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『EUREKA』、「別のバス」はもう来ない


 すべてではない
 
 ユリイカ、この映画にはすべてがあると、まだ言うわけにはいかない。この映画はけっして完璧ではない。なぜならこの種の映画が完璧であるために不可欠な、いくつかの美質が欠けているように思われるからだ。例えばここには「退屈さ」がない、ここには愚鈍さがない、ここにはノベライズという蛇足がある…。しかし、それでも、ここにはすべてがあると言わなければならない。もしあなたが、ここにおいていまだ露わにならざるもの達の影を、声を、リズムを感じられるならば。


 そう、すべては潜在する。この作品の特殊な技法、クロマティックB&Wという(マクルーハン的に)クールな着色こそは、「もの」の潜在態を立ち上げるべく開発されたものでなければ何だろうか。この映像のもと、あらゆることはデジャヴュとジャメヴュの相互浸透するかのような薄明に宙吊りにされる。そして広大な駐車場に停泊するバス一台。バスジャック事件そのものの直接の連想よりは、このシーンがはらむ直観像的な予見性こそが重大なのだ。驚くべきことに映画は、あの5月に起きた事件(注:西鉄バスジャック事件)以上に正確に描かれた。そう、映画に描かれたとおり、犯人は窓を新聞紙で覆う予定だったのだが、現実にはうっかり失念されてしまったに違いない。もちろん、これは予言などではない。ここではむしろ、現実が虚構のつたない複製を演じていたのかもしれない。このような「想像的現実」の徹底化が、歴史の終わり以降に準備されていたとは。そして卓越した表現者の「現実的想像」が、それに遙かに先行すると言うこと。好むと好まざるとにかかわらず、われわれが生きようとする時代精神は、そのような方向へとゆっくり旋回をはじめたのではないか。


 インタヴューによれば、青山真治は映像を信じない。フレーム内のみに生起する現実を信じない。彼は主張する。現実はフレームの外に、あるいは視覚の外側に潜在し、それこそが「実感」であると。しかし、映像を自在に扱う能力は、けっして映像を信じなかったものにこそ与えられるべき特権に違いない。なぜなら映像の万能を信ずるものは、映像以外の場所で暴力を振るおうとするからだ。伊丹十三の悲劇の遠因を、彼がフレーム内の現実を完璧に構成しようとこだわり続けたことに求めるのは果たして見当違いであろうか。青山真治は賢明にも、映像への不信によってそのような暴力をあらかじめ免れている。


 それでは青山真治は何も信じないか。おそらくそうではないだろう。彼は映像を信じないかわりに批評言語の可能性を信じている。もしくは、信じようとしている。「もの」に対する「こと」、「リズム」に対する「グルーブ」、そして様式よりは形式化のほうを信ずること。批評性が創造の主要な源泉である表現領域を、かりに「ロック」と名づけるなら、青山真治の音楽的嗜好もまた、とうてい偶然では片付けられないはずだ。


 「ユリイカ」という作品が、結果的に人を癒してしまうことがあり得たとしても、その効能において批判することは正当ではない。あるいはまた、それが「トラウマ」を直接に扱っている点をとらえて、凡百のサイコミステリーと同列に扱うことも、あきらかに不当な振る舞いだ。青山真治は、ときに大衆性を恐れない。あるいは、紋切り型すれすれの低空飛行を恐れない。ロングの多用と演技の抑圧によって黒沢清が禁欲してきたもの(たとえば「俳優の内面」)すらも、無造作に作品に取り込んでいく。その蛮勇がこのような途方もない作品に結実したというのなら、われわれはまず素直に祝福すべきではないか。とりわけそれが、すぐれた批評意識と形式化のもとでなされつつある場合には。


 トラウマと「語ること」
 
 本来大衆的な表現には、およそトラウマが似合わない。そこには「トラウマが怪物(または英雄)を創造する」という退屈な反復があるに過ぎないからだ。もちろん映画も例外ではない。そのような想像的外傷は、たんに悪意と欲望の代替物に過ぎず、トラウマ本来のはらむ唯物論を限りなく遠ざけてしまう。


