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硬直した仲介者

概念というものはなぜ、こうも硬直しやすく、変化を阻む障壁になりやすいのだろう、といつも思う。わかりやすく単純化されたつまらぬありきたりの意味をもった概念が、なぜここまで強固に人びとの思考を頑なにし、変わることを拒むネガティブな姿勢の基盤としての力を発揮するのか。
その意味で、わかりやすさって、まったくナンセンスだと思っている。

アレゴリーというもののもつ性質を理解することは、その概念の強固さを考える上で、ひとつの示唆を示してくれているように思う。

「ごく単純に言うと、アレゴリーは、あることを言って別のことを意味する」と『アレゴリー』の著者アンガス・フレッチャーは言う。
こういうひねくれた性格のものは僕の好みである。それは続く次のような文章でも同様だ。

アレゴリーは、われわれのことばは「言っていることを意味する」という言語に関する通常の期待を破壊する。

中世の人々は抽象的な事柄を理解するのに擬人化を好んだと言ったのは、『中世の秋』でのホイジンガだったが、この場合の擬人化もアレゴリーである。

日本語で言えば、寓意。
狐や蛇を用いて、狡猾を意味するようなものが典型だろう。目隠しをされて弓矢を手にする背中に羽を生やした男子は「愛」の寓意であるし、デューラーの有名な頰に手をつく天使に代表されるようや図像はメランコリー(憂鬱)の寓意画である。

わかりにくい抽象的なものを、人間にとってわかりやすい人の姿で表現する。つまり擬人化する。それがアレゴリーの典型的な例である。

仲介者としてのアレゴリー

ある意味を別のものを用いて表現するのがアレゴリーだとしたら、それはある意味、仲介者としての役割をもつものだと言える。

それもあって、フレッチャーはこう書いているのだろう。

コウルリッジはアレゴリーを、あたかもそれがつねに物語あるいは劇であり、それゆえつねに「仲介者」をもつものであるように扱った。多くの事例において、これは最良の仮説であるように思われる。

この「コウルリッジ」は18世紀末から19世紀のイギリス、ロマン派の詩人にして批評家であったサミュエル・コールリッジだ。
コールリッジはこう書いている。

それゆえわれわれは、アレゴリー的著述をひと組の仲介者とイメージの行使と定義しても大丈夫かもしれない。これらにはそれぞれ行為と随伴物が対応する。そしてそれは、それ自体は知覚の対象ではない道徳的特質と精神の諸概念のいずれか、あるいは他のイメージ、仲介者、行為、運命、状況を仮装のもとで伝達するためである。

と。

知覚されない道徳的な特質や精神を、仲介者的なイメージでもって仮装するのがアレゴリーである。コールリッジは多くの物語や劇そのものをアレゴリカルな仲介者と見た。

劇の中の登場人物たちはおよそ現実的な人間らしく振る舞わないときほど、アレゴリカルな機能をもつ仲介者としてある意味を伝える。

例えば、シェイクスピアの『オセロー』に登場するイアーゴーなどは典型的な悪人のアレゴリーだと言えるかもしれない。いや、悪人というよりは、悪そのものの擬人化であるがゆえに、人間らしさをことごとく欠いている。

イアーゴー ムーアの奴、早くもおれの毒が効きはじめている。邪推にはもともと毒がひそんでいる、そいつが始めは嫌な味がしない。しかし、ちょっとでも血の中に浸みこむと、たちまち硫黄の山のごとくに燃えあがるのだ。

アレゴリカル・ヒーロー

この擬人化こそが、アレゴリカルなヒーローにも当てはまると、フレッチャーは言う。

擬人化のもっと明白に人為的な技巧について言えることは、もっとまことしやかな仲介者であることがすぐにわかるアレゴリー的ヒーローにもあてはまる。中世においてオデュッセウスとアエネーアスとヘラクレスがキリスト教的知識と帝国的権力の理想を伝えるために表象として使われたとき、意味の深さは、あらゆる可変性を伴う人間の性格を含意するという前提はまったくなかった。アエネーアスはひたむきさの「典型」であり、それゆえ中世の釈義に役立つのである。

アエネーアスのようなアレゴリー的ヒーローは、個人がもつ多様で可変的な性格を反映するから、そのヒーローとしての役目を果たすのではなく、アエネーアスであれば「ひたむきさ」のような単純な典型であり続けることによって、その役割を果たす。つまり、それは擬人化されているとはいえ、人間的ではない抽象的な概念のままなのだ。抽象的な概念をその擬人化された人懐っこさによって仲介するのがアレゴリー的ヒーローだということになる。

だから、それは単純であるほうがわかりやすい。

彼のひたむきな行動は単線的解釈に順応するので、単線的解釈は読者ごとに異なるとしても、アエネーアスは運命を予定された仲介者であるという基準的概念からはけっしてそれることはなかった。

