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【読書記録】「暇と退屈の倫理学」は今読むべき一冊だと思う


この本は、大学の図書館や友人の家、ベルリンで貸してもらった方の家など至る所で見ていて興味があったものの、分厚い本なためなかなか手を出せずズルズル数年経ち、やっと先日知り合いからオススメの本と言われたことで、読むことにした。

が、もっと前に読んでおけばよかったと後悔するくらい非常に面白いかつ勉強になる本だったので、整理すると言う意味合いとして、ここに記録を残そうと思う。

まずこの本は、なんで人間に暇ができたのか、というところである。それは人間が狩猟民族だったところまで遡る。

もともと人間は狩猟民族であり、そこでは後のことを考えず、ものを食べる・捨てるなどの浪費をしていた。また、移動を絶えずしていたため、新しい発見に出会うことが多かった。しかし、定住型に暮らしが変わったことによって、暇が出てくることになる。

そして、農業などどんどん産業が一気に広がり、貴族や労働者が生まれるまで行った。
このころの貴族、つまり有閑階級は暇を生きる術を知っていたが、逆に労働者は絶えず働かなければならず暇を持っていなかった。
そして後にできる資本主義は、逆に労働者を休ませるが生産の効率化に繋がることがわかり(この本ではフォードを例にしている)労働者に余暇を与えることにした。
ここで労働階級は暇を生きる術を持っていなかったために退屈が出てきたのである。

ここに目をつけたのが、消費社会。むしろフォードなどは余暇を与えることで車を買い、遊ぼうと促す。そうすることでフォードの労働者をも消費者として捉えている。また消費とはものを記号として扱う。そして、消費社会はものの過剰ではなく、希少性が大事と考えるためものがありすぎると思いきやものがなさすぎる状況なのである。

退屈には2つの要素があると筆者は言っている。
一つは「引き止め」
ちょっと私もこれを噛み砕くのに時間がかかったが、時間がぐずく事で引き止められていることをいう。
ちょっとこれは説明が大変そうなので(笑)置いておく。

もう一つは「空虚放置」
退屈すぎると。虚しい状態に放って置かれることになる。それを空虚放置を言っている。

そして退屈には3つの段階があるとも言っている。

第一形式では、何かによって退屈させられうこと。
空虚放置は満たされることの欠如であった。単に物が言うことを聞かないということである。
例えば、電車の待ち時間が4時間もあり、その時間の間退屈になる。それを時間の引き止めといい、その間に空虚放置の状態になる。

第二形式では、何かに際して退屈すること。時間が私たちを放任している。単純に空虚が満たされぬままになっていることではなくて、空虚がここで自らを作り上げ、現れ出てくる。外界が空虚であるのではなくて、自分が空虚になる。
つまり時間はあるが、時間がある中で何をすれば良いか分からず気晴らしをしている状態である。
私たちがよく経験しているのは、第二形式の方。気晴らしと区別できない退屈である。
ハイデッガーは、友人の食事会の時がこの状態だったという。時間もたくさんあるし、友人と話したり、タバコをしているので何かをしているが、何か楽しくない。自分が空虚になっている状態である。

第三形式 なんとなく退屈
ハイデッガーの言うように、日々の仕事の奴隷になっているからこそ、なんとなく退屈だ、と言う声を聴き続けることなのである。これは自身が退屈だともうわかり、どうすればいいのかと思っている状態である。


第三の形式の退屈があるからこそ、第一の退屈を感じる。なぜなら、第一の退屈は日常の仕事をしたいにも関わらず、時間を無駄にしたくないからである。つまり日々の生活の奴隷になっているからこそ、第一形式の退屈を感じる。もしそこから自由になったら電車の時間も退屈になることはない。本当に恐ろしいのは、なんとなく退屈だという声を聞き続けることであるため、その声から逃げるために私たちは日常の奴隷になる。つまり、第一形式は第三形式から至るものである。
第二形式は、そもそも第三形式のなんとなく退屈を払いのけるために考案されたもの(気晴らし)である。

