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賢い奴は独りでいるしかない

おはようございます。田中です。食欲があります。

さあ今年は最低でも月一回はnoteを書くぞ。まあ1月書いてないからすでに破綻してるわけですが。とりあえず書きます。


2月は新バンドの初ライブを行って、ようやく音楽活動を始められた。去年1年間はほぼライブせずに、こいつ何してる人やねんと思われるような事しかしてなかったのでやっと存在に輪郭がついた感じか。まあ実際こいつ何してる人やねんと思われたままでもまったく問題はないのだが。

というのも音楽、もといバンドに関しての情報は我々の公式のSNSアカウントやらHPで以って垂れ流されているので俺個人から伝えることは特に無い。ライブ予定が増えてきているから「各々の都合と判断のもと、遊びに来てください」といったいつまで使うか分からん判で押したような文句を述べるのみである。そういった情報を期待してここにアクセスした方は今すぐ回れ右してこの画面を閉じ、スマホのプランを見直していただきたい。


さて、あまり陳腐なことは言いたくないが先程少し触れた去年1年間なんもしてなかった事情についてだが、これは大方の予想通りほぼ10割コロナのせいである。非常に煩わしい。専門家にも届くように正式な表現で言わせてもらうと、ごっつうっとうしい。そしてこんな風に極端に接触を絶たれてしまうと、柄にも無く「人と会うこととは」などという説法じみた領域にまで考えを巡らせることになったりもする。バリうっとい。いかつい。ほんまえげつい。専門用語が飛び交う中申し訳ないが、暇ながら思いついたことを書くので心して流し読みしてちゃぶ台。


自分が生活の中で会う人の種類は大雑把に分けて好きな人、好きでも嫌いでもない人、嫌いな人の3つがあると思う。これは何を基準に分かれているのか、俺にとってそこで大事になるのが「鐘」という考え方である。

「善く問いを待つ者は、鐘を撞(つ)くが如し」

これは坂本龍馬が西郷隆盛を表す時に用いた言葉である。ほんまかいな。録音・録画機器が無い時代の発言の真偽は疑わしいでんなぁ。カメラが無ければiPhoneを使えばいいじゃない。but, 龍馬のこの表現自体は面白いものである。知ってる人も多いと思うからざっくり説明すると、大人物というのは喩えるなら鐘のようなものでこちらが大きく叩けば大きく響くし、小さく叩けば小さくホニャララ…ということである。いやホニャララのパートがんばれよ。

教育者としての西郷を鐘になぞらえ、大小の撞き方云々は生徒からの質問の鋭さを表しているらしいが、この考えは教育に限った話ではなく、対等な人間同士にも大いに適用されるものである。


そこで先程挙げた自分が会う人間の3つのパターン、俺はこれが「自分がその相手といる時、いかに心地よく響いているか」を基準として分けられていると考えている。

好きな人と一緒にいる時は、自分のことを鐘とした場合、相手はより良く、ときには大きく、ときには小さくこちらを撞いてくれる。また、逆に自分が撞く側に回ったときは相手のことを上手く撞けている、という自負が得られる。だから共にいる間は本当に心地良いわけである。

好きでも嫌いでもない人とは、鐘と撞き手のバランスが上手くとれていない相手だということである。上手く響けばいいなとはお互い想っているので、嫌悪感こそ無いが、そこがどちらにも振り切れない要因だと言える。バランスの取り方がハマれば一気に関係が面白くなるケースもあるかもしれないから一概につまらない相手とも言えない。

嫌いな人というのが面白くて、これは自分が鐘として想定してないような箇所を、馬鹿みたいな力加減で撞いてきたりするので、その為にアレルギーが生じるのだが、意外と「あ、俺こういう響き方もあるんや」という気付きもあって、結構クセになったりする。まあ大体ムカついて終わるんだが。


とまあ、雑に人間関係を鐘と撞き手に置き換えるとこんな感じである。そして、ここまでは自分がどういうところを楽しみにしていろんな人と会っているのかを主観的に整理しただけで、本題はここからである。くどい〜!一回麦茶飲む?


まあ俺なんかはアホなフリしてるけど実は賢い人…ぶってるほんまにアホな奴なので、結局くどくど上記に論ったような理由をぶら下げて人に会いに行っているわけだが、賢い人はそうはいかない。まず、大前提として賢い人は嫌いな人にわざわざ会わないし、好きでも嫌いでもない人との今後発展するか分からん関係に期待して積極的にコミュニケーションを持ち続けるほど暇じゃない。じゃあ好きな人とだけ会っていればいいじゃないか。もちろんそうなのだが、そこに来てこのコロナ禍である。相手が大事であり、相手といる時間やその中の自分が好きであるがゆえに、賢い人がその機会を諦めなければいけないきっかけが生まれてしまった。お前、童話か。童話に出てくる哀しい聖人か。

自粛は必要なことだし、人と会わない努力をしている人とその是非について論じたいわけではない。コロナはあくまで一つのきっかけに過ぎず、これは精神性の話である。

そもそも実はコロナを完全に度外視したとしても、本当に好きな相手と会うというのは、それはそれで危険なのである。その心地良さってぶっちゃけかなりの中毒で、自分を上手く響かせてくれる人との関係に溺れるとそれ以外の他者との交流が極端に減っていく。それだけならまだスモールサークルオブフレンズとしての救いや矜恃があるが、賢い人はさらに先回りしてそういった中毒にも怯えて、ついには好きな人とさえも会わなくなっていく。実際、俺の周りの賢い人にも人と会うのをやめ始めているのが何人かいる。それはやばいぞ。どっか行こ行こ。エヴァンゲリオンでもええから観に行こ。

まあ、賢い人の孤独化が進んでいるわけだ。顕在化してないのは賢い人はそれを隠すのも上手いということに尽きるわけで、俺はただすこ〜〜〜〜しだけ気にしている。寝る前には忘れてるけどね。


色々言ったが、最終的にそういった賢い人達に俺らアホができることというのは無理やりにでも鐘を撞いてやることだけである。賢い人は往往にしてシャイなので、そいつを引っ張り出して小突くというのは些かこっちも照れ臭くなってしまうような作業ではあるのだが。


「恥といふことを打ち捨てて、世のことは成るべし」


これも龍馬の言葉。

俺の「遼」という字は、司馬遼太郎からとったのだとか。こちらからは以上です。

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