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自分の背中を見つけた人たち

Kくんのように道に迷っている若者もいる。
自分探しをしている若者もいる。

だが答えはいくら旅しても見つからない。結局のところ答えは社会の中にしかないのである。その社会は村や南の果ての島にもあり、旅を離れそこで自分の背中を見つけた者たちもいる。

■ある人生「臥蛇(がじゃ)の入道先生」 NHKアーカイブス
 30分/1965年(昭和40年)鹿児島から南西に250キロ。トカラ列島に属す臥蛇島(がじゃしま)は周囲9キロ、平均70メートルの断崖絶壁に囲まれる島である。鹿児島から船で24時間かかるこの島に1953年から1966年にかけ教師として赴任していたのが、島民から入道先生と呼ばれ親しまれた比地岡栄雄(ひじおか・えいお)。比地岡先生は子供たちに勉強を教えるだけでなく、島民のために簡易水道を作り、現金収入の無い島に畜産やシイタケ栽培も奨励した。絶海の孤島で島の人々の生活向上のために孤軍奮闘する離島教師の記録。

語り:島野富之助撮影:金子二市音声:小俣辰敬効果:川野楠巳構成:山崎俊一

十島列島臥蛇島。絶海の孤島である。そこには本当にミニマムな村社会があった。そこへ赴任した教師『臥蛇の入道先生』のドキュメンタリーはとても印象に残った。絶海の孤島にミニマムな社会を作ったのである。

また彷徨いつづけた果てに南の島にたどり着いたものもいた。

稲垣尚友(竹大工・民俗研究家・トカラ塾塾頭)
1942年東京生まれ。亡父の影響で何となく外交官を目指し、灰色の受験勉強の日々を過ごす。しかし22歳の時それまでの生き様に疑問を感じ、本当の人間の暮らしを求めようとするあがきの中、土方・行商などをして日銭を稼ぎながら全国を放浪する。その中で南島の魅力にとりつかれ、生涯のフィールドとなる鹿児島県トカラ列島にたどり着く。
当初、何とか島と関わっていこうとする手段としたのが、土地の方言・地名・習俗を収集したものをガリ版本とし、その言葉を島の人々と共有しようとする試みであった。1970年に無人島となった同列島臥蛇島の最期を見届けた後、東隣の平島で本格的に定住生活を始め、記録・観察の対象をそこに生きる人々に定める。ところが島のありのままを記録しようとした文章は図らずも島自身から強烈な反発を受け、住み始めて13年後、強烈な逃亡者意識を抱きつつ島を後にすることになる。35歳の時熊本の人吉盆地で竹細工職人に弟子入りし、のち千葉県の鴨川で籠屋をひらく。離島から17年後再び島を訪れ、以後島の記録を再開する。

『トカラ塾』
http://www.tokarajuku.sakura.ne.jp/about_this_site/profile.html


わたしは図書館通いをあっさり止めた。何をすればいいのか分からない不安を抱いたまま、学校も辞める。さしあたって、自分がしたくないと思ったものには手を出さないことにした。素直な気持ちになれたのは、歩いているときだった。ひたすら歩いた。 市街地よりも脇道へ好んで入っていった。何日も歩いた。一日に四十キロ歩いたことも稀ではない。後戻りする考えはなかった。初めのうちは背中に自炊用具を負っていたが、いくらもしないで、着替えのシャツ類だけを持ち歩いた。路銀は道々で稼ぐことにした。車に乗ったり、列車に乗ったりすることも考えない。無我夢中で歩けば、頭の中が空っぽになり、何も考え迷わないで時間を潰せる、と期待したのである。それほど、先行きが見えない不安に駆られて、愚にもつかない考えが頭の中で空回りしていた。
ただ、道々で出会った人たちと会話するとき、気持ちが不思議に落ち着くのだった。出会う人とは、野良で働く農夫であったり、路傍で遊んでいる子どもであったり、小銭稼ぎで働いた現場の人夫であったりした。
 そんな人たちの声には、真正な何かが潜んでいるように思えたのだ。当りまえのことであるが、図書館でにらめっこしていた文字群のなかからは見つけ出せない何かがあった。わたしは短兵急にも『そうだ、文字から一番遠い世界に身を置こう』と決める。そうした考えの延長上に南の島があり、中之島の製糖工場があった。」


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