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日常ブログ #29餅つき



あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、年末年始となると各家庭恒例行事というものがあったりなかったりするのではないだろうか。
私の家では、毎年年末恒例の親族集結餅つき大会が開催される。
何故だか知らないが、会場は大人4人が身を寄せ合って生活する手狭な私の実家である。

いつから始まったのか、いつまで続くのか、そんなことは私には到底わからないこの餅つき大会の朝は早い。
両親は早朝からバタバタと居間やらキッチンやらの整頓作業や、餅米の準備に取り掛かっている。
母曰く、年寄りは活動開始時間が早いので、予定よりもだいぶ早く祖父母が到着し、餅つきマシーン等機材を持ってくる。
しばらくして痺れをきらした母が寝室に向かって早く降りてこいと怒号を投げかけたところで、私は起床する。
渋々着替え、寝癖も顔もそのままにして居間でぼんやりしていると、その内に続々と親族たちが集まってくる。
ここらへんでようやく私の目も覚めてくる。
集まったはいいが慎ましい我が家には収まりきらない人数なので、縁側の窓を開け放ち、庭とも呼べない、何だろう、駐輪スペースのような場所にアウトドア用の椅子が設置される。
これで簡易的に活動エリアが拡張される。
今年は異例とも呼べるほどの暖冬だったからまだよかったものの、通常は極寒である。
室内でも上着を着て、みんなキャンプ気分を味わうのだ。
これが侘び寂びである。

餅つき大会の一番の醍醐味といえば手持ち無沙汰である。
出来上がった巨大な餅を小さくちぎり、丸める際には多くの人手が必要なのだが、それ以前の餅をついている間と餅米をふかしている間はかなり手が空く。
それに、久々に親戚に会ったとはいえ、大体1年ぶりくらいという微妙さもある。
すごい久しぶりではないが、最後に会ったのは最近ではない。
絶妙に話題がない。
そうなると、工夫をこらしてどうにか暇を解消する方法が編み出される。
その結果生まれたのが、餅つき大会と平行して行われるBBQ大会である。

例の庭もどきに七輪だとかBBQコンロなどが出され、とにかく色々なものが焼かれる。
鶏肉とか、フランクフルトとか、野菜とか、マシュマロとかである。
続々と焼き上がるそれらを、みんな無心でむしゃむしゃ食べる。
本当にただのBBQだ。
餅をつけ、と言いたいところだが、ちゃんとついている。
真面目に餅をついて、BBQも怠らない。このマルチタスク。
そう考えるとすごく高度な家族行事じゃないだろうか。
まさしく盆と正月が一気に来た的な。

餅つきは仕事であり、BBQは余興だ。
だから必然的に、BBQの方がテンションが上がってしまう。
だって炭火焼きで焼いたものは何だって美味しいから。
するとどういうことが起きるかというと、昼過ぎの休憩でつきたてほやほやつやつやの様々な餅プレートが並べられても、もうお腹いっぱいで全然食べられないのである。
あんこ、きなこの王道甘味もあれば、大根おろし、ひきわり納豆といった渋いフレーバーも揃えている。砂糖醤油もオツだ。
つきたてのお餅はとにかく柔らかくて滑らかでふわふわでいい香りがする。
でもお腹いっぱいだから食べられない。
苦労して丸めたのだ、今目の前に並べられている餅は。
熱々のつきたて餅を素手で全力でこねて形を整えてできたものだ。
己の努力とみんなの努力合わさった結晶である。
白くて艶やかでふっくらしたそれは、誰より私が食べることで一段とその旨味を増すのだろう。
でもお腹いっぱいだから食べられない。
毎年こうなのだ。
一体これは何の仕打ちだろうか。
炭火焼き肉とつきたて餅。行き過ぎた魅力は時に人を苛む。
餅があるからと言って肉を放って置けないのは炭火焼きだからである。
何でも焼いて食べたがるのは人の本能なのだろうか?
手間をかけて丸めた餅より炭火で焼いた何かに手を伸ばしてしまうのが本能なのだとしたら、人は何と愚かなのだろうね、と暗黒微笑もしてみたくなる。
でも魅力は理屈じゃない。愛と同じように。

BBQと餅で愛について考えたら、昼休憩は終了し、餅つき大会の終わりも近い。
用意した餅米が無くなりそうだからではなく、みんなの集中力が切れそうだからである。
一体一日何回餅をつくのだろうか。
数えたことはない。
BBQが盛り上がってしまうのもこの飽きが原因の一つなのかもしれないと思う。
このくらいの時間はおやつにちょうどいい時間帯である。
甘いものは別腹ということでマシュマロを焼いたり焼いたマシュマロをクッキーで挟んで食べたりする。
餅はあの、腹に溜まるし。マシュマロは炭火焼きだし。

そうして餅つき大会は終わる。
別に私が詳細に書くのが面倒くさくて雑に終わらせているわけではない。
本当に終わる。
毎年気づいたら終わっている。
フィナーレの、終わりました!イェーイ!!みたいなノリは一切ない。
あれ?餅は?あ、さっき終わったの?へぇ〜・・・である。
あまりに呆気ない。完璧なフェードアウト。
というのも、餅つき大会では簡単に、しかしはっきりと各々の役割が決まっているのである。
大会の進行を取り仕切るのは、餅を精製するノウハウを持った親世代。
親世代から今まさにその知識を継承している子供世代。
そして私、知識も責任もなくただ労働力として手を動かす指示待ち妖怪である。
みんなそれぞれ自分の役割を全うする。
私の仕事は親世代の指示に従うことなので、ひたすら指示を待つのが仕事だ。
なので大会後半、もうあんまり人手がいらなくなり、私自身手伝いにも助けにもならない場合、ずっと指示がないまま、妖怪の知らぬ間に大会は終了している。
人里に棲む無責任な妖怪に与えられる仕事はないというか、いや、ただ甘やかされているだけである。
みんな、いつもありがとう。
今年も指示待ちしますのでどうぞよろしく。

さて、こうしていつの間にか始まっていた餅つき大会は、いつの間にか終わっている。
片付けを済ませ、大量の餅を各家庭に分配し、それぞれの家へ帰っていく。
大会が終わった後の居間にはそこはかとない寂しさだけが残り、何だか部屋が広く感じられる。
でも錯覚である。私の家は本当に狭い。

毎年思うが、いくら家族行事とはいえ、大会を運営している親世代は忙しく、大変そうだ。
もし、来年からはお前が主催するんだよ!という指示を出されたら、いくら妖怪歴プロ級の私といえどもほとほと困ってしまう。
でも、この恒例行事自体を面倒だなと思ったことは一度もない。
身に染み付いた習慣でもあるし、そもそも年に一度しかない催しだし、何より今や親族が一同に会する機会はほとんどこの大会のみになってしまったのだ。
一回一回を大事にしたいと思っている。
やはり餅は愛だ。

だが、昼休憩で余ったきなこがまぶされた大量の愛を翌日レンジで温めると、私の愛が熱すぎたのか、はたまた温め時間が長すぎたのか、無様に液状化したそれをみっともなくズルズル啜って食べる事になる。
味は一緒でも見た目は踏み潰されたスライムである。
まさに妖怪の絵面。
やはり愛も餅もできたてを美味しくいただくのが一番だ、と今年も学ぶのだった。

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