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SNSとブロック

少し前に、SNSについて記述した。「SNSと距離」というタイトルで、おかげさまでいろんな方に読んでもらえた。

「僕のnoteを読んでくれてありがとう」という気持ちと、「やっぱりSNSと距離については多くの人が迷われてるんだな」という気持ちが複雑に交差した。

この記事を非常にシンプルに要約すると、

SNSは世の中をそのまま縮小したものではなく、世の中そのものでもない。かなり歪んだ情報のカオスでもあるから、相手によっては適切な距離感を取るってことはむしろ必要ではないか?

という内容になる。

そこで今回は、SNSでの「ブロック」について考えてみたい。

僕はSNSをやりだして最初の頃は「ブロック」を使用することは無かった。世の中にはいろんな考えの人がいるし、いろんな意見があって当然だし、今もその想いは変わらない。

だから、反対意見や気に食わないことを書かれた程度でブロックしてもしょうがない。そう思っていたし、変にブロックしたあとに「あいつブロックしやがった」とか知らないところで不特定多数に向かってガタガタ言われるのも面倒だしな、という感覚もあった。

ブロックしたくなるようなヤツに何を言われても別に構わないが、僕のことを知らない人にとっては、「そいつの文句=僕の印象100%」ということになってしまう。それもなんか損だしな、みたいな気もしてた。

だが、ある時期から僕はSNSで、たとえばスポーツ安全に関わること、心臓震盪や子供のコンタクトスポーツなど、命に直接関わることについても、情報発信を積極的にするようになった。それらが共有されることで、意識が高まり、危険な事例が減らせるかもしれない、と考えたからだ。

たとえば、

「海外で子供が格闘技の試合で亡くなる、ということがあった。子供の脳は脆弱なので、子供のコンタクトスポーツ自体、見直す時期ではないか?」

的な投稿を僕がすると、その投稿に対して

「うちの流派は安全性に気をつけてますから安心です」

とか

「ムエタイは危ないです、カラテにしましょう」

とか、「人の命が亡くなってる」のに、それに対してPR的なマウントをとって引用リツイートする人たちが出てきたのだ。

僕は唖然として、それらのアカウントをブロックした。「同じ格闘技を愛する者同士、みんなでより安全でよりハイレベルなものを目指しましょう!」「他人事にせず、気をつけて参りましょう」という方向に行くならいいのだけど、そうではなく「うちの優位性」をPRしようとする浅ましさに辟易したのだ。

それ以来、僕は、最低限の礼節を持ち合わせていない人、おかしなマウントをとってくる人、医学的に明らかにおかしな情報を流す人、敵意や悪意を感じる人、に関しては、ブロックを行使するようになった。

ちょうどそのころ、「読みたいことを、書けばいい。」の著者であり、ひろのぶと株式会社の代表を務める、田中泰延さんが「めざせブロック10万人」を公約に掲げていた。見事な発想の転換でもって、「ブロックしていいんですよ、心を守るほうが大切じゃないですか」という問いかけを「言葉」ではなく「態度」で示してくれた。ブロックしても構わない。彼の行動に救われた人も少なくないはずだ。

そんな精神的な後押しもあり、僕はブロックに対する躊躇が次第に無くなった。向こうは「好き勝手なことをコメントしたり、礼節を欠いた引用をする権利」を行使したわけだ。「それらに対してどうするかの権利」はこちら側にあってもいいはずだ。

このようにブロックを駆使するようになって、じつは良かったことが2つある。

ひとつは、SNS上の空気が良くなることだ。僕がおかしいと感じたものには躊躇なくブロックを行使します、ということが知られると、その手のコメントは確実に減ってきた。

もうひとつは、自身の投稿の質に配慮するようになったことだ。ブロックするということは、「僕の投稿は読まなくていいよ」という表明でもあるわけだけど、そうする以上、「投稿にもちょっとした価値や意味がある」地点を目指すようになる。

というわけでSNSとブロックについて、雑感を述べてみた。これは決してブロックを奨励するものではない。できるならばブロックをしなくていい世の中の実現を目指したい。だがそれには時間が必要なのも確かだ。これからまたSNSに対する僕の態度もまた変わっていくとは思うが、画面の向こうには人の心や気持ちがあることだけは忘れずにやっていこうと思う。

PS. おかげさまで、『強さの磨き方』、いろんな方に読んでいただいています。有り難いです。





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