくおりんばあさんを思えば、町名の雪谷はりんがたどりつくに恰好の場所かも知れなかった。

「呑川(のみがわ)のほとり」

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