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どうして芸人の「ネタ」にはリメイク文化がないのか

今日はお笑いの話めっちゃします。

今でもたまに思い出すのが、2丁拳銃が1998年に出したネタ収録VHS「2丁拳銃ピストルズ」で、やすきよの漫才をリメイクカバーしたコントをやっていて、(たしか「ハチ」だったかな...実は観れてはいない)
それが今考えてもめちゃくちゃ新しいよな、ということ。

2021年お笑いブーム真っ只中の現在でも、お笑いで誰かのネタを「カバーする」って基本ない文化じゃないですか。
ライブのコーナー企画でお遊びで、みたいなのはあるけど、「ネタ」が独立して正式に継承されていくカルチャーがお笑いにはちょっと異常なくらいない。

歌舞伎でも、音楽でも、演劇でも、映画でも、そしてお笑いに比較的近しい落語でさえも「作品」のリメイクやカバーってあるのに、なんでお笑いだけ「作った人たちしかやれない」がこんなにも根強いのかと。

作った芸人が解散して「死んだ」ネタでまたいつか観たいと思うものはいっぱいあるし、もしもその文化がバリバリにまかり通っていったら
「20XX年の、◎★△が演じた◇※@のコントは本家とはまた違う味があるなぁ」とか、そういうことをいつまでもいつまでも、小うるさく語り合ったりできて楽しいじゃないですか。私はそういう日が来て欲しいのですよ。

芸人のネタって「発明」の要素が強くて、芸人自体が「パフォーマー」より「発明家」的価値で評価されてくことが多いから
(近年特にね。賞レースの弊害でもあると個人的には考えている)

「これはリスペクトを込めたリメイクです」と言って、芸人が「パフォーマー」の位置をとって、他人のネタをやったとしても、見る側が「トレース(複製)」の印象を受けて、拒絶反応を示してしまうということがあるのかもしれない。

たまに"男子中高生が売れてる芸人のネタを文化祭のステージとかで丸パクリで披露した”みたいな話って聞くじゃないですか。でも、それってそのエピソードそのものが「お寒い」とされてしまうし、当然、パフォーマンス自体も本家を越えていけない、みたいな課題もあるだろうし。

多分、細かく分析すれば、一般人が「クセがすごいんじゃ」と言ってしまうことについて、そういうムーブはあるけど、根底ではその行為はダサいと思われてる、みたいな、その辺の「笑い」に対する日本人(プロアマ問わず)の深層心理も影響しているのかなぁ、とか。

あとはもちろんそもそも論として、「作った芸人本人が、他人に演じられたくない」という思いを強く持っている、ということも当然考えられるでしょう。

......とは思うのだけど、でもやっぱ、落語でいう「大学の落研」とか、音楽でいう「軽音部の発表」とか、演劇でいう「演劇部のシェイクスピア」みたいな初心者が乱暴にカバーしても許される文化、他ジャンルにはあるもんね?芸人のネタだけが特別にタブー感あるよね。

でね、でね、でね、だからこそ「20年前」「2丁拳銃」「やすきよ」「漫才」「コント」リメイクしてるって、超バッチリのバランスで、かっこよかったんすよね。
「本家を越える・越えない」の軸で語れないやり方だし日本お笑い界のレジェンドを、当時大阪で人気絶頂の若手がリスペクトして”VHS作品にだけ”入れ込むという物語性も、ホント、絶妙だった。(何度も言うけど、観れてはない。あと、本当に遠い昔に何かでふたりがそう語っていたのだけどもはやソースがないのでちょっと自信なくなってきた)

まぁたとえばどうだろう。あえて名前を出すとすると、今普通に、ハナコが東京03の名作コントをリメイクしたとしても、なんか"「爆笑レッドカーペット」のおかわり”感ぬぐえないもんな……
どちらのコンビも素敵なのに、たぶん魅力が安っぽく割引されちゃうのではないかと思う。

「当て書き」が基本だから、という見方もあるけど、それは演劇とかにもある例だし。本当に謎です。

芸人のネタが「フリー素材」になる文化は生まれるのか

これは本当にお笑い芸人さんたち本人や、お笑い好きな人たちと話してみたいテーマ。

誰か考察してみてほしいです。


追伸:

「他人のネタを他の芸人がそのままカバーする」という事例をほぼ聞いたことがない、という話をしていますが、実は1件だけあります。

みんなのアンチこと「世界は数字で出来ている」にレポがあがっていた

「オードリーの漫才を台本そのままにレイザーラモンがコピーする(サトミツプロデュースで)」というものです。

これもライブは観れていませんが、でもやっぱこういうの最高なんだもん。やってほしいよなぁ。

http://sekasuu.com/blog-entry-3584.html

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