 それでも人はトラウマについて語り、トラウマの物語に耳を傾ける。とりわけ九〇年代以降顕著になったこうした身振りの起源を、やはり「大きな物語」の終焉に求めるべきなのだろうか。いずれにしても、自らの物語上の起源を必要とする人々が探り当てた新しい素材こそが、「トラウマ」という物語の最小単位だった。しかも、これら「小さな物語」は、きわめて投影が容易であったがために、あらゆる人々が自前のそれを欲した。かくして20世紀という、類い希な精神分析の世紀は、トラウマのハイパーインフレーションによって幕を閉じたのである。


 私は何も、トラウマを巡る物語がいまや無効であると言いたいわけではない。問題は常にその「語り方」なのだ。私はトラウマを扱う手つきにおいて、作家の倫理性がもっとも鋭く問われなければならないと考えている。しかしそれは、そもそもどのような倫理なのか。匿名のトラウマにすら払われるべき配慮とはいかなるものか。

 すでにそこには、いくつかの形式が存在する。トラウマをあたかも作家自身のそれと混同させつつ描くこと。トラウマ体験そのものの描写を慎重に回避し、その効果(=症状)のみを克明に描写すること。いずれにせよ、虚構の枠内でトラウマ体験とその結果としての症状を描くことは、すでにして至難の業なのだ。ところが青山は、これを臆面もなくやってのける。まず冒頭でバスジャック事件が簡潔に描かれ、その後日、生存者に何が起こったかも包み隠さず観客に知らされる。さらにわれわれは映画の後半部分がバスによる「再生への旅」であることすら知っている。驚くべきは、それを知ることが、この作品の受容にほとんど何の影響ももたらさないことだ。それはなぜか。


 青山真治が、どのようにしてか、トラウマの本質を適切にとらえているためである。つまり彼は、トラウマがコミュニケーションをどのように変質させていくかを、そのモチーフの中心においている。随所に配置されたコミュニケーション・ギャップが物語を駆動し、すれ違いがすれ違いのままに、最後のシーンへと収斂していく。ギャップが最後まで埋まっていないことは、この物語中、まったく転移が描かれていないことからも証明可能であるだろう。


 言語という他者を使用する限りにおいて、われわれは完璧な情報の伝達を断念することになる。言語は、それが常に文脈的なものをはらんでしまうという一点において、すでに正確さを犠牲にせざるを得なかった。ひとの健康さをはかるには、言語の不確実さに耐えられるか否かが一つの指標となるだろう。精神病や神経症においては、しばしば言語の正確さ、伝達の正確さ、言語そのものの物質性などがしばしば切迫したテーマとして前景化してくる。「ユリイカ」の見事さは、この点にきわめて繊細な配慮の視点をあてていることにもよるだろう。


 唐突に現れる加害者・利重剛は、彼自身もまたなんらかの被害者であることによって深く傷つき、あるいは病んでいる。なにかをほのめかしはするが、けっして意味にまでたどり着けない彼の言葉は、被害者にとっては外国語でしかない。警察からの電話に出た彼の「はい、もしもし」というセリフに戦慄しなかったひとには、かれの「外国語」は理解できないかもしれない。ともあれ要求も目的も明かされないまま犯人は射殺され、謎の言葉は謎のまま残響し続ける。そう、発端に置かれるものがまず、コミュニケーションの阻害とその効果であること。


 トラウマは表象できない。それはイメージの外部に置かれ、けっして直視できないが故に症状として何度も回帰する(言い換えれば、イメージ可能な状態にまで弱毒化することが「治療」となる)。そして、ここで最も重要なのは、トラウマが人間の言葉を変質させるということだ。被虐待児の一部が、言葉の万能性を信じ、まさにそれを信じるがゆえに、非言語的な行動化を繰り返す、といったことも含めて。そう、バスジャック事件後を生き残るということは、病理的な異言語を獲得させられる過程にほかならない。こうした異言語のさまざまなヴァリエーションが倫理的な繊細さにおいて描かれえたことで、「ユリイカ」の優位は決定的なものとなっている。


 言葉は常に真実と嘘のなかばを貫く。だから私たちは話すことが出来る。言葉という他者が自動的に私たちをどこかへ運んでくれること。それを私たちはコミュニケーションと呼びうるほどに楽観的だ。言葉が他者であること、例えば精神分析家はそんなことをさも当然のように断言するが、だれもそれを証明できたものは居ない。私はそれを命題としてではなく、一つの要求(「祈り」などとは決して呼ぶまい)として呟くだろう。今日も言葉が他者であって欲しい。なぜか。言葉が虚実の区分を私たちにもたらす他者でなかったら、私たちは言葉のもたらす災厄に脅えて、喋ることが出来なくなる。バベルにおける言語の混乱が、災厄よりはむしろ救済としてもたらされたとは考えられないか。


