原罪というか、罪がわからないまま、すでに罰を受けている。生きることが苦役。

キリスト教徒でもなければ、原罪について詳しいわけでもなく、ドストエフスキーの「罪と罰」を読んだこともないが、オレは生きていくことが罰のように感じている。

苦痛なのだ。
思考がなければいいのかもしれないけれど、思考を止めることができない。
感情がなければいいのかもしれないけれど、感情を止めることができない。

出来事に反応し、思考が現れ、感情が現れる。それがたとえポジティブであれ、ネガティブであれ、めんどくさいと感じ苦痛になる。

たぶんそこには未来がくっついている。
この先もしばらくは生きているであろう自分に立ち現れる、さまざまな思考や感情に翻弄される様を想うと、こんなこといつまで続くのだろうとめんどくさくなる。

これを罰といわずしてなんというのか。
この罰はまるで「シーシュポスの神話」でシーシュポスが神から受けた罰のようだ。巨大な岩を山頂まで上げるように命じられるが、あと少しのところで岩は底まで転がり落ちる。この苦行が永遠に繰り返される。

オレの場合はシーシュポスのように永遠ではなく、死ぬまでつづく程度で済むが、とはいえ受け入れ難い。

ここら辺のことは別で少し書いている。


意味のない人生を、それでも意味を求め生きるのか。
意味はないがそれを受け入れそれでも生きようとするのか。

オレはこの二つの狭間を生きつつも、どちらも生きることができずにいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?