孤高なイマムーの最後
定年で退官する今村先生(イマムー)の最終講義を受けてきた。
私の母校である早稲田大学の社会科学部の教授であり、政治学を教えていた。
早稲田はどちらかというと反政権的な人が多いのだが、一貫して保守的な主張をしていて、学生と教員から「右翼」と一目置かれていた。
たくさんの先生の講義を受けたが、今は亡き安倍元総理を高く評価していたのは、イマムーくらいしか思い出せない。試験中に監督しながら真顔で産経新聞を読んでいた姿は、いつ思い出しても笑みがこみあげてくる。
イマムーの講義は、板書もしなければスクリーンで資料を映すこともしない、語りだけで進む。
いつも講義冒頭の30分くらい、講義と関係のない時事放談の時間があった。
大きな垂れ目、でっぷりとした体格。
口調が寄席芸人のようで、毒づきながらユーモラスに語るので「政治漫談」と勝手に楽しんでいた。
あまりに独特すぎて、教室はいつも閑散としていたし、お世辞にも人気講義ではなかった。学生の間では「単位が取れない」ともっぱら評判だった。
私はそんなイマムーの媚びない孤高の佇まいが好きで、一度もさぼらなかった。政治思想的に考えが相容れないところもありつつ、試験ではいつもいい評価をくれた。
たしかに右翼っぽいけど、全体主義者ではない。議会による自由で民主的な政治を、誰よりも愛していると思う。
その興味が向かった先が、民主主義の国・アメリカの政治であり、半世紀以上の学問人生をそこに捧げた。
最後の講義で、60年代以降のアメリカの大統領選における「代議員」と「予備選」システムをめぐる政党改革の歴史が、いかにしてトランプ大統領を生んだか、という考察を話した。
正直、浅学な私にはよく分からないところもあった。専門的すぎた。
そんな専門的な話を、学生に歩み寄るわけでもなく、突き放すわけでもなく、いつものようにゆったりとしたトーンで語るイマムーは、最後まで媚びない人だった。
昨今、「独学」がもてはやされているが、学問はそうはいかないはずである。
連綿と続く探究の営みを受け継いできたイマムーから、その一端を授けてもらう、この過程は教室でしか体得できない。
学問の世界からイマムーが去ることは、彼も有限の存在であり、その知的営為を後人に託さなければいけないという峻厳な現実と、それに応える人がいることがいる尊さ教えてくれた。教室は教え子でいっぱいだった。
「学問とは趣味道楽なんです」と語り、イマムーは最後の講義を終えた。
一瞬、目からこぼれそうなものを拭うしぐさを見せたとき、孤高なイマムーの内側にあふれている温かいものを感じ取ったのである。
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