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インドネシア映画産業の歴史

 今や韓国映画は普通だし、インド映画もすっかりメジャーになりました。
他にもトルコやナイジェリアなど日本人があまり知らない映画大国はたくさんあるのですが、成長著しく今後伸びる可能性が高い国がインドネシアです。

今回はざっくり、インドネシアの映画産業の歴史をまとめます。インドネシアと言っても主にジャワ島中心の記述になりますので、ご注意ください。


1. 中国人が支配する初期の蘭領東インドの映画産業

インドネシアで初めて映画が持ち込まれたのはオランダ植民地時代の1900年代初頭のことです。
新たな都市のエンタメとして、中心都市バタヴィア(ジャカルタ)を始めとして各地に映画館が作られ、1930年代にはジャワには約250の映画館がありました。そこで上映されるのはおおよそハリウッド映画で、もっとも大きなシェア(65%)でした。ついで中国映画(12%)、フランス映画(4.8%)、ドイツ映画(3.4%)、イギリス映画(3.4%)、オランダ映画(3.1%)といった具合でした。
しばらく映画消費地域でしたが、地場の映画産業創設への動きが1920年代から見られます。初めてのジャワ制作の映画は1926年、「ロエトエン・カサロエン(Loetoeng Kasaroeng )」という名のファンタジー映画でした。これは若い女の子が魔術を使う猿に恋をしてしまうスンダ人の民話「ルトゥン・カサルン」がベースになっています。

しかしこの映画は俳優は現地人ではあったものの、監督はオランダ人で、スタッフも中国人でした。インドネシア純国産映画というわけではなく、当時は映画制作のノウハウは外国人の手に握られていました。

1930年代までにジャワの映画産業の支配勢力になったのが中国人です。中国は戦前から映画大国で、ノウハウを持った中国人はジャワ島にもやってきて映画制作ビジネスに携わりました。Nancing FilmやTan's Filmなど中国の映画産業はジャワに積極的に進出しました。
しかし1930年代半ば以降は大恐慌の影響で、利益率の低い現地の映画よりも低コストで高収益が見込めるハリウッドが好まれるようになり、映画生産は停滞します。オランダ人ジャーナリストのアルバート・バリンクは、ジャワ製の映画が興行的に成功をすることを証明するために、長男ネルソン、次男ジョシュア、三男オトニエルの王兄弟(Wang Brothers)と組みました。1920年代に上海の映画業界で成功した王兄弟は、1928年に蘭領東インドの映画産業に参入し、ここでも成功を収めていました。1937年にアルバート・バリンクと王兄弟が手がけた「テラン・ボレアン(Terang Boelan)」は、アメリカ映画「ジャングル・プリンセス」のローカライズ版で、商業的に成功を収めました。

この映画で一躍有名人となったのが主演を務めたロエキア(Roekiah)という女性。映画のヒットでアイドル的人気を獲得した彼女は、インドネシア初の映画スター・女性セレブと言われています。

Promotional picture of deceased actress / singer Roekiah, cropped from an advertisement for Matjan-brand sandals.

「テラン・ボレアン」の成功を受けて、1938年には「ファティマ(Fatima)」、1939年には「アラン・アラン(Alang-Alang)」という映画が立て続けに製作されて成功を収め、にわかにジャワの映画産業は活気付くことになります。
1940年に4つの新しいプロダクションハウスが設立され、演劇団に所属する人気の俳優や女優が映画産業に参入し、新しいファンを取り込むことに成功。1940年に14作品、1941年に30作品がリリースされました。

当時のジャワの映画撮影の施設は先進国と比べても非常に先進的でした。オランダが設立して1937年にユダヤ系オランダ人のモールが買収したムルティ・フィルム社には、エアコン完備の上映室、液温の自動調節装置、デブリー製の自動現像機など、当時の最先端の機材が備えられていました。
このような最新の設備は、太平洋戦争勃発後に蘭領東インドを占領した日本の映画関係者を驚かすことになります。

2. 日本軍政での映画のプロパガンダ化

太平洋戦争勃発後、蘭印作戦で蘭領東インドを勢力下に収めた日本軍は、 食糧・生活必需品・労働力の供給地としてジャワを重要視し、住民の積極的な戦争協力を求めました。しかし約2万の駐留兵と数千人の行政官のみで、約500万人もの住民を統括する必要から、住民の民心を掌握し自発的な協力を得るために、映画を活用した宣伝工作を大規模に展開することになりました。

占領と同時にジャワの映画会社は軍に接収され、日映と映配という2つの国策会社がジャワの映画界を牛耳ることになりました。
ジャワには日本から石本統吉、倉田文人、伊勢長之助といった優秀な映画監督や、カメラマン、現像要員が派遣され、「ジャワ・ニュース」という平均10分程度のニュースシリーズが作成され、毎月1本公開されました。ジャカルタは当時、本格的な映画設備が整っていた東南アジア唯一の都市だったため、南方各地で撮影した映像の編集や現像が行われていました。また、ニュース映像のみならず、10〜20分の文化的な短編映画も多く作られました。日映は隔週で1本ずつ映画を撮影していたので、その計算だと終戦までに57本が作られたことになります。

日本は国策として多額の資金を映画制作に注ぎ込み、優れた技術者による効率的な映画制作が行われました。彼らの下で働いたインドネシア人は、初期の頃は下働きをするだけでしたが、終戦間際にはノウハウを覚え、一部にはインドネシア人スタッフのみによって作られる作品も出てきました。
インドネシア人スタッフによって作られた作品の中で有名なものは、ラデン・アリフィンの脚本で1944年に制作された「南の願望」。これは西ジャワを舞台にサマン、アナン、アフマッドの3人の青年、サマンの美しい妹ハサナの物語。ハサナを巡る恋愛、友情、忠誠、愛国、忍耐が描かれています。

当時、啓民文化指導所で働き、後にインドネシア映画の父と称されるウスマル・イスマイルはこう語っています。

日本軍政期には、映画の内容についても、また映画制作の過程についても本当に新しい雰囲気が訪れた。日本時代になって初めて、人々は社会的コミュニケーションの手段としての映画の機能に気がついた。

効率的な仕事の進め方や撮影技術的のノウハウの獲得もそうですが、映画が政治的・社会的なメッセージを伝播させる強力なメディアであることを、インドネシアのスタッフはこの時に理解したのでした。

ウスマル・イスマイル

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