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【読書記録】「文化人類学の思考法」から考えるtwitter


この本の初めは、そもそも自然の状態は何かということについてから始まる。また、自然を人間の生活から分離した手付かずの実体ではなく、人間と他種との具体的なやりとり・交渉の場と捉えることでたとえ私生活の中でも自然はいると筆者はいう。

文化人類学は私のイメージとしては、民族や未開拓の地に赴き、現地の人の暮らしなどを観察することだとふわっと認識していた。

少し、これだと偏見が入っている言い方かもしれない。ただ、その現地の人と近代化した街?、他の地域の人と比較したりしながら、文化の成り立ちや考え方の違いを見るものだと思っている。

また、興味深かった部分として、戦争がなんで生まれるのか、また戦争の加担から逃れるため方法についての部分だ。

コミュニタス論を書いたターナーは安定していた社会秩序が崩れた状況をリミナリティ(境界性)と呼び、注目する。
そこでは、普段は危険なもの、怪しいものとして遠ざけられていた行為や存在が聖性を帯び、上下関係や属性による違いを超えて人と人、人と物がつかの間に結びつくコミュニタス(反構造)が現れる。山口はここに、既存の社会秩序を転倒し、新たな秩序をもたらす生成力を見出し。社会が活性化していく動態を描き出していく。


この文を読んで、思い浮かんだのが宗教である。
ただ、宗教というのは、誰かまたは何かを信じるということから起きている。
そう考えた時に、いまで言う、フェイクニュースでコロナで納豆が良い、根拠がないながらも信じて買う行為はなんなのか気になる。これも、コロナという社会秩序が崩れた状況から普通はおかしいと思うものでも信じようとしてしまう心理が働いている。

そして、インターネットが普及してから初めて起きる世界最大にして共通の危機が迫っている今だからこそ、より反構造が生まれていくと思う。それが、良い方向に行くか、悪い方向に行くのかはわからない。

そして、戦争から逃れるための一つの方法は持続する日常性のモラルによってその実現が阻まれるも言っている。これも、コロナの件である意味話題となった部分だと言える。

少し話が逸れるかもしれないが、糸井重里は日常の中での変革を狙った活動をしているのでは、という話が先日読んだ「遅いインターネット」という本の中であった。これに通じて、先日コロナについて呟いたtwitterの文でも、あまり政治に関わる話をしようとしないところを気をつけているように思える。だが、それが逆に炎上する騒ぎとなったと思える。そう考えると、日常を保つことで、秩序を保つよう自分から変えていくことは難しい。

そもそも、私は日常を保つことで、秩序が崩れた状態を戻すことは難しいと考える。というよりも、そもそも安倍政権が社会秩序を崩していき、コロナでそれがくっきりと多くの人がわかるくらい明確になったからこそ、むしろ行動しなければと思う。


今、ノンポリ意見やあえて政治の話をする場合ではないと言っているひともいる。その人の意見もわかるが、むしろ今言わないとコロナが収束してから改めて意見をいうなんて、非常に難しい。今までの政権の問題を見てても、森友問題もリアルタイムでも、解決しなかったのに今改めて行うこと、続けることの大変さはニュースやネットで見ても非常にわかる。

結論を言ってしまうが、筆者はアクティビストであるグレーバーの言葉を借りて以下のように言っている。

「グレーバーは、既存の社会に対して、人々の多様な意見を排除しない会話が重視される。人々がより開かれた対話の技法を模索する姿を描く
重要なのは、デモが生み出すコミュニタスに一体化できない人々の存在を、常に気にかけることだ。それは。市民社会というものが様々な分裂を内側に含みながら存在していると考えることでもある。」

つまりは、自分の生き方や考えを中心的に考えずに、まずはその人の言っていることに耳を傾けて見ることが必要だということだと私は受け取っている。

これは一番初めに記載した、違った暮らしをしている人の様子を観察し、耳を傾けることが重要だと言っていることに戻るのではないだろうか。その意味でtwitterはあまり好きでない部分もあるが、全員一様に同じ重さで意見が言えるプラットフォームであると感じた。

ただ、そのプラットフォームで、建設的な話をできるかどうかは自分たちの知識の差になるので、また違う話になるのかもしれない。。。

という呟きの記録でした。