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なぜサンフランシスコは「ゲイの聖地」になったのか

近年、同性愛者のツーリストが世界の観光業界で注目を集めています。
同性愛者の休暇取得率は一般人より21%も高く(Guaracino,2007)、レズビアン雑誌Curveの調査によるとレズビアンの約30%が、年間の旅行支出は2000ドルを超えると答えたそうです。
アメリカ、オーストラリア、カナダ、スペインなどの観光先進国はこれら、可処分所得の高い同性愛者のツーリストが落とすお金、通称「ピンク・マネー」を取り込もうと、キャンペーンを展開したり様々な取り組みを始めています。
さて、そんな世界中の同性愛者の観光客に人気が高い都市は、なんといってもサンフランシスコです。サンフランシスコは同性愛者にとっては「カトリック教徒にとってのローマ」のような存在で、世界中の同性愛者がサンフランシスコに「巡礼」に赴くそうです。
なぜサンフランシスコが「ゲイの聖地」となったのかが今回のテーマです。


1. アメリカの同性愛の歴史 

アメリカ建国以降ずっと同性愛者は存在はしましたが、同性愛は「自然法に反する」とされ18世紀末から罪とされました。そのため同性愛者は地下に潜って秘密主義的なカルチャーを作っていました。
第二次世界大戦中、田舎や地方からたくさんの青年が工場や軍隊に集められ、同性のみで生活するにつれて同性愛に目覚める者がたくさん現れました。しかし戦時中、同性愛の行為を行ったものは軍法会議にかけられ罰せられたため、「同性愛は悪いものだ」という世間の風潮が高まることになりました。
実際に1970年代まで同性愛者を逮捕できる法律が連邦レベルで存在したし、女性は同性愛だと分かると親権を奪われる、というような厳しい弾圧が続いていました。

そんな世間の風潮の中で、同性愛者たちが唯一くつろげて自分をオープンにできる場所が、ゲイバーでした。ゲイバーはニューヨーク、サンフランシスコ、ニューオリンズなどの大都市に存在し、各地からの同性愛者を引きつけていました。
しかし当局の監視の目が光っていたためゲイバーは地下に潜って営業をせざるを得ず、店が目立たないように外壁もみすぼらしく、看板もなるべく目立たないように、外から中が見えないように窓は埋められました。さらに警官の取り締まりが入ると店内にベルが鳴り、客に「互いに近づかないように」警告するサービスまでありました。

場所は「夜間に異性愛者の人通りが少ない」工業地区や倉庫が選ばれ、また客は一晩で何件もハシゴをするため、店が狭い地区に集まって営業するようになりました。

 1969年6月28日未明、ニューヨークの人気ゲイバー「ストーンウォールイン」に警察のガサが入りました。店内にいた客たちは警察に拘束されましたが、逮捕に際し激しく抵抗しました。
逮捕から免れた客たちもその場を立ち去らず警察に罵声を浴びせたり、レンガなどを投げつけたり囚人輸送用車両を攻撃したり、反抗的な態度を取りました。この抵抗運動は数日続き、翌年には事件1周年を記念し大規模なパレードが行われるようになりました。

これが現在世界中に広がっている「プライド・パレード」の始まりです。

ストーンウォール事件は現在ではアメリカの同性愛者解放運動の幕開けと位置づけられており、実際にこれを期に様々な運動がスタートしていきます。
1960年代は反戦運動や公民権運動など様々な市民運動が盛んだった時代で、同性愛者解放運動もその中で同性愛憎悪を払拭しようと、自分たちのライフスタイルや志向を勇気を持って主張し始めた。

その結果、1973年にアメリカ精神医学会は同性愛を「精神疾病」のリストから削除し、同性愛者も公務員に就くことができるようになり、警察のガサ入れも緩和されていきました。

1970年代以降、ゲイバーは爆発的に普及し、1972年時点でアメリカの5万人以上の都市には必ずゲイバーがあり、大都市であればあるほどニーズに応えて細分化していきました。当時のゲイバーのタイプは大きく分けると9つ。

