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ショートショート⑳「父乳」

「看護婦さん、母乳って本当に産んでからすぐに出るものなんですか?」

お腹を大きく膨らませた妊婦が、部屋の昼食を片付けていた私に声をかける。その声は、聖母を連想させるような穏やかな口調であった。時期的にもお腹の大きさ的にも、今日産まれてもおかしくはない。

「そうですね。何日か経つと体が勝手に反応して出てきますよ」
「へえー。子供の頃から知ってたことだけど、改めて考えると何というか、神秘的ですよね」
「本当に。不思議です。女性の体は」
「しかもそれを飲んで子供が大きくなるんだから、そりゃ母性くらい芽生えますよ」

母性。その言葉が頭の中を反芻する。私にも娘がいる。2歳になる莉亜は今日も夫の源亮と一緒に、私の帰りを待ってくれているのだ。

母性というのは確かに存在する。離したくないという独占欲、ずっと見ておきたいという不安、体脂肪率が高い未熟な身体を咥えたくなる衝動。全ての感情を引っくるめた、蟠りのようなものが母性だ。

「私も子供がいますけど、踏むことになる場数はやっぱり旦那さんよりも多くなりますよね。その分強くなれるというか、強いふりをするのが上手くなるというか」

今年で還暦を迎える母親によく聞かされた。私は手のかからない子だったと。夜泣きはしないし、乳離れも早かったらしい。大きな反抗期はなく、漠然と頭にあった「看護助手になる」という夢を叶え、それなりにキャリアを積んだ後に、友達の紹介で出会った源亮と結婚をし、莉亜を産んだ。

幸せなのだとは思うが、もしかしたら平凡でつまらない、味気のない人生なのかもしれない。

回収した食器を洗い場へ運ぶ道中に、清掃員のおばちゃんとすれ違った。名前は知らない。私の母と同じくらいの年齢だ。おばちゃんはいつも無愛想で、9時ごろにやってきては黙々と院内の掃除をし、昼過ぎに自転車に帰っていく。その間に発する言葉といえば、業務上の必要最低限のもので、おばちゃんのプライベートなことを知る者は院内に誰もいない。

看護師の中には、おばちゃんのことを陰でコソコソ言う人もいる。それは「笑うことあるのかなあ」とか「生きてて楽しいのか」といったお節介な議論だ。あのおばちゃんも、私と同じように「つまらない人生」なのだろうか。少し気になる。

「ただいま」
「あ、おかえり」

家に帰ると、源亮がキッチンに立って料理をしていた。食欲をそそる香りが2LDKのリビングに漂っている。

まだまだぎこちない歩き方だが、莉亜がハグを求めて私の方へやってくる。まだ何者にも毒されていない健気な身体を、私は精一杯の力で抱きしめる。ああ、これが私の生きる希望。この瞬間のために生きているのだ。

「良い子にしてたー?保育園どうだったー?」
「あそんだー」

テーブルに一枚の紙が置かれていたので、気になって覗いてみた。

「え、ちょっと何これ」
「ああ、それ依音に言い忘れてたな。明日参観日なんだよ」
「いや、見たら分かるでしょ。なんで言ってくれないの?」
「え、だって。金曜日は仕事外せないだろ?大丈夫。俺が行くから」
「違う、行ける行けないの問題じゃなくて、そういうのがあるって事前に私に言うのが筋でしょ?」

源亮はフリーの翻訳家として自宅で働いている。時間には融通が効くので、こういった行事はいつも彼が出席しているのだ。

「忙しくて忘れてたんだよ!パソコンいじってるだけの仕事だから、楽だと思ってるのかもしれないけどなあ!」
「別にそんなこと言ってないじゃない」

最近、一段と喧嘩が増えた。源亮にはもちろん感謝はしている。莉亜の面倒や掃除に洗濯、料理まで献身的に尽くしてくれているとは思う。しかし、どこか釈然としない。これは私のせいでもあるのだろうけど。

結局、ムードが悪いまま次の日の朝を迎え、私はいつも通りに働いていた。しかし、今こうしている裏で保育園では、莉亜が源亮と楽しく過ごしているのだと考えるとやはり腹立たしい。私だって母親としての義理を果たしたい。

昨日の妊婦は、今朝無事に元気な男の子を産んだ。私も立ち会った。母子ともに健康で、今は二人ともベッドで安静にしている。毎日のように、その女性にとっては人生に忘れることはない瞬間を見ているものだから、そのうち慣れてしまうのだろうと勘繰っていたが、やはり尊いものは尊い。

でも、今日だけは一仕事終えた後もどこか気分が乗らなかった。先ほどまで、一つの作業として分娩室に立っていたような気がするのだ。
裏口の休憩所で一人、自販機で買った紅茶を飲んでいると、ドアが開き中から人が出てきた。清掃のおばちゃんだった。

「お疲れ様です」

いつも通り、私が声をかけてもおばちゃんは軽く会釈だけして、駐輪所へ向かった。

「おウチ、この辺なんですか?」

おばちゃんの後ろ姿に向かって私は思いっきて声をかけてみた。するとおばちゃん、まさか自分に話しかけてくるなど思ってもみなかったのか、少し背中をビクつかせ、私の方を振り返った。

「10分くらい。自転車で」

おばちゃんは照れ笑いを浮かべた。この人は無愛想なわけではなくて、ただの人見知りなのではないだろうか。思春期の中学生みたいな雰囲気がある。

「家族は?子供とかいるんですか?」
「いるよ。5人。もうみんな家からは出てったけどね。今は旦那と二人暮らし」

5人も?私は驚いた。出産時のあの壮絶な格闘を5回も繰り返し、しかも子供たちを立派に育て上げた覇気が、どうしてもこのおばちゃんからは感じ取ることができなかったからだ。

おばちゃんは、「あ、そうだ」と言って、鞄の中から取り出したお菓子を私にくれた。キットカットだった。「じゃあ、また明日ね」と言って、おばちゃんは自転車に乗って帰っていった。

「おばちゃん」という人物と、「明日」というワードは何ともアンバランスで、私は笑ってしