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吐きながら生きる

自分を奮い立たせたい時に必ず見る動画がある。

それは2011年に札幌ドームで行われた日本ハムvsロッテ戦での一コマ。試合の終盤、日本ハムは1点ビハインドながらもチャンスを作る。そこで打席が回ってきたのは直前で致命的なエラーを犯してしまった小谷野栄一。YouTubeに上がっている動画(公式ではないけど)は、小谷野選手が打席に入る前から始まる。

しかしどういうわけか小谷野選手がベンチから出てこない。代打を出すのかと思いきや、その様子もない。「一体なんだ、この時間は?」と思っていると、カメラはベンチに座る小谷野選手を捉えた。
僕は洞察力に欠けているので「人の顔色が悪い」という判断ができないのだが、そんな僕でもすぐに分かった。小谷野選手の状態が普通ではないことを。目は赤く充血し、息も苦しそうだ。そう、彼は2006年シーズンから「パニック障害」を発症しており、試合中は常に吐き気や極度の緊張に襲われていた。2軍戦だが、実際に打席中に吐いてしまったこともあるそうだ。

もちろん他の選手・コーチや熱いファイターズファンは小谷野選手の事情を知っているので、急かすことなく彼が落ち着くのを待った。
そして彼はペットボトルの水を流し込み、意を決してベンチを飛び出して打席へと向かった。大歓声の札幌ドーム。現侍ジャパン監督の稲葉さんが小谷野選手のお尻をポンっと叩く。目の焦点は定まってなかっただろう。胃は飛び出しそうだっただろう。僕には計り知れない程の重たいものを抱え、打席に向かう小谷野栄一の姿に僕は何度も勇気づけられてきた。

話は変わる。先日よりいちごファームで働き始めた。家があるブリスベンシティから車を40分ほど走らせ、毎朝6時半からひたすらイチゴをピッキングしている。お金を稼ぎたいというよりも、何もすることがない生活を変えたかったというニュアンスの方が近い。何ならレンタカー代や駐車場代やらで大赤字スタートを切っている。それでも働くことを決めたのは4ヶ月ほどの無職期間を経て、社会との関わりが欲しくなってきたことにある。
朝食代わりにピッキングしたイチゴをそのまま口に放り込む。朝日を浴びながらする労働はなんとも気持ちが良い。多少サボっても何も言われない。ピッキングしながらYouTubeだって見放題。腰は痛くなるけれど、長らく朝の生活を体感していなかった僕にとってその痛みはむしろ気持ちがいい。

前回の記事で「入眠に困っている」という話を書いたが、当然それも朝から働き出したことで改善された。めでたしめでたし。

とはなっていない。

身体はとても疲れてるはずなのだが、寝つきは今も悪い。さすがにそのまま朝を迎えることはなくなったが、ベッドに入ってから2、3時間眠れないなんてことは今だに起こる。でも今は「そうなって」しまっても動じない。なぜなら僕には小谷野栄一がいるからだ。

この前、定期的に覗く「ほぼ日」を見ていると、過去のアーカイブから小谷野選手のインタビュー記事にたどり着いた。
インタビューの中で小谷野選手は「パニック障害は自分の個性」だと言っている。さらに「完治させる気もない」と。現に2006年から引退する2018年まで、試合前はいつも吐きまくっていたそうだ。彼は「吐きながら野球を続けること」を選んだ。考えてみればスポーツ選手はそれぞれにこだわりのルーティンがある。リラックスするために映画を見たり、手品をしたり、風呂に入ったり、その方法は様々だ。小谷野選手にとってのそれは「嘔吐」だったというだけの話なのかもしれない。

インタビューの中では「『なんで自分だけ』って思うことありませんか」という問いがある。それに対して小谷野選手はこう答えている。

もうそれは、
自分は、周りの人たちよりも繊細というか、
色々なものに気付きがある、すごい人間だって
思っちゃえばいいんですよ。
周りの人たちは、あんまり大したことないから、
平気な顔して生きてるんだって。

いいなあ。この人は本当に優しい人間なんだろうな。いまトレンドになっている音楽家も見習って欲しいものだ。

僕も、できないことがたくさんある。それはもう本当にたくさん。逆に何ができるん?と、自分にツッコミを入れることだって何度もある。「なんで普通の人が涼しい顔をしてやっていることが自分にはできないのだろう」と、嘆き悲しむ夜が今もある。ただ、小谷野選手の言葉と出合ってから、気持ちがすっかり軽くなった。寝付けない繊細さは自分の武器なのだ。繊細さ、作家にとって一番必要なものじゃないか。言われてみれば「出会った人のパーソナル情報」に関して異常に記憶力が良いと自負している。どこ出身で、何年の何月にどこで出会って、こういうエピソードを持っている、とか。だから基本的には雑談に困らない。うんうん。あれは武器だったのだな。

歳を取れば、顔にそれまでの人生が表れるという。どん底を見た人間の目はやはり違う。逆に、これまで逃げ続けてきた人間の顔はどこか締まりがない。あるべき姿は前者か後者か。正解はどっちでもないけどね。

違法動画だけど内容は素晴らしいから一応貼っとく。


サポートしていただいたお金を使って何かしら体験し、ここに書きたいと思います。