①若いゲイ向け
②中高年のゲイ向け
③レズビアン向け
④黒人ゲイ向け
⑤ダンシングバー
⑥男娼がいるバー
⑦会員制のゲイバー
⑧顧客が蝶ネクタイとジャケットを着るバー
⑨顧客がバイク乗りのレザージャケットを着て、時々サドマゾ的行為を行うゲイバー

地方や海外からやってきた同性愛者にとって、大都市であればあるほど自分好みのスタイルのゲイバーを見つけられたため、同性愛者のコミュニティも都市に濃く存在するようになっていきます。これらのコミュニティの中からはゲイバーだけでなく、小売店やレストランなどを経営する者も現れ、一種の「同性愛者街」のようなものが出来ていきました

次の章で詳しく説明するサンフランシスコは、このような同性愛コミュニティの形成に世界で一番先進的な街であります。

2. 多様な価値観に寛容な町サンフランシスコ

サンフランシスコはもともと、ゴールドラッシュの一攫千金を目指した者どもが集まって出来た街。フロンティアということもあり単身の男が多く女性の数が少なかったために、東海岸で一般的な固定概念は薄く社会的慣習に従わない男が集まりました。

1900年代はじめにはすでにゲイバーは存在し、現在のノースビーチ近隣地区の近くに何軒か営業していました。
禁酒法が廃止されてから、カリフォルニア州では州査定平準局(BOE)が酒類の流通と販売を管理しましたが、酒税の徴収を重要視したためにゲイバーを取り締まることはせず、それがため多くの起業家たちが参入していくつものゲイバーが営業を開始しました。
伝説的なゲイバー「ブラックキャットカフェ」や、レズビアン向けのバー「モナズ」が出来たのはこの頃です。

当時のサンフランシスコのゲイバーは単にゲイ同士の社交場というだけでなく、一般の人たちの間でも人気が高く、ゲイのオカマちゃんたちのショーが名物になっていました。サンフランシスコの観光ガイドブックもこうしたゲイバーを紹介し、観光名所になっていました。 

第二次世界大戦中、サンフランシスコは太平洋戦線の最重要拠点。海軍造船所がフル活動で軍艦や銃弾を生産し、また太平洋の島々に兵たちを送る乗船港でありました。

若い独身男性がたくさん集まり同性愛に目覚める者が大量に現れると同時に、戦時中に同性愛という理由で除隊させられた者が、不名誉すぎて郷里に帰れずにサンフランシスコに留まり、同じ境遇にある同性愛者とコミュニティを作るようになりました。

彼らはどうせ故郷に帰っても居場所がないと言って、新天地サンフランシスコで恋人や仲間たちと共に新たな人生を切り開いていこうとしたのでした。

3. 差別との闘い

Photo from  Diricia De Wet

第二次世界大戦後は伝統的な家父長的な秩序への回帰が叫ばれ、ゲイバーの取り締まりが一斉に厳しくなりました。 
全米のゲイバーは当局の圧力に屈してコソコソと隠れて運営を続け、大っぴらに存在をオープンにできるのはストーンウォール事件を待たねばなりませんでしたが、サンフランシスコの同性愛者たちは1950年代から運動を開始していました。

1949年、BOEが人気ゲイバー「ブラックキャット」を「同性愛者のたまり場」であるとして訴訟を起こし、酒類販売免許を停止する処分を下しました。これに対し、オーナーのソル・ストーメンは「決して同性愛者のたまり場ではない」と反論するも、サンフランシスコ警察の証言もあって免許を取り消されてしまいます。これに対し、ストーエンは弁護士のモリス・ロエンソールを雇って上告。一審ではBOEの決定が支持されたが、州最高裁でBOEの訴えは棄却され、ブラックキャットは逆転勝利を収めました

この判決を受けてBOEはゲイバーの摘発を止め、以降個性的なゲイバーがサンフランシスコに林立するようになっていき、「同性愛者にオープンなサンフランシスコ」に噂を聞きつけて全米から同性愛者が集まるようになったのです。

