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沢木耕太郎「無名」読書感想文

題名の “ 無名 ” は沢木耕太郎の父親を指す。
その89歳の父親が、脳出血で倒れて入院。
それから死去して、しばらくまでを書いたもの。

大変な読書家の父親で、引っ越すときはトラック1杯分の本があったという。
沢木耕太郎が作家になったのは、その父親の影響が大きいことがよくわかる。

独特に感じてしまうのは親子関係。
お互いの会話は、敬語に近い丁寧な口調。

沢木耕太郎も、人から言われるまで普通だと思っていたというし、父親が穏やかな性格ということもあるのだろうけど、こんな関係もあるんだと少しの驚きもある。


きっかけ

初めて読む沢木耕太郎の本となる。
ノンフィクション作家で、独自の文体が面白いと聞いたことがあって、前々から読みたいとは思っていた。
が、官本にはこの「無名」しかなかった。

本は読んだことないけど、沢木耕太郎の声は知っていた。
FM局の J-WAVE で番組を持っていた。
毎年、12月25日の深夜にやっている。

radiko で流していたのを聞いただけで、なぜか、たまたま何年かおきに3回ほど聴いていた。

小さめの静かな話し方で、冗談もいうことなく淡々と話す。
ラジオ向きではないけど、クリスマスの深夜にはすごく合っていた。

で、えらく若い声だった。
その印象があって、まだ60歳ぐらいなのかなとうっすらと思っていたら、1947年生まれの、もう後期高齢者になるというのをこの本で知る。

単行本|2003年発刊|309ページ|幻冬舎

感想

てっきり、旅のノンフィクションだと思っていた。
いやなタイミングで、いやな本を読んでしまった。

とはいっても、沢木耕太郎は関係ない。
まったくの自分の都合。
読みながら、いやな気持ちが圧しかかってきた。

檻の中の自分はというと、両親と同居している身元引受人からの手紙が絶えていた。
5通送っても返信がないので、送るのをやめて2年が経つ。

父は亡くなったのかもしれない。
それを知らせないために、身元引受人は手紙を返信しない。
あの家の性格からすると、そんな予想ができた。

沢木耕太郎も、入院してから衰弱していく父親を前にして、後悔を書いている。

他人の話はよく聞いて本まで書いているのに、なんで父親の話を聞いたことがないのだろう。
かすかな罪悪感もある、とも明かしている。

※ 筆者註 ・・・ 手紙がこなかったのは、身元引受人に子供が生まれたからでした。勝手にそんなところに入っている人のことなんて構ってられないという、もっともな理由でした。受刑者になると悪いほう悪いほうへと考えてしまうのでした。父も存命でした。出所してからちゃんと話を聞いてます。そうさせた本でした。

ネタバレあらすじ

89歳の父親が倒れる

それは夏だった。
父が倒れたのだ。
脳出血だという。

89歳であり、万が一の覚悟もあった。
私と2人の姉は、交代で病院に泊り込んで看護をはじめた。

眠っている父の額に手を乗せる。
父の肌に触れるのは、何十年ぶりだった。

はっきりとした記憶はないが、たぶん幼いころに、手を引かれて歩いた以来のはずだった。

本を読み、酒を飲むだけの一生だった

父は、何事も成さなかった。
成功とは無縁だったし、中年を過ぎるまで定職というものを持ったことがなかった。

ただ本を読み、酒を飲むだけの一生だった。
そう言えなくもない。
無名の人の無名の人生だった。

父は、小成金の家に生まれた。
その父、私からいえば祖父は、通信機器の製造を手がけて成功した事業家だった。
今のニュー山王ホテルのあたりに、大きな工場があった。

会社は兄に譲れた。
弟である父には、白金の大きな家が譲れた。
が、一族は戦争で全てを失った。

終戦後には、父は英語が少しできたことから通訳などやっていたが、やがて無職になる。

小説を書いて懸賞金を得たいと、半年ほど書いていたこともあったという。
その間の生活は、すべて母が担った。

父は生活力がまったくなかった。
死ぬもの狂いでなにかをする、ということがなかった。

溶接が、父の半生を変えた

40歳を過ぎてからの父は、小さな鉄工所で働く。
雑役夫も兼ねた作業員のはずだったが、いつしか溶接の専門家になった。

溶接との出会いが、父の後半生を変えたといえる。
勤めた鉄工所が廃業するのをきっかけに、自分で溶接工場をすることになったからだ。

知り合いから借りた狭い場所で、1人で仕事をはじめた。
溶接というのは、父に合ったのだろう。
品質と納期を守ることから、仕事は絶えなかった。

バーナーから出る炎がいかに美しいか。
私は、何度も聞いたことがあった。

最初に感じた炎の美しさへの気持ちを、以降もずっと保ったままだったのだ。

父と2人で観にいった映画のこと

眠っている父の横顔を見ながら、ぼんやりと考えていた。
父と2人だけという行動が、今までどれくらいあったのか。

2人で凧をあげたことはある。
旅したことは・・・ない。
酒を飲んだことは・・・1回だけある。
女の話をしたことは・・・ない。
映画をみたことは・・・1回だけあるのだ。

