【書評】宇野常寛・濵野智史「希望論」
一方にジョージ・オーウェル的「ビッグ・ブラザー」の権力像を物語り以上に真に受ける人たちがいる。そしてもう一方には村上春樹によって描かれた「リトル・ピープル」のイメージを持つ人たちがいる。
現代は後者の像が拡張されているように見える。つまりオーウェルが示した国家イコール疑似人格的な権力観はもう過去のもので、いまは非人格的なシステムの自己増殖が見えない権力を生んでいるという説だ。リトル・ピープルはマルチ・チュードと同じだろうか?
資本主義はたしかに謎の多い運動体で、それをどうつかまえたらいいのかわからない。誰もが招待を掴めないでいる。だがどこかに影の支配者がいて策をこらしているのではという見当は外れというほどの知見はある。
ソーシャルメディアは希望たり得るかという問いかけがこの本の中心だ。著者たちによればインターネットはいままだ社会生活のメインの次元ではなく、サブの次元でしか使われていないとのこと。それも生産ではなく消費の領域に限られているそうだ。
「そうであっても、想像力が本質をつかみ出すと信じる」と著者たちは言う。
「まだ現実にはかたちづくられていないもののイメージを見せてくれるインターネットの技能に感心を寄せる。それを信じたい。統計やデータに現れないものこそが、本質をえぐり、未来を創る」
彼らはそう言う。「市場とデジタルネットワークの無意識の結晶たるサブカルチャーに、何かヒントがありはしないか」と。
早い話が、三〇年前にケータイをイメージできましたかと彼らは問う。物事は短いスパンで変わるもの。どこか遠くに輝かしいユートピアがあるというイメージは解体されるべき。それはその通りだと思うが。でもね。
希望論 2010年代の文化と社会 (NHKブックス) 単行本(ソフトカバー) – 2012/1/28
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