1959年のサンフランシスコ市長選に立候補したラッセル・ウォルデンは、前市長クリストファの無策によりサンフランシスコがゲイの温床と化した、と批判。結局クリストファは再選しますが、ゲイバーへの取り締まりを強化せざるを得なくなりました。
1961年「ゲイバーでわいせつ行為が行われている」として、ブラックキャットを含む12店のゲイバーが免許取り消し処分になってしまいました。

このような市当局の圧力に対し、ブラックキャットはカリスマ従業員でパフォーマーのホセ・サリアを市会議員に立候補させるという奇策に出ました

Photo from  "Remembered: San Francisco’s José Julio Sarria" The SEATLE LESBIAN

結局サリアは落選しますが33人の立候補者中の9位につけ市当局を驚かせ、いかに同性愛者の結束力が強いかを見せつけました。
その後ゲイバーのオーナーたちはSFTG(San Francisco Tavern Guild)という相互扶助組織を作り、市警の動向を共有したり、資金をつのって弁護士代を工面したり、失業した従業員が再雇用できるような制度を整えていきました。
また、酒類製造会社と良い関係を構築することで、特にビールメーカーは市警とゲイバーとの対決でゲイバーを支持する立場を取りました

さらには、同性愛に理解を示す政治家に政治献金をして関係を強化することで、無視できない「同性愛者票」が存在することを政治家達にアピールしました。

4. 強力な政治運動へ

Photo from Victorgrigas

カリフォルニア州やサンフランシスコの政治家達は、同性愛者の票を集めるために次第に同性愛者の要望を聞き入れるようになりました。
結果、サンフランシスコの同性愛者は他の州と異なり大きな政治力を手に入れ、とうとう1977年にオープン・ゲイであるハーヴェイ・ミルクが市議会議員に当選しました。

ハーヴェイ・ミルク
Photo by Daniel Nicoletta

ところが1978年11月27日、ミルクは「同性愛者を公職から追放する」法案を支持する保守派のダン・ホワイトという男に射殺されてしまいます。ダンには7年の禁錮刑という異例の軽い判決が下り、これに怒った同性愛者たちが市役所の前で暴動を起こし、パトカーに火を付けました
報復として市警はカストロ通りのゲイバーを襲撃し、ゲイバーの客と外にいた同性愛者に暴行を加えました。この結果、60人の警官と100人の同性愛者が重軽傷を負いました。

市長ファインスタインはサンフランシスコにおける同性愛者の政治パワーを認め、これまで以上に公職に積極的に登用する方針を固めたのでした。

1981年にサンフランシスコで初めてエイズが発見され、特にゲイ・コミュニティの中で多くの患者が見つかりました。当時、エイズの感染ルートははっきり認知されておらず、恐怖から人々は家に閉じこもり、ゲイのコミュニティがあるカストロ通りはシャッター通りと化してしまいました。
エイズ患者を救うため、1982年のボランティアの支援のもとでエイズに関する情報提供と募金活動が行われ始めました。
そんな中エイズ治療薬に関する汚職(一部政治家が製薬会社とグルになり、他社の認可を許可せず、不当利益を得ていた)が明るみに出ると、同性愛者のグループは団結し街角で抗議行動を行いました。1996年にエイズ患者の延命を可能にする治療法が登場されて以降、ようやく同性愛者の抗議行動は終結しました。

まとめ

 一連のボランティアと各同性愛者グループの団結の結果、サンフランシスコの同性愛者コミュニティは強固なものとなり、その先進的な取り組みならびに、行政と市民の両面から同性愛者に寛容な社会が生まれ、世界の同性愛コミュニティのモデルケースとなったのでした。こうした同性愛者に対して優しい街の雰囲気に惹かれ、アメリカのみならず世界中から同性愛者が集うようになっているというわけです。

そして、アメリカのマイノリティは「自分で力を持ってナンボ」ということがよく分かります。アメリカのゲイは強いゲイ。権力を持っているゲイなのです。 

参考文献

「チャイナタウン、ゲイバー、レザーサブカルチャー、ビート、そして街は観光の聖地となった: 「本物」が息づくサンフランシスコ近隣地区」 畢滔滔 白桃書房

参考サイト 

San Francisco - Wikipedia, the free encyclopedia

Pride parade - Wikipedia, the free encyclopedia

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