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やりたいことは、やればいい

小さくて大きな夢があった。

お茶の水と神保町のちょうど真ん中くらいにある編集部で働いていたことがある。30歳、大阪から東京へ引っ越してきたあとのことだ(この頃については、拙著『レシート探訪』にも少し書いた)。
近くには「山の上ホテル」があった。クラシックホテルのひとつであり、池波正太郎や川端康成をはじめ、名だたる文豪に愛された場所だ。お茶をしたり、愛嬌のある「山の上ホテル」という文字を見上げたりしては、いつしかそこに泊まってみたいと思うようになった。

泊まるだけの夢なら、ちょっと頑張ればすぐに叶えられる。それなのにわたしは、「自分の名前で本が出せたら」という、高いハードルをみずからこしらえてしまった。

コーヒーパーラーには何度も行った。天ぷらだって食べに行った。でも、宿泊はしてはいけない。勝手に神聖な場所となった山の上ホテルは、どこよりも近いのに、どこよりも遠い憧れのホテルになっていたのだった。

あれから10年以上が経ち、わたしは夢を叶えた。「自分の名前で本を出す」という夢を。

そう、わたしは山の上ホテルに泊まる権利を手に入れたのだ。

それなのに、もうひとりのわたしがささやき女将のように耳元で話しかけてくる。
「まだ重版もしていないんでしょ」
重版をしたら今度は、
「ほんとに売れてるの?実売数は?」

その不恰好なありさまについては先日書いた通りである。とにかく自分を認められない悪い癖のおかげで、わたしは「家族の予定も調整しないと」「いまは原稿があるし」などと、夢の実現を後回しにしていた。自分自身の意志で。

書籍の奥付には、7月4日発行とある。ホテルへの想いを抱きながらも、ずるずると夏が過ぎ風あざみ、陽水の曲に合わせてようやく秋の気配がやってきた10月下旬、思いがけない一報が飛び込んできた。
山の上ホテルが、老朽化により当面の間全館休業するというのだ。

休業期間は未定。そもそも竣工から80年を越すクラシックホテルだ。全館建替えもあり得るかもしれない。どのみち、いつまでも今のままというわけにはいかないだろう。

わたしはうろたえた。ああ、山の上ホテルがなくなってしまう。なくなりはしないけれど、わたしの知っている山の上ホテルではなくなってしまうかもしれない。

焦りながらも、休館は2月半ば。まだ猶予はある、と頭の隅っこで思っていたのだから、もう間抜け以外の何者でもない。

衝撃の発表から10日ほど経ったころだろうか。「やっぱり早く泊まりに行かなくちゃ……」と、ふとホームページを見たわたしは、パソコンの前で「ふぁー!」と声にならない声を上げた。

すべてのカレンダーに、バツ印がついている。どの部屋も、どのプランも、すべてしっかりとバツがついている。これは何の罰なのか、いやバツだ。しかし罰にしか見えない。

数ヶ月、わたしはなにをしていたのか。
10年以上温めていた夢を、自分の手で壊してしまった。そもそも、夢だって勝手に自分でつくりあげた目標でしかなく、泊まろうと思えばいつだって泊まれたはずだ。宿泊までのハードルも、その先も、制限をかけていたのは、ぜんぶ自分だ。

わたしは泣いた。パソコンの前で、さめざめと泣いた。ひとしきり泣くと、ひどい顔のまま、呪いのようなことばのLINEを夫に打ち続け、自分を責めて、世の中を、すべてのタイミングを恨み、そしてまた自分を責めた。

このときほど、「やりたいことはやらばならぬ」と、腹の底から実感したことはない。「やりたいことをやればいい」なんて、あちらこちらで言われている。そんなタイトルの本や記事を見ながら、どこか冷笑する自分がいたような気もする。
でも、だいたいにおいて「やったこと」の後悔はすぐに忘れるのに対し、「やらなかった後悔」は一生つきまとう。
わたしが山の上ホテルに泊まれなかったことは、もう笑い話にする気すらおきない。きっと怨念だけが後世まで残り、ホテルに向かう坂道では、ときおり「泊まりたかった…」という声が聞こえることになるだろう。このままでは怪談・山の上が爆誕してしまう。いい迷惑だ。

何度だって言う。やりたいことは、やればいいのだ。
それを止めるのは誰だろうか。親か、友だちか、上司か、世間か。
たいていは、自分自身だと思う。
自分にゴーサインをもっと出したい。いいねを押したい。誰かの投稿にいいねを押すのなら、自分にだって押せばいいのだ。ハートだらけの自分は、いまよりずっと、満足に、しあわせに生きられるはずだ。

さて、「笑い話にする気すらおきない」と書いておきながら、わたしがなぜこうして文章にできているのかというと、そうです。

泊まることが、できたのです……!(スタンディングオベーション)

奇跡が起き、たまたま空いた一室に宿泊することができました。その話は、またいつか書くつもりです。


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