 例えば、主人公である沢井も発端から言葉を奪われる。生家の二階に寝そべり、そろえた両足を間欠的に床に叩きつけること、それだけが彼の「言葉」だ。バスの運転手として、釈明と謝罪以外の言葉を禁じられた状況下、沢井は耐えかねて遁走する。彼は「嘘がつけない病」に罹患してしまったのだ。その人柄から、もともとそうであった可能性もあるが、事件後にそうした傾向に拍車がかかる。じっさい彼の言動は、不必要なまでに誠実だ。まるで、常に何者かへの鎮魂を生きるかのように。時には事実に反してまで誠実であろうとする彼の言葉は、やはりバスジャック以降に獲得されたものではなかったか。


 そして田村兄妹。両親は世間の心ない噂に苦しめられ、平和な家庭はあっけなく崩壊してしまう。まだ幼い彼らの言葉は、沢井以上に過激な変質をこうむった。表向き言葉を発しなくなった彼らは、テレパシーのような内言語によってつながり合う。それは能力と言うよりは、やはり一つの障害態とみなされるべきだろう。テレパシーの直接性は、彼らを救うばかりではない。彼らもまた、言語の万能性に苦しめられることになるだろう。万能の言葉を獲得した兄妹の間に、もはや通常の距離は存在しない。彼らはともに在ることによって生存の方途を見いだしたのだが、そのさい獲得した過剰な距離の近さと、万能な私的言語の共有によって、そこから抜け出すことが出来なくなっている。彼らの存在はファンタジーそのものだが、それが些かも不自然にみえないのは、それが必然性のもとに採択されたファンタジーにほかならないからだ。この自在さ一つとっても、青山は、虚構におけるトラウマの語り方を十分に心得ている。


 沢井の帰還は、やはり周囲に波紋を呼び覚ます。それもまた、沢井の言語障害がもたらしたものだ。沢井は年の離れた兄とは必要最低限のことしか話さない。しかし沢井の「症状」は、彼を取り巻く自然に対して、ランプ点滅による挨拶をさせずにはおかない。そう、伝えるべき「意味」など、何一つ存在しないのだ。空っぽになってしまった沢井には、挨拶することしか出来ない。このため、女性事務員から寄せられた好意にも無頓着なままであり、さらに家まで彼女を送り届けたことがどのような誤解と噂を招くかも予測できない。自己愛と欲望を放下したはずの沢井は、しかしコミュニケーションにすら欲望を持ち得なかったことによって、手前勝手なナルシストのように誤解されてしまう。そしてここでも沢井は言い訳せず、再び遁走する。


 たどり着いたログハウスで田村兄妹との再開を果たし、そこにトラウマを共有するものの居心地の良い共同体が生まれるかに見える。子供たちのために生きること。しかしそこには、やはりコミュニケーションはない。対話することなく一方的になされる奉仕が、自己中心的振る舞いと紙一重、もしくはそのものであることにも、沢井は気付くことが出来ない。これもまた、彼らが言葉を奪われていることによる。秋彦という饒舌な闖入者が現れても、状況は変わらない。なぜなら、秋彦もまた、常に饒舌であるほかはないという、言語の病を抱えている被害者であるからだ。余談ながら秋彦の人物造形は、いじめ被害者の典型像として、ほとんど臨床的リアリティを獲得しており、ここには青山監督の実体験がなんらかの形で関与しているように思われてならない。


 それでは、沢井と妻はどうだろう。彼らの情感とほのめかしに満ちた会話は。そう、本作品中、もっともコミュニカティブなこのシーンは、ストーリーが大きく切り替わる転機でもある。どこまでもすれ違いながら、彼らの会話だけはこのうえなく見事に噛み合っている。沢井の言葉は、このときだけは健全な隠喩の力を取り戻し、はかないながらも微光を帯びる。そして皮肉にも、ようやく健全な言葉を回復したまさにその時点で、沢井夫婦の関係は終わるのだ。


 いずれにしても、この物語の特異性は、このようなコミュニケーション・ギャップの抽出法においてきわまっている。どれほど共同体から脱落した存在であろうとも、最後にすがるものは言葉でありコミュニケーションでしかない。その、最後の頼みが機能不全に陥ったときに、おおかたの悲劇が生起してくる。


