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抱えきれない「可愛い」をもらったときは

12月は私の誕生日月だ。また一年無事に年を重ねられたことに感謝する一方で、精神が20歳くらいのときから(いや18くらいか)変わっていないことに、ぶるぶると膝が震え始めている。

何事もないように穏やかな表情を浮かべてみるけれど「私が子どもの頃に想像していた大人はもっと大人っぽかった!」と叫び出したくてしょうがない。この精神と年齢とのギャップはきっと一生埋まらないのかもしれない。

さて、大人になると誰かから誕生日プレゼントをいただく機会はぐんと減る。そもそも誕生日すら知られていない・知っていない場合が多いと思う。仕事先で出会った人の誕生日を知る機会はなかなかないし、友人とも少しずつ疎遠になっていく。SNSに記載があってタイミングよく知るか、誕生日にまつわる話をして知る、自己申告で知る……などで知っていくのだろうか。

機会が少ないからこそ、ただ「おめでとう」と言ってもらえるだけで嬉しい。“覚えてもらえる”は、とても贅沢なことだと年々感じるようになった。さらに誕生日プレゼントまでいただいてしまうと、もう胸がいっぱいになりすぎてしまう!

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今年も幸せなことに何人かに覚えてもらえていた私は、胸をいっぱいにしながら感謝の返事を打っていた。忙しいのに「おめでとう」と打ってくれる友人に、家族に、心がじんわりと温かくなっていく。優しいなあ、みんな。ポチポチと返事を打っていると、姉から連絡がきた。

<青紗に誕生日プレゼントを送りたいんやけど、いつ家におる?>

文面を見たとき「え!プレゼント送ってくれるの!?」と全私が感動した。急いで家にいる日を送ると<OK!>と返事がきて、<あまり青紗が買わなそうな可愛いやつ入れとくね>と書いてあり、精神20歳の私が踊り出した。

姉からお土産や姪っ子(現在5歳)の手紙を送ってもらうことはあるけれど、いつしか姉↔︎私の間では誕生日プレゼントを送り合うことはほとんどしなくなっていた。家族からプレゼントをもらうなんて久しぶりで、ワクワクしながらその時を待った。

そして届いたのが、この子たちである。

か、可愛い……!!!

包みの中には、パンどろぼうのティッシュケースと、スタンドクリップ、シナモロールのハンカチ、姉&姪からの手紙、折り紙で作ったシナモロールの顔、ポムポムプリンの顔が入っていた。

やだ可愛い……!!!

立体のパンどろぼうとパン付き

というのも、私は可愛いキャラクターものが大好き。特にここ1年ほどはパンどろぼうにハマっている。ちなみに、パンどろぼうは美味しいパンを探し求める大どろぼうである。

ただ、好きとはいえ多くグッズは買わない。買うときはいつも厳選して迎えるようにしている。パンどろぼうに関しても巾着とシール、ガチャガチャを数回やったくらいしかグッズを持っていなかった。

まさかパンどろぼうのグッズを送ってくれるとは。しかもティッシュケースとは。私は入れ替えるのが面倒くさいという理由で自室ではティッシュケースを使っていなかった。しかもこのようなキャラクターもののティッシュケースはキャラ好きの心をくすぐるが、「あまり使わないかな〜」「インテリア的に〜」と思い、慎重派の私にとってはなかなか手が出せないアイテムだった。

姉の手紙を読む。

<絶対青紗が買わなそうなやつにしてみたよ>

思わず笑ってしまう。うん、これは大きく予想を裏切ってくれた。

後ろ
ふわふわの生地
イオンで見つけてくれたそうです
何挟もうかな

ティッシュケースも、スタンドクリップも可愛いけれど、私では買わないアイテムである。ただ、想像以上の可愛さと、絶妙なデザイン性が好みにハマり、プレゼントとしてはものすごくありがたかった。黄色のカラーも木製の家具が多い私の部屋の中でいいアクセントになっている。嬉しい。ありがとう。

ハンカチはサンリオのシナモロールだった。

遠いお空の雲の上で生まれた、白いこいぬの男のコ

ここでふと疑問が浮かぶ。

私はサンリオではポムポムプリンが好きである。これは昔から家族内で周知されていることで、私=シナモロールというイメージは全くない。なぜシナモロールなのだろうと首を傾げた。

姉の手紙を読み進める。

<ハンカチは〇〇(姪の名前)が選びました。選ぶときに「青紗はポムポムプリンが好きやで」と何回か伝えたんやけど「あーちゃんはこれなの」と言ってシナモロールを手放しませんでした>

この文章を読んだとき、私の母性が爆発した。

ハンカチは姪っ子が選んでくれたの???

