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答えは どこにも載ってない

仏教で禅宗といえば座禅

そして、次に有名なのは禅問答
老師様が弟子に難問を与えるのだ

公案と呼ばれるその禅問答の種類の一つに
無門関(むもんかん)というものがある。

無門関は中国・南宋、杭州の護国仁王寺の住職だった無門慧開(むもんえかい)は、修行僧のために禅のテキストとして有名な「無門関」を書いた。
本は無門慧開禅師に師事したわが国の僧、心地覚心(後の法灯国師)によって持ち帰られたのだ。およそ800年前の出来事らしいので、鎌倉時代のこと。

その無門関についての本を、北鎌倉・円覚寺老師の横田老師が出版されたのだが、無門関の公案についてのエピソードをお話下さった際に、ワタシにも嗚呼という気付きが漸く下りたので、その難問とともに記録したい。


禅問答の答えは簡単ではない

人が木に登って、口に枝をくわえて、手も枝を握っていないし、脚も枝を踏んではいないというのです。
実際には不可能な話ですが、全く口だけで枝にぶら下がっているときです。そんな時に、木の下に人がいて、西来意を聞いてきました。
西来意とは、達磨大師が西のインドからはるばるやってきた意図は何かということです。
端的にいうと、禅とは何かという問いです。
下から人が、「和尚さん、禅の教えとはいったいどんなものですか」と聞かれたらどう答えるかという問いなのです。若し答えなければその人の問いかけに背くことになるし、答えれば木から落っこちていのちを失ってしまう。さあどうするかという詰問です。

臨済宗 円覚寺派 大本山 円覚寺 website
横田南嶺老師
2022.3.14 初めて聞いた禅の話 人の尊さ より

まぁ、禅問答の公案というものは簡単には答えが出せないもので、問題を出すお師匠様も答えをなかなかスッ!とは弟子に教えないものなのだよと、7年前くらいに座禅会に頻繁に参加していた時に教えて頂きました。

簡単にスマホやパソコンで調べたいことは、サッと数秒で解る今日に於いて、こんなに非合理的なことがあるのかと思われそうです。

当時から、ワタシには疑問がひとつありました。
禅問答でどうしても解らない、答えがでない時はどうしているのだろう?という点です。

円覚寺の横田老師が、この"枝にぶら下がる難問"のお話をして下さった際に、答えがなかなか出せない僧侶のエピソードが出てきました。とても勤勉で優秀な僧侶だそうですが、どうにもこうにも答えに辿り着かない。
もう降参だぁと、お師匠様へ答えを乞うたところ

『ワタシが教えてしまえば、それはワタシの答えであって貴方の答えにはならないですよ』

と言われてしまったそうです。

この答えが出せなかった僧侶は、今まで学んで蓄えてきた仏法についてのノートを全部、
画餅(がべい)は餓(う)えを充たさず!」
つまり、絵に画いた餅では腹はふくれない!と言って焼却してしまったそうです!

今でいう、ぶちギレ?!  & 断捨離ですね!
ちょっと笑ってしまいました。

はてさて、答えが解らないこの僧侶はお墓を守る墓守(はかもり)として掃除などに明け暮れることにしたそうです。

答えが永遠に解らない…という様なことも、人によっては有り得るのかなぁ?と私は首をかしげました。

自分の答えが出せるまで

このエピソードは、もちろん答えをゆくゆくは出せましたよ~という流れにはなるのですが…
ワタシが感銘を受けたのは答えが出ない時は、こぅ、大抵掃除やなんかに明け暮れる方がいいんです…という様なことを、横田老師が仰られた事なんですね。

ワタシが人生の中で難問という時にぶち当っていたのが今年でした。沢山の書物や、記事や、YouTube、ワークショップ、占い師に聞くことも有りましたが、心の中で『もう誰にも聞きたくない、ただの人間になって日々を暮らしてみよう』と思い、他人に何か答えを聞くのをパタリと辞めたのでした。
 
誰に何を言われたのでもないのです。
なんとなく自分で出してない答えというのは、何の責任も、何の重みもないし、自分のためにならないと思ったのです。

たまたま頂いたご縁で、あるお宅のお掃除や、お庭に有った古くなった枝の剪定や落ち葉の掃除、植物の植え替えなんかに明け暮れる日々を過ごすようになりました。

まだ初春の植物というのは枝だらけで、何の芽も出ておらず、枯れたような姿の枝や地面をアリンコや団子虫がせっせと這うだけでした。

ちゃんとこの植物達は
生きててくれてるかな?

