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西村博之「論破力」読書感想文

論破はしたい。
もっと、論破力を身につけたい。
そう思って読んでみた。
すると著者は、論破はしないほうが身のためという。

実生活では、論破力は諸刃の剣。
取扱注意。
その場で相手をやり込めたところで、実は意味がない。

副作用のほうが大きい場合もある。
あくまでも、人生うまくいくことが目的。
相手を変えるより自分を変えるほうが簡単。
論破力はあくまで手段・・・と著者は冷めている。


『ひろゆきの処世術』というサブタイトルがあってもいい

著者の西村博之は、いわゆる “ ひろゆき ” である。
もちろん誰なのか、何をしてるのか、また何をしてきた人なのかも知っている。

娑婆にいるときは、ネットで動画を見たこともあって、雰囲気も知っている。

ただ、この檻の中ではネットが一切ない。
目にすることがなく、最近はよく知らないという状況。

で、どうせ人を喰ったような内容だろと思ったら、けっこう周囲に気を遣っている。
突飛もないようでいて緻密であって、ふざけているようで案外とまとも。

『ひろゆきの処世術』というサブタイトルがあってもいい。

新書|2018年発刊|199ページ|朝日新聞出版

すべてが実体験からきている本

何度も読み返しても、その度に、なにかしら使える小技を発見するだろうなという感触がある。

実際の体験から書かれているので、例えが具体的。
中学のときに先生に対してだったり、仕事の営業でだったり、上役に対してだったり、ミーティングのときだったり、テレビの討論番組だったりなど。

