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名前の哲学、あるいは偶然性と同一性をめぐる「同名論」のはじめに。

同じ名前がある。ただ同じ名前で生きている人がいた。たまたま同じ名前で生きている人と人が出会った。
田中宏和は田中宏和と出会い、田中宏和と田中宏和は集まった。

ここに猫がいる。そこに猫がいる。あそこに猫がいる。
ここの猫とそこの猫とあそこの猫は違う猫だ。
ここの猫とそこの猫とあそこの猫をそれぞれ名づけて呼んでみる。
一般名詞から固有名詞が生まれる。
では、固有名詞と固有名詞と固有名詞が同じだったら。
ここの猫とそこの猫とあそこの猫は同じ猫になる。

「田中宏和」という名前。
生まれた時に「田中宏和」と名づけられた。自分で選んだわけじゃない。
以来、「タナカ」「ヒロカズ」「タナカヒロカズ」と呼ばれ続けることになる。
しばらくして、自分の名前が「たなかひろかず」という文字で表されていたことを知る。
ようやく人に読めるくらいに自分で「たなかひろかず」と書けるようになった。
さらに「田中宏和」という漢字で表されていることも知る。
ようやく人に読めるくらいに自分で「田中宏和」と書けるようになった。
学校や病院や図書館や電話口で「タナカヒロカズさん」と呼ばれ、
なんども「田中宏和」と書きつけてきた。
いつかしら「田中宏和」という名前は自分のものだと思うようになっていた。

ある時、田中宏和は、「田中宏和」を知る。
「田中宏和」は、田中宏和の並行世界、パラレルワールドをかいま見る。
ひょっとしたら「自分がそうであったかもしれない田中宏和」を体験する。田中宏和は、「田中宏和」を通して反実仮想を夢想する。

ふと、田中宏和は、「田中宏和」と会う。
「田中宏和」という名前が「田中宏和」としての働きを休止する。
「田中宏和」という名前は自分のものではなかったのだ。
これまで自分は「田中宏和」という名前を借りて生きてきただけだったのだ。
すると名前から切り離された、何でも無い「じぶん」という存在が世の中に漂いだす。
名無しの権兵衛として、この世にもう一度生まれ落ちる「じぶん」。ここの猫とそこの猫とあそこの猫と「じぶん」。

いまや名前はもう無い。
誰からも名前を知られず、呼びかけられることもない存在になること。
それは、この現実にあって漂泊する旅行者になること。
「いま、ここ」が、「いま、ここ」でなくなり、さまよいだすテレポーテーション。
同姓同名の出会いであるがゆえの幽体離脱現象。

さらに、田中宏和は、「田中宏和」と集う。
田中宏和と田中宏和と田中宏和と、が集まる。
「田中宏和」という名前のもとに生きてきた連帯感。
たまたまを同じくする他人事ではない親しみが湧き上がる。
ここに「田中宏和」という擬似親族が生まれる。

自分の他人が自分であって自分でない。
他人が自分であって自分は他人でない。

「自分」とは「自らの本分」で「自分」。
「自分」とは「自ら分ける」から「自分」。
「分ける」ことは、大事。
「分ける」を過ぎると、「分からなく」なる。

この今、ダイバーシティ&インクルージョンの時代に、
金子みすゞの詩から「みんなちがって、みんないい」が引用され、喧伝される。
「みんな」を「分ける」から、その先を問いたい。

先達への敬意を払いながら、
あえて、もう1行加える。

みんなちがって、みんないい
たまたまおなじで、それもいい

吾輩は「田中宏和」である。名前だけがある。


※「実在論」から「唯名論」のつぎとしての「同名論」の序として記す。


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