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カップクイーン(2021年3月10日)

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今日のサビアンシンボルは、魚座20度「夕食のために用意されたテーブル」です。9日17:45頃20度に入ります。

この度数はダ・ヴィンチの最後の晩餐を思い出します。最後の晩餐は、キリストが処刑される前夜、十二使徒と共に摂った夕食のことですが、最後の晩餐とは呼ばず、機密制定の晩餐と呼ぶことがあるそうです。wikiにこうありました。

「晩餐」はイエスの復活後にも弟子達とともに行われていたほか、現在に至るまで聖体礼儀として教会に継承されており、本項で述べる晩餐は「最後の」ものではなかったからだとする。また、正教会では「機密制定の晩餐」のイコンをイコノスタシスの王門の上におく規定がある[1]。日本聖書協会による新共同訳聖書では、該当する聖書の記述箇所に「主の晩餐」との見出しがつけられている。

キリストはエーテル体に復活し、エーテル体のキリストを知覚できる弟子たちと共に、現在に至るまで晩餐は行われているということです。エーテル体のキリストを認識できなければ、キリストの言葉を受け取ることも理解することもできません。晩餐においてキリストは、テーブルを同じにする人を限定せず、解放しています。そもそもエーテル体とはそういうもので、誰の中にもあり、どこにでもあり、物質化する前のものであり、物質の裏側にあるものです。

最後の晩餐は、肉体に張り付いて生きる人からすれば最後で、エーテル体で生きる人からすると、時間も空間も越えていつでも出席できるものです。同席する人を選ばず、解放された領域で、わかる人だけがわかり、伝えられます。

個人性のないエーテル体では、意志を主張し、自我を強調し、誰かに言葉で伝える必要はありません。この度数には、すぐれた知識や知恵を、特別な人間が特別な人にだけ伝えようなどという発想はありません。乙女座の力を吸収した魚座は、個人性にしがみつかずとも、恒星に存在の根拠を置き、地上との接点を持つことができます。

自分が作り出したひらめきの流れは、個人が所有できるものでないことに気がつき、どんな知恵も知識も有限で、ただそれに辿り着くことができ、その通路になることができたに過ぎません。

特定の分野において、自身の考えを公表している人が、他者によって真似をされたり取り上げられたとき、盗まれたと考える人を時々見かけますが、個人が何かを生み出すことはできず、集合意識にあるものは誰でも掘り出すことができるので、同時に同じことをひらめく人たちがいることは当たり前のことです。ただ、その人が辿り着いたものでなければ、最後の晩餐ですが。

今日のカードはカップクイーン。クイーンは木の中腹にいて、地上に下りてくることはありません。キングとナイトを繋ぐ意識なので、ナイトはキングの意志を、クイーンを通して受け取ります。

キリストが12使徒と夕食を共にしたように、キングを12人のクイーンが取り囲み、クイーンを12人のナイトが取り囲みます。キリストは地上ではなく木の中腹で食べ物を用意し、登ってきた人にだけ席を用意します。地上に足を着けている人には、この夕食会が見えず、気がつくこともないでしょう。

カップは果てしなく結合していくので、カップクイーンは抵抗することなく誰でも受け入れます。中心にいて意志を打ち出すというより、気を通して、エーテル成分を通して伝えられます。夢の中で食べる行為は、そのエーテル成分を取り込み一体となるということです。

カップクイーンに個人性はありません。個人性を維持するには、すべてを否定し、逃げ続けなければなりません。隠者のようにすべにイエスと言う姿勢は、本質的自己で生きているから可能であり、すべてにイエスと言うことで本質的自己を取り戻すことができます。

カップクイーンは、否定するものもなければ、逃げる必要もなく、すべてに繋がります。筒抜けです。川の流れのように流れ続けるカップクイーンは遍在化し、来るものを拒まず、来るものを飲み込み、場合によっては身ぐるみを剥がします。

魚座20度は、個人性を捨て、個人にこだわらず放任主義ですが、水の元素の果てしない結合力のように、言葉による伝達よりも強制力があるかもしれません。キリストが見えたということは、キリストとの間に用事があり、見た瞬間に飲み込まれ、意思疎通が生まれています。必要なものは必要な人に届き、必要なものはやって来ます。ただ個人性が働くと、それはできなくなるでしょう。

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