5歳のころの記憶が甦った。
あのときの父は、今の私よりもずっと若い。
もしかしたら、親戚の家に借金をしにいった帰りだったかもしれない。

その映画は「遠い太鼓」という西部劇だった。
内容は覚えてない。

映画の前に、実際にあったボクシングの奇妙な試合が流されていたのは覚えている。

一方は戦意喪失しているのに、一方は追いかけ回して、リングの上をグルグル回るというおかしな試合だった。

そのシーンで思い出し笑いをしそうになると、眠っていると思っていた父が不意に言った。

「あれは面白かったなぁ」
「え?」
「ほら」
「なに?」

寝ぼけていると思ったがちがう。
楽しそうに笑っている。

「ほら、グルグル逃げ回って・・・」
「・・・」

その瞬間、鳥肌が立つ気がした。
眠っていたはずの父は、私とまったく同じことを思い出していたのだ。

父の思いはまた別のものだった

その晩、眠っていた父が、ふっと眼を開けて言った。
聞き取りにくかったが、さっきまでいた上の姉はどこにいったのか訊いている。

「自宅に帰りました」
「帰った?」

そう訊き返してしてから、しばらく考え、ようやく理解できたらしい。
意識が混濁することも増えてきていた。

「みんな、それぞれやってるんだよなぁ」
「ええ」

その言葉は哀しげに聞こえた。
私は胸が詰まった。

上の姉は苦労した。
が、父のせいにはしていなかった。

自分たちの今があるのも、世俗的には無力だが、真っ直ぐといってもいいほど純粋な父がいたからだ、という思いはあるのはわかる。

姉の気持ちを代弁するようなつもりで、私は言った。

「お父さんがいたから」
「いや、・・・なにもしなかった」
「・・・」
「・・・なにもできなかった」

以外に強い語調で言ってきた。
私は無言のまま、ただ父の顔を見つづけた。

私はもしかしたら、父を畏れていたのかもしれない。
もちろん、体力とか暴力ではない。
金とか権力とかでもない。
父は、そうしたものから、最も遠いところにある人だった。

文章を書くようになっても、父の知識を畏れていた。
世の中には、たとえ無名であっても、どこかにこのような人たちがいるのだと思うと、無邪気にはしゃぐわけにはいかなかった。

私がノンフィクションを書いたのは、知っている範囲のことしか書けないと思ったからかもしれない。

自宅で最後を迎えたい

1ヵ月すると、意識の混濁を繰り返すようになる。
目に見えて衰弱もしている。
医者の言には、あと2日か3日しか持たない、という含みが込められていた。

2人の姉の意見は割れた。
父が願うように、危険を承知で家に戻すか。
医者のいうように、このまま病院にいるか。

が、家に戻すことにした。
機器や用具の扱いのレクチャーを受けて、家の南側の窓にベッドを置き、そこに父は移った。

すると、目覚しく回復したのだ。
よくなる要素などないのに、医者が驚くほどだった。

電車がゆっくりホームから離れていく

父の容態が急変したのは、10日ほど経った朝だった。
義姉から電話があってからすぐに、仕事場の世田谷から電車に飛び乗って向かった。

途中で電車を乗り換えたときだ。
急いで階段を上がっていると、電車がゆっくりホームから離れていくのが見えた。
そのとき、父は死んだのかもしれない、と思った。

そのあと、妻に電話をかけた。
すると、さっき義姉から電話があったという。
間に合わなかったのだった。

葬式は草加の自宅で行った。
棺には、佐藤春夫の「田園の憂鬱」を入れた。
父が、いちばん好きな本だった。

隅田川へのノルスタジーが語られていた

父は、58歳のときに俳句をやりはじめた。
俳号は五十八、やそはちと読む。

65歳ころまでやっていたらしいが、やめていた。
それが1年ほど前から、また俳句を再開していたらしい。

私は父の句集を作ろうと、残された句の採否をする。
句集は完成して、父の縁故の方々に配る。

すると、以前の俳句仲間の方から、当時に参加していた句集が送られてきた。

そこには「墨田川」という父の随筆があった。
築地と隅田川への愛着が、ノルスタジックに語られていた。

ラスト2ページ

冬になっていた。
その日、私は築地を歩いた。
父が10歳まで生まれ育った町だ。

墨田川に挟まれた “ 小田原町 ” という旧地名は、今では消滅している。
そこには聖路加病院が建っている。

しばらく墨田川沿いを歩いて時間を過ごした。
父は歩くのが好きだったのを思い出した。
書斎などなかった父は、歩くときが楽しい時間だったのだ。

その思いを呼び起こしつつ、銀座4丁目に向かって歩きながら、いくつかの単語を頭の奥で転がしていた。

銀座三越の横にある地下鉄口の階段に差しかかる。
そのとき、それらの単語が、不意に575で定着した。

「なきがらの、ひげそるへやに、ゆきよふれ」

それは、父の句の記憶が作らせたものだったかもしれない。
ただ父の句は、すべての人に雪が降れとなっていた。

私の句のように、特定の誰かに向けて降れと命じている句とはちがう。
父の望みとは、ちょっとちがうようだ。

自分の死が特別に浄化されることなど、父は望みはしなかったはずだ。
父はただ、死を死として受け入れてくれる家族がいれば、それでよかった。

地下鉄口の階段の手前で立ち止まり、夕暮れどきの冬の空を見上げると、そこにはとうてい雪など降りそうもない透明な空があるだけだった。

それでよし。
私は父の代わりに、そうつぶやいた。

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