それらが、肩の力を抜いた話し言葉で書かれていている。
自然体で笑えもする。

こういうタイトルの本にありがちな、アメリカの学者の研究とか法則とか、アメリカの心理学者の説だとか論だとかいうパターンが1行たりともないのがいい。

正邪はともかくとして、凝縮されている重力があって、いちいち納得がある。

自分の論破力の総点検をしたい

自身の論破力の再確認をしてみたい。
読んでいるうちに、そう思えてきた。
以下、反省文も兼ねて、ダメな論破を書き出してみた。


対等の立場でない論破はよくない

意見は言わずに、事実を言う。
事実に対抗するのは、すごく難しい。
主観や思い込みや印象で議論はしない。

事実を集めるには、条件をつけて範囲を狭める。
範囲を広げると集めずらい。

事実ベースで話すことを意識するだけで、誰でも論破力を高めることができる。

・・・ 以上のように、西村博之は論破力を述べていく。
きっと、そうなのだろう。

感じたのは、議論というのも、論破というのも、お互いに対等な立場で成立するということだった。

自分が論破したと思ったのは、とても対等ではなかった。

たびたび論破する必要があったのは、歌舞伎町で店をやっていたときになる。

おそらく誤解があるけど、歌舞伎町の生活者というのは、以外と品行方正な人がほとんど。

「歌舞伎町だ!」と勇んで外部から来る人が問題を起こす。
こっちは真面目にやっていても、なんかどうか巻き込まれる側となる。

そんなときは、やっぱり論破しないといけない。


勢いだけで論破するのもよくない

論破力とは、説得力がある話し方。
その説得力をどう高めるかは、直接の相手でなくて、やりとりを見聞きしている周りの人に対して高めていくもの。

勝ち負けを明らかにするのは、本人たちではない。
ジャッジがいて、はじめて勝ちが確立する。

・・・ 以上のように、西村博之は述べる。
それはよくわかる。

とはいっても、2人きりで言い争ったとしても、勝ち負けは明らかにしなければならないときもある。

ジャッジらしい者がいないときも、勝ち負けは明らかにしなければならないときもある。

気分が乗らないときだって、疲れているときだって、店長として論破しなければならないときもある。

そんなときは、もう “ 勢い ” しかない。

あるとき店員がきて、料金トラブルだという。
「なんとかしてください!」というものだから「お客さん!」と店に姿を見せたときがある。

自分は、苛立っていたのだと思う。
すったもんだって重なるものだから、鼻息を荒くしていたのだろうけど、決して粗暴な素振りなどしてない。

普段は温厚な自分だった。
「現代のブッダ」といわれたこともある。
1回だけど。

とにかくも、ドアを開けたそのとき。
お客さんは「ひゃあぁっっ!」と小さく叫んだ。
生まれてはじめて「ひゃあぁっっ!」という人間の生の声を聞いた。

そして同時に、彼は、斜め後ろにピョンッと飛び上がった。その空中で、足がパタンと正座に格納された。
それがスローモーションで見えた。

そのまま、お客さんは床に着地して謝ってきた。
料金トラブルを、1秒で論破できたのだ。

客商売としては失敗だった。


落としどころがない論破もよくない

口のうまさというのは、一定のレベルを超えると、だいたい同じ。
それ以上は、そうも変わらない。

「必ず」「絶対」は禁句。
「明らかに」と強調するのも禁句。
それらは、たったひとつの “ 例外 ” で崩される。

「~と思う」「けっこう」「だいたい」「たぶん」は有効。
否定できないから逃げ道を作れる。

あとは、電話を鳴らさせて、議論を打ち切るのも有効だ。

・・・ 西村博之は、様々なテクニックを伝授する。
実践できるテクニックばかりだ。

たしかに電話などは、議論に使える小道具だ。
かといって、電話は電話でも、110番されるのはマズい。

はじめて110番されたときだ。
料金トラブルがあったあとだった。
その客は、歌舞伎町交番に直行して、お巡りさんを連れて戻ってきたのだ。

けど、そんな悪どいことはやってないし、こちらに落ち度もないので、お巡りさんの立会いで論破して解決した。

これが失敗だった。
そのあとに、知らないところで、客が110番してる。
腹いせだろう。

すぐに新宿警察署から店へ電話がきたのは、ちゃんと届出をしているからだった。
対応していた店員が、なんか警察みたいですと受話器を手渡してきた。

「はい、お電話かわりました」
「オラァァ!ふざけたことしてんじゃねぇぞ!オゥ!」
「え」
「オゥ、テメェ!ナニやってんだ、ゴラァァ!」
「と、申しますと・・・」

すごい巻き舌の怒声。
さんざんと怒鳴られたあとに、やっと110番されたとわかって、今から新宿警察署まで説明に来いとなる。

論破すべきじゃなかったのだ。
それよりも “ 落としどころ ” というのが必要なのだ。

新宿警察署に向かいながら、ため息が出た。


警察沙汰の論破もよくない

好奇心を持って議論すると強くなる。
自分の知らない事実や、想像もできない考え方を知る。

相手のモチベーションも見抜いてみる。
たいていの人は「ポジショントーク」をしている。
自分を有利にしたいという動機があって、他人を説得しようとしている。
そこを理解する。

・・・ と、西村博之は案外とまともだ。
そうだ、相手のことも考えて論破しなくてはいけない。

けど、時と場と状況による。

そんなときは、相手の想像などしてられない。
理由もきかずに、問答無用がいいときだってある。

あれは、はじめて取り立てに向かったときだった。
そうしなければいけない状況があった。
借用書もあった。
裁判などやってられない。

本当に気分が乗らなかった。
夜になったころの郊外の住宅街を歩いた。
夕飯の匂いがする。
どこかの家からは、小さな子供の騒ぐ声が聞こえる。
気が滅入ってきた。

自分は、なにをやってるのだろう?
なんのために商売をやっているのか?

幸せなんてことはいわない。
全員がなんてこともいわない。
『生きててよかった』と、店の皆だけは言えるようにしたいだけなのにと、気を抜くと泣けてくるようだった。

いったんは、駅前のしなびたラーメン屋に戻って、コップ酒を飲んで、また向かった。

結局、金は取り立てた。
大声を出して、わざと110番させるのだ。
騒いでいるうちにパトカーがきた。

夜の住宅街の赤色灯ってのは、歌舞伎町の赤色灯とはちがってえらくキレイだった。

警察には、借用書を見せれば民事不介入の姿勢をとる。
逆に「よく話し合ってください」と相手も説得してくれる。

警察を呼んでも無駄だとわかった相手は、支払いに応じたのだった。

これは、正確には論破したというよりも “ 観念させる ” ということかもしれない。


相手を怒らせる論破はよくない

好き嫌いの問題には答えがないから議論しない。
でも、理由を考えるのは有益。

好き嫌いは、偉い人のいう通りにする。
議論をしてもしょうがない。

相手のアラや弱点を突いて怒らせる。
そうすると説得力が落ちる。

・・・ と西村博之は小技を説く。
たしかに、怒らせるというのも重要だ。
怒ると本音がでる。

しかし、安易に怒らせないほうがいいときもある。
ずいぶんと前に、失敗して土下座したことがある。

年上の子持ちの女性だった。
彼女と「つき合おう!」となるまで頑張ったのは、離婚して間もなくて、元夫から慰謝料が入るとチラと耳にしたからだった。

ところが、アテが外れた。
慰謝料は入らなかったのだ。

若かった自分は、安易に理不尽に別れ話を切り出して、怒ったところを揚げ足取りをすると、彼女は泣いてキッチンに飛び込んだ。

すると、包丁を取り出して身構えたのだ。
フ~フ~と肩で息をして、泣いて顔面をぐちゃぐちゃにして、目を激怒でグリグリさせている。

『殺される!』と飛び上がったあとは、空中で腰が抜けたらしくて、そのまま床に倒れこんでからは立ち上がれずに、必死の土下座しかできなかった。
金玉の裏が緩んで、オシッコだって漏れかけた。

女性が包丁を向けるのは、ちゃんと話をきいてほしいから。
刺すつもりはない。
落ち着いて話し合えば、大事にはならない。

そう理解できるのは、もう何年もして大人になってから。
2人目に包丁を向けられて土下座してから。

さらに何年も経って3人目の包丁ともなると、キッチンに飛び込まれるタイミングもわかってくるようになっている。
驚いて飛び上がることもない。

腰も抜かさない。
余裕も保ったままで「刺せば?」とノーガードでいられる。

女性が包丁を向けて身構える姿は、凶暴というよりも、純度が高い情愛のひとつの形態であるのかもしれない。

なんでかというと、今度は「死んでやる!」と包丁の刃先は反対に本人へと向かってしまったからだった。
話も聞いてくれない、脅しも効かない、となると死の抗議も辞さないのだ。

「論破力」の感想

難しいところだ。
実生活での論破は、必ず勝たないといけない。
論破した果てには利得があったり、危機の回避ができたり、事を有利に運んだりできなければいけない。

だから、立場という力学を利用したり、名目を掲げたり、非をあげつらったりする。
伏線は打っておいて安全圏は確保しておく。

よくよくの論破だったら、情で寄せたり、泣き落としもするし、勢いで押し切るときもある。

でもやはり、論破など必要がない生活のほうがいい。
檻の中に入ってから、そのように気がつかされた苦い読書となってしまった。



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