ハイテッガーは、そこから抜け出すためには自由が必要だという。そして、どう実現するかについて、決断をする必要があると言っているのだ。でも、結局決断をすると、何かをすることに縛られるため、結局第一形式に戻るのではないか、と著者は言っている。

じゃあどうすれば良いのか。結論は3つある。

1つ目は、この本を読むことを通じて新たな発見を得たり、それぞれ理解していく過程を大事にするということだという。読むことで退屈への捉え方を考えることである。(これは、実際本を読んでもらうのが大事な部分である)

2つ目は、
そして、基本的に人間は第二形式の、時間には縛られていないが、気晴らしで退屈をやり過ごしていることが多い。具体的には消費社会で、欲しいものを広告や製品のモデルチェンジなどで常につくらされられる環境。そこから、出るためには、贅沢を取り戻すこと。それはものを楽しむこと、衣食住を楽しむことである。
ここは、理解するのが難しいがつまりは消費社会の中にはまらないということだと私は解釈する。


そして、3つ目は、自分の世界を常に壊し、再創造していくことである。
ここで環世界の話が出てくる。
まさかこの本でいきなり環世界の話が出るとは、とびっくりしたが(私は環世界の話がとても好きという個人的考えがある)非常にこの部分が理にかなっていて面白い。


動物も人間もそれぞれ環世界を持っている。その世界に即した捉え方、生き方をしているが、人間特有の能力として、いろんな環世界を移動できることがある。
例えば、いつもいる環世界に何度も酔いが衝撃、何か今までの考えを変えなければいけないものが入ってきて自分の環世界が崩れる。ただ、人間は慣れようとする傾向があるため、慣れてしまうとまた環世界の中に収まってしまう。
退屈をなくすには、何かをしなければいけない、という奴隷にならず、考え続け、環世界を移動していくことといえる。


特に2つ目の、贅沢をするということについては私がベルリンに行ったことで肌で感じる部分である。
というのも、ベルリンの人は物を買わない。女性なら化粧もあまりしないし、スカート・ヒールも履かない。基本ジーパンだという状況だ。また製品もモデルチェンジが高い頻度で行われているとしても買わないであろう。また、仕事も生きていくための手段としてやっているだけで、できるだけ仕事の時間を増やさないよう行なっているようなイメージがある。
これは、日本の消費社会とは驚くほど違うし、それこそ暇の使い方を知っているような感じがする。
逆に日本に帰ってくると、広告の量に疲弊する。どこもかしこも広告で、常に何かを買え買え言われているような気がする。もちろん経済が回るという意味では良いかもしれない。しかし、何か欲しいものを見つけるためにショッピングに行き、それを買うためにあくせく働く。そして、休日は、はたまた雑誌や広告で特集されていた場所に皆こぞっていくという...日本は恐るべき消費社会の奴隷になっていることがわかる。

では、そこから抜け出すためには「考えること」であるが、なかなか考えるというのは気合がいると思う。というのも日本の教育は答えを見つけることであったため、考えることはあまり訓練されていないのではないと思ってしまう。逆にドイツの人はディベートを小さい頃から学校でやっているため、なんでそうなるのか、割と考えを求められる。そういう意味で、もしかしたら暇を扱う力があるのかもしれない。

ただ、今コロナが流行っている状況、つまり今までの環世界が不法侵入者によって壊されている状況である。そうなった今が、この本に沿うとチャンスなのかもしれない。今まで当たり前だと思っていたこと、欲しいものを求めに街に出る、暇をつくらないために労働の奴隷になる、などができないからこそ、違う環世界にいく事ができる。(今の話はある程度仕事をしてお金をもらい平均的な生活をしていることが前提の話である)
そして私もこの本を読もうとなったのも、家から出れない状況になったからこそこの分厚い本を読んでみるか...という気になったのかもしれない。そしてで私は今まで持っていた環世界からまた違う環世界に行くことになるかもしれない。

だからこそ今、この本を読み感動し、他の人にも勧めたいと思う。