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ショートショート⑤コロナおじさん

2021年7月

「長かった」

心の中に留めておくはずだった言葉がついつい声に出てしまった。隣を歩く桂はそれに反応し、「やっとだな」と呟いた。

史上稀に見る「開催中止」から1年。春の大会が2年連続で中止になったことから今年の夏も開催が危ぶまれたが、何とか例のウイルスは収束し、ついに明日予選開幕を迎える。

ましてや開幕式直後のオープニングゲームに登板するのがこの俺だ。前日にしてもう興奮しているというのが正直な気持ちだ。
「なあ、桂。明日のサインだけど」
「おい、変なおっさんいるぞ。前方に」

顔色は見るからに悪く、身なりも汚い。50代くらいの中年男性かと最初は思ったが、よく見るとそこまで年は取ってないようだ。30歳くらいだろうか。酒に酔っているのか笑顔が妙に気持ち悪い。
その人は、どうやら俺たちを待ち構えていたようで俺と桂の顔を交互に見てニヤニヤしてくるではないか。

「俺、コロナ持ってる」

「え?」という頃にはもう遅かった。おっさんは俺たち目掛けて突進してきた。

「俺、コロナ持ってる!ずるい!お前たちばっかり!」

「ニュースです。また市内で『コロナおじさん』が通報され捕まりました。目撃者によりますと男は『コロナ持ってる』と叫んだ上で、明日に全国高校野球大分県予選を控えている高校球児二人に向かって唾を吐きかけたようです。
男はPCR検査の結果確かに陽性で、動機について聞かれたところ『俺は12年前の被害者だ』とばかり繰り返しているそうです。
唾を吐きかけられた男子高校生2名の試合の出場の可否は、現在大分県高校野球連盟が協議しています」

「困ったやつだねえ」

大分県内のとある会議室。夕方に発生した「コロナおじさん」の事案を受けて、こうして県内の高野連関係者が緊急招集されたのだ。
会長である真鍋融は、該当選手2名に関して、明日の試合出場に寛容な態度を取っていた。

「出してやろう。今のPCR検査は10分で結果が出るんだろう?試合前に陰性ならそれでいいじゃないか」
「しかしですね会長、その時結果は出ていなくても保菌者という可能性もありますし、それに、先ほどから本部の電話が鳴り止まないそうです」
「抗議の電話か?」
「そうです。絶対に出すなという脅迫じみた電話が何件も」

わざとファールを打つ選手がいた。高野連に批判の電話が殺到した。後日その選手に「小細工するな」と注意した。
超スローボールを投げる選手がいた。高野連に批判の電話が殺到した。後日その選手に「おちょくったような球を投げるな」と注意した。

このまま世間の言いなりでいいのだろうか。高校野球はわざわざ文句を垂らしてくる暇なおじさんやおばさんのものではないだろう。
しかし真鍋融は責任を感じていた。おそらく今回の「コロナおじさん」は12年前のあの時の選手だろう。

加害者:魚塚文勝
この名前にはやはり聞き覚えがある。

もし12年前の「あの日」、自分がもっと違う判断を下していたら、と思うと胸が苦しくなる。
当初の予想よりも大したものではないことが分かり、大半の人が忘れてしまっているであろう、あのウイルス。同じくして世間から「なかったことにされた選手」があの当時確かにいた。

世間の潮目を変えるには、まずは我々が変わらねばならない。

「関係ない。出してやろうぜ、明日の試合」

2009年7月

校長室には、明日夏の予選大会初戦を控えたレギュラーメンバーのうちの1人、魚塚が呼ばれていた。彼はなぜ自分が校長室なんかに、と思っていたが明日の激励か何かだろうと勘繰っていた。彼はプロ注目のエースピッチャーなのだ。
しかし気になる点があった。校長と顧問の間には知らない人が立っている。

「大分県高校野球連盟から参りました、真鍋融と申します。単刀直入に言います。今朝君が一緒に体育の授業を受けた生徒の一人が新型インフルエンザに感染した」

魚塚はまだ話が見えてこない。

「よって君はいわゆる濃厚接触者ということになる。だから明日の試合に出ることは認めません」

魚塚は話が飲み込めなかった。

「ぼ、僕は元気ですよ?何なら今から検査も受けます。それで陰性なら出てもいいのでは?」
「陰性でももうすでに保菌者という可能性が十分にある。分かってくれ」
「納得できません」
「納得してもらうしかないんだよ!いいか、高校野球は高校生のためのものじゃないんだよ。大人たちの賛成と協力があってこそなんだ」

だとしたら、主役であるはずの選手の立場はどうなるのだろう。

「では校長先生、顧問の方、あとはよろしくお願いします」

真鍋融と名乗ったその男は校長室を後にした。
「許さないからな」という魚塚の嘆きを背に受けて。


※この話は実話を元にしたフィクションです。

「他の部活も中止になっているのだから野球も中止にすべきだ」という意見がありますが、全国高体連と高野連は別の組織なので別で考えるべき。
そもそも野球って濃厚接触からほど遠いスポーツです。

サポートしていただいたお金を使って何かしら体験し、ここに書きたいと思います。