 外出のための言葉

 そして沢井たちが抜け出したいと願っていたもの、それもまた世間という「言葉の円環」ではなかったか。人物たちは外出を願っている。どこから?そう、九州弁が話し合われる円環の内部から。しかし、その実現は困難を極める。なぜなら彼らは、バスジャック事件によって、すでに遙かな外出を果たしてしまっているからだ。トラウマとはまた、他者の手によって、暴力的に故郷を剥奪されることに他ならない。事件後に沢井が放浪へと赴き、あるいは兄妹の家族が崩壊する。それもまた故郷の喪失ではあるが、同時に彼らは、言語的にも追放を被ることになる。それゆえ、彼らが救われるためには、新たに二重の外出が必要となるのだ。


 この作品自体が『Helpless』の後日談であることを想起しておこう。青山みずからが語るように、それは父殺しの不可能性をめぐる作品だ。父殺しの不可能性とは、とりもなおさず、一種の開放系を意味している。殺すべき父親の不在は、主体の行為を律する超越的視線の不在を示すことになるだろう。この種の開放性が、とりもなおさず救いようのない閉塞感につながる構図を、私はこの作品に読みとった。「親分」の死を信じないやくざの欲望は、その場限りの小さな超越性を欲してやまない私達の欲望を正確に反映している。限りなく開けているがゆえの、どうしようもない(ルビ:helpless)閉塞感。それがポストモダンと呼ばれた状況の、この上なく見事な風刺にほかならず(「ポスト」も「プレ」も同じことだ)、私による『Helpless』の評価は、まさにその点において極まっている。


 ユリイカがその後日談であるということ。そこにポストモダン的閉塞をいかに抜け出すか、その回答が示唆されることを期待しても良かったはずだ。しかし、期待は裏切られる。そこではむしろ、より大きく、よりはっきりした閉塞の構図が描かれるからだ。言葉を、コミュニケーションを捨てようとした彼らの試みは、ナルシシズムや殺人といった、彼ら自身がもっとも嫌悪したであろう言葉となって回帰する。


 しかしそれでも、ここで示されたことを忘れずにおこう。閉塞からの外出を可能にするものがありうるとすれば、それは必ず言葉を介してである、ということを。言葉は、その場に居ながらにしての外出を可能にしてくれる。例えばそう、沢井の「ノック」。言葉がもたらすであろう災厄に過敏となった沢井は、代替的なコミュニケーション手段を開発する。ノックすること。それも二回だ。一度だけでは無視される。三度では意味が生じてしまう。ノックは厳密に、二回でなければならない。この青山/沢井の発見は、きわめて重要なものであるように思われる。言語の最小単位としてのノック。それが声ではなく、打撃音であるという可能性。言葉がもの化してしまった状況下で、わずかにコミュニケーションの曖昧さを確保してくれる手段。わずか2ビットの刺激によって、人為の温もりと受容の安堵を伝えうるということ。


 これに限らず、本作には、言葉と意味のフリーラジカルとでも言うべき発信の身振りが満ちている。「ポラロイド」もまた然り。秋彦にとっては時に相手を挑発し、攻撃するための手段だが、梢が沢井を写すシーンでは、カメラはまさに包括的受容のメッセージとして機能する。


 梢が、それぞれの名を呼びながら、貝殻を放り投げるシーン。私は映画において、これほど直截な精神分析の暗示に出会ったことがない。このとき少女の愛した者たちは、貝殻という移行対象の段階から、一挙に象徴化を遂げたのだ。少女の叫びにはすべて私が「Fort!」とルビを振ることにしよう。そう、フロイトが幼児の遊びに見出した、あの言語の端緒”Fort-Da”の片割れである。そして、まさにこのとき、われわれは知るだろう。たえまなく鳴り続ける沢井の咳、これこそが”Da!”の雷鳴にほかならなかったことを。われわれは常に「別のバス」を求めている。しかし、その全き不在に気づくことが、言葉の獲得にほかならない。別のバスはもうない、その呟きを合図として、われわれははじめて「外出」することが許される。
 この映画、この場面とともに新世紀を迎えること。次なる100年の映画と精神分析の関係にとって、これほど見事な祝福がありうるだろうか。


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