バスでは最後部にしか座らない

医療系の研究施設で働いている。暮らしている場所は田舎だ。そのため車で通勤している。けれどもバス通勤の日もある。呑み会のある日だ。そんな日は朝も早く起きる必要がある。出社時間も早い。いつもなら車で座っている時間も、その日は立っていたりもする。

その日もバス通勤だった。家からバス停までは徒歩5分。ぎりぎりまで睡眠時間を延ばしていたので早歩きだ。実家暮らしなので、そこには古い知り合いも多い。仲の良い人ならいいのだが、微妙な関係性の知人なら会いたくはない。そのため顔も幾らか下向きだ。

バス停では行列が出来ていた。そう、ここは住宅地なのである。時間も時間だ。出勤者で溢れている。

そしてバスが来た。このバス停は始発の停留所から3つ目。まだまだ空いているはず。座らなくてもいいが、できることなら座りたい。落ち着かないからだ。

目的地の駅はバスの終点でもある。最後はかなりの混み具合になっているだろう。ぎゅうぎゅうは嫌なのだ。体力的なものは大丈夫なのだが、人との距離感が近すぎる。

僕はパーソナルスペースが広い。せめてぎゅうぎゅうでも人の位置が変わらなければいい。なぜだかわからないが、それならぎゅうぎゅうでも構わなかったりする。だから座りたいのだ。

だが座る位置にも拘りがある。最後列の窓際の端。そこが空いていれば座る。それ以外なら空いていても躊躇する。混雑することが分かっている場合なら、適当な席には絶対に座らない。

僕は若者だ。健康な男でもある。ハンデの在りそうな人が来たら席を譲る責務があるのだ。ハンデが無くても座りたい人がいれば退くのが紳士としての礼儀だろう。そもそも座っている僕の横で困られるのが一番嫌なのである。

けれども僕は会社でも認知されている”喋らない奴”だ。いつでもどこでも、人見知りは全開なのである。席は譲りたい。けれども勇気がいる。できれば「お席をどうぞ」「ありがとう」のやりとりを回避したいのだ。

「ありがとう」の返事が確実に来るのなら百歩譲ってまだいい。「だいじょうぶです」とか「けっこうです」な返事が来たらあたふたしてしまう。無視された日には最寄りの停留所で降りなくてはならない。そんなやりとりの可能性がわずかにでもあるなら、我慢して最初から立っている方がマシなのである。

バスの最後部はいい。端の席なら尚更だ。窓の外を眺めていれば、混雑している空間も忘れることができる。座りたくて困っている人に心揺さぶられることも無い。子供の頃、遠足でオロロロロした想い出の場所ではあるが、僕ももう大人だ。そんな気配は微塵もない。

ただこの場所に座れる条件はもう一つある。目的地が終点の場合だけだ。終点なら降りる際の「すみません、おります」の声掛けも必要ない。なんならぎりぎりまで座っていられる。混んでいたバスが空いていくのを後ろで眺めるのも好きなのだ。

バス通勤は大変だ。考えることが多すぎる。それに比べて車は楽だ。動くプライベート空間にはいつも助けられている。できればずっと車通勤がいい。住む場所も田舎の方が楽。なんならもっと田舎でも構わない。

僕の理想の暮らしってなんだろう。まだ分からないが、”車通勤”というワードは必ず入れたいのである。

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