けっして「それない」仲介者である点で、ここで言及されたアエネーアスに類似するのは、『オセロー』におけるイアーゴーだろう。オセローに妻のあらぬ密通の罪を讒言し、彼を最終的には妻殺しの罪を犯すまで至らせるのがイアーゴーだ。彼はその間、けっしてブレることなく、オセローとその妻、そして周りの人々を何の呵責もなく不幸へと導くための悪事をひたすら遂行する。

アエネーアスもイアーゴー。一方がヒーローで、一方が悪の化身であるだけで、むしろ、対になるものでさえある。
この「それない」人為的な側面が、何か別の意味を担う仲介者としてのアレゴリーの役目にほかならない。それは、人間的な性質を欠いているがゆえにアレゴリーとしての表現機能を全うする。

「われわれはすでに主役たちはまるで取りつかれたかのように行動することを見た」とフレッチャーが言う、取りつかれた主役たちは、アエネーアスやイアーゴー同様、何が起ころうとその基本的性質を変化させることがない。
そして、それゆえにこそアレゴリーの機能を果たす。

このことは、程度の差こそあれ、宿命と個人の運命についての宇宙的概念を含意する。彼は途中まで人間的圏域と神的圏域の中間で、両圏域に接触しつつ行動する。このことは、彼が模範的なロマンスのヒーローとして利用できることを示唆する。ロマンスはそのヒーローに、人間的興味と神的力の両方を与えるからである。彼の本質的にエネルギーにあふれた性格は、純然たる力という外見で読者を楽しませるだろう。

擬人化された人の興味をひく外見と、本質にある神的で純然たる概念の力、その両方をあわせもつ仲介者。それが擬人化されたアレゴリーである。

ダイモンとしてのアレゴリー

フレッチャーはこのアレゴリーと、古代におけるダイモン、つまりのちのデーモンとの関係を考察する。

仲介者、一部人間で一部神であるダイモンは、異教古代においてもキリスト教古代においても、しばしば人間という種の守護神であると考えられた。人間ひとりひとりが守護天使、この場合はダイモンに導かれたものであった。

と、フレッチャーは言い、デーモンにつらなるダイモンがもとは人間一人ひとりの守護天使的な性質を持っていたことを明らかにする。

守護天使であるダイモンは、人間一人ひとりに内面から囁く声としてある。

ダイモンの「忠告」はきわめて権威があったので、人々は自分から進んでさからおうとはしなかったし、おそらくは自分のダイモンを疑問視しようとさえしなかっただろう。疑問視されることのない声、あるいは神託(ダイモンは神の意志の神託による開示の責任を負っていた)は、敬意と崇拝に値する完全さ以上のものをもっている。彼らは、人間の生活をこのうえなく微細な点に至るまで支配する力をもっている。

この内なるダイモン的なものが、アレゴリーの本質にあるのだとフレッチャーは考える。ダイモンが内なる守護天使的な役割から離れて、無数の神々の形をとるようになるローマの時代において、それはアレゴリー化する。

「ローマの宗教は小さな神々の数において、きわだった増加を示している。彼らはみな、厳密に言えばダイモンである」とフレッチャーは言う。

彼らは特定の機能を付与されているが、その多くは微細なもので、結果として、こっけいなほど過剰に統御されているように思われるほどである。ダイモンが人の目、髪、ナイフ、帽子、本、鏡を担当するとき、増殖分化は極限に達した。市民の日々の生活を統御するダイモン的仲介者の多さは、実際には宗教はもはや関与しておらず、宗教の地位が魔術、奇術、呪術、降神術、迷信に簒奪されたことを暗示する。このことがまさに、古代ローマの宗教にしばしば向けられた非難である。

守護天使であったダイモンが宗教的なものから、魔術や奇術、迷信など、より世俗的なものへと引き寄せられたとき、それは細分化されることで個々には単純化された機能をもつようになる。
細分化されることでダイモンの種類は増殖分化し、そのもともとの擬人化された外観をもったまま、内面としての声という機能も声により伝えるという形でなんとなく引き継いだまま、個別の概念を仲介する役割を保った。

ダイモンがこのようなアレゴリー的性質を帯びるとき、それが人を惑わすデーモン的なものへと変化していくであろうことも想像がつく。
そして、そのデーモン化したアレゴリーは、まさに冒頭に書いたような強固な概念として、人から正常な思考を奪い、頑なな考えによって、みずからに降りかかるものをそれがどんなに現実的なものであろうと否定する根拠を与えるフィルターとしても機能してしまうことを。

わかりやすいデーモンとしてのアレゴリー。この保守的な思考を司るアレゴリカルなヒーロー、硬直した概念の仲介者を倒さない限り、あらゆる変化は起こすことがむずかしい。

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