お宅にお住まいの男性が、これはバラでね、これはブルーベリーでね…と枯れている植物を、指差ししながら、あれこれ説明してくださると、春になってキチンと芽吹いてくれますように! とお世話に力が入りました。

どんな書物を持ってても…と同じように、どんなに素敵な植物や作物を持っていても手入れをしなければ、何も実らないし咲かないのです。

人に勝手に植えられて、逃げることも出来ない植物達。
命途絶えるも繋ぐも、運良く何とかなる植物もあれば、そうではないものもあります。

暮らしの中にある単純な気付き

そんなことで、お坊さんじゃないか?と思うような事に春先は明け暮れていました。
あんなに視ていたオカルトYouTubeも、スピリチュアルYouTubeも見るのをほぼ辞めました。

庭師のやりそうなことは大概好きなので、時間があれば外にいて植物の世話をしたり、雨の日には仏像彫刻や木工制作に打ち込んでました。

去年、山のそばにある家に暮らした時に
落ち葉をほぉって置くと、危険な虫が棲みつくことがあると学んだので、山積みになっていた落ち葉をかき集めて捨てました。雑草を抜いて、元の植物に栄養が優先されるようにと願いました。


4月を半ばを少し過ぎる頃になると、紅葉の木には沢山の種がつきました。

『これは種でね、
  うまく行くと小さな紅葉が芽を出すんだよ』

そう教えてくれた、前の職場の先輩のことも思い出しました。気がついたら、沢山の人たちに教えて貰ったことばかりでした。何をして居られるかな?

去年、家を離れるときに小梨の盆栽をひとつ手放したのです。近くの盆栽してる酒屋のオジサンにお願いしました。あげたつもりだったのに、『近くに来たらお世話してるから様子を見に来てね』なんて言ってくださって。
じーんとしたものです。

お世話をしてると、時折ちゃんと一緒に様子をみてくれる人もいます。人間、ひとりで生きてくなんて出来ないんだよと言いますが本当にその通りです。

お花や野菜、果物ごとに育て方は皆違う。

当然のことですが、"野菜とか果物育てるって大変なのよ"と知ってた筈なことを、虫に葉を食われたり、些細なことで病気になる葉っぱに対応したりしながら、身を以て改めて気付かされるのです。

花が咲いた、実がなった!
たったそれだけの事かもしれませんが、何にもないところから、そこまでたどり着くまで毎日気にかけて世話をして…ようやく食物としてお花として収穫されるのです。何も知らない人にとっては、植物が生きてるというだけの事なのに、荒れ果てた庭が綺麗な庭になって様々な色を持っていくことを、とてつもなく幸せで嬉しいことに感じました。

それぞれ小さく輝くいのちが
尊いものだと気付かされたのです。

禅問答のこたえ

さて、最初にお話した枝を咥えてぶら下がってるだけの状態で、禅を問われたらどう教えて差し上げるか?の答えですが。。この問いでは、このような状況では何も出来ないということです。そのぶら下がってる有り様でしか、教えることが出来ないということが極論です。

人間、地位も名誉もお金も無くなってしまった時に、この様な木にクチだけでぶら下がった姿になるのです。

仕事も、肩書きも…病気になって身体の自由も失って、友達も家族も何もかも失ってしまったら、人の価値はなくなるのでしょうか? 

去年、祖父が亡くなった時に叔母がワタシに
"どんなときも親は、子供に生きていてほしいと願ってるんだよ" と話してました。 

お正月に、ワタシが面倒を起こした時に
"間違ってるよ"と怒ってくれてた人。
色んな話を去年からずーっとしてきましたが、物凄く怒られたので、もう嫌われたなぁ…と思って猛省しつつ、きっとこれは最後の会話なのかな… と酷く落胆しながら話してたら

ただ、生きていればいいんですよ

って言ってくれたんです。ガチガチの冷たい哲学者なのかと思ってたら、人間味溢れる人だったんですね。
こんな私でも生きていていいと言ってくれる。
ワタシはなにもしてないし、愚かな人間なのに。。
まるで仏のような慈悲を感じました。

禅問答の答えの解説では、どんな状態でも、いまここに生きてる命。そのものが尊いとうたってます。生きているそのままでいいとは耳にして来ましたが、心臓が拍動してくれてることや健康に生きてること。それだけで有難いのです。

自分から感じたこと、湧き出たことでなければ本当の気付き・理解とは言えない。

アレコレ難しいことを考えてるよりも、眈々と日々を生きる。そういう中に学びや気付きはこぼれ落ちているもので、周りの人や植物から既に教えて貰っていたのだな、そういうことだったのかと頷いたのです。

そんなこんなしつつ、粛々と彫っていた仏像がやっとこ出来上がりました。

仏像を半分は先生が彫りましたが、半分は自分で苦労しながら、先生のやり方を見ながら試行錯誤して彫り上げました。
9ヶ月前。これを彫りはじめた時に祖父が亡くなりました。待っていて欲しかったと、突然亡くなった祖父の亡骸を目の前にした日を思い出しました。

去年の今頃は、祖父と電話して身体に気をつけてねなんて話していたんです。犬猿の仲だったのに、晩年は祖父のほうが長電話したがって30分も話すこともあったなぁなんて思い出してました。

実はこの禅問答のお話を横田老師から伺ってる場に、彫ったばかりの仏像も連れていっていました。

素敵な日に、素晴らしい気付きが出来て幸せだなと思いました。長い長い冬がやっと終わったような気がした母の日の午後でした。

白衣観音様 


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