私の、ために……???

無条件に可愛い姪が私のために何かをしてくれたことが可愛すぎて嬉しすぎて。ここで私の中にある「可愛さバケツ」の水の量が倍になる。シナモロールのハンカチという選択も可愛さバケツの加水ポイントへ。手紙を書いてくれたこと、折り紙を折ってくれたことなど、準備してくれている姿を想像しただけで愛おしく、水がどんどん増えていく。

姪が書いてくれた手紙を開く。大きな字で「しなもろおるのたおるつかってね」と書いてあった。ひらがなが上手くなっていること、サンリオのレターセットを使っているところが、トドメを刺すかのようにドバドバと水を加えていく。

なぜ頑なにシナモロールだったのかは気になるけれど、そんなことを吹き飛ばすくらいの「可愛い」が私に溜まる。

一旦「可愛いッ!」と家の中で一人叫んでみた。しかし水は溢れて止まらない。

も、もうこれ以上は抱えきれないわ!

可愛さと嬉しさに興奮した私は姉にビデオ電話をかけてお礼を伝えた。姉はニコニコしながら「喜んでもらえて良かったー」と言った。

姪と話をしたときに「なんでシナモロール選んでくれたの?」と聞いてみたけれど、可愛さバケツを抱えきれなくなっていた私は、姪と話せただけで幸せになり、姪がなんと答えたのか、嬉しすぎて全ての記憶が飛んでしまい覚えていなかった。不覚。一生の謎として大切に使おうと思う。

ちなみに、プレゼントを全て並べて写真を撮ってみると、女子児童の机の上みたいになった。私の精神年齢が高まることはあるのだろうか。

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抱えきれない可愛さをもらったとき、いつもどのように対処しようか考える。

人間誰しも感情や気持ちを受け止める器があると思う。でも何かの拍子でその器がいっぱいになり溢れ出したとき、私たちはどのように溢れ出した水を止めたらいいのだろう。

例えば好きな芸能人に初めて会ったときや、グッズで推しを神引きしたとき。嬉しくて興奮して、この尊さをどう表現したらいいのか分からないことはないだろうか。同じような感情の友人がすぐ近くにいたら、「マジでやばいよね!!??」と共有できるかもしれない。けれど誰もいないと消化不良を起こしてしまう。頭を抱えて「くそう……可愛いなあ!」としか言えない。

例えばあまりの怒りで震えたとき。私は地団駄を踏んでしまうかもしれない。踏んだところで何も変わらないのに、体内で溜まった感情をどうにか外に出したいともがく。でもそれは“良い出し方”なのだろうか。

良い感情も悪い感情も、溜まりすぎたときに我慢しすぎず上手く出していけたらいいなと思う。

特に「可愛い」気持ちの場合は、対象物を抱きしめたり、言葉にして伝えたりすると解消できる気もする。例えば子どもやペットが可愛いければ、ぎゅっと抱きしめる。だけど今の私の場合は、ティッシュケースやハンカチを抱きしめることしかできない(それはちょっと怖い)可愛さによってキュン死しそうな私は、どう呼吸をしたらいいのか。

そこで、ちょうどいいと思ったのが「書くこと」だった。

不思議なことに、ここまで書いているうちに、私のバケツの水は元の水位に戻っていた。特に何かを抱きしめてもいないし、地団駄を踏んではいないのに、可愛いと思った出来事を書いて、聞いてくれよ〜と伝えているうちに、気持ちが消化されたのだ。書くとはまさにデトックスのようだ。

もちろん、誰かを傷つけそうな内容は自分だけが見るノートに書くのがいいけれど、「可愛い」や「嬉しい」「寂しい」が溢れそうなときは、思いっきり書いてシェアしていいと思う。自分が落ち着けるだけではなく、同じような人と出会えるかもしれないし、可愛いが伝播して誰かをほっこりさせるかもしれない。

特別言うことじゃないものの、ちょっと聞いてほしい可愛い話はきっと誰にでもあると思うのだ。そういう小さな可愛い話を蔑ろにせずに、どんどん書いていきたい。私もビデオ電話で散々話したはずなのに、まだ「可愛い」と言いたくて、ここまで書いてやっとスッキリできた。

抱えきれなくなったら、書いて出していこう。パンどろぼうのティッシュケースとハンカチ、姪が可愛いと思いっきり書けて満足した私より。

最後まで読んでいただきありがとうございます!短編小説、エッセイを主に書いています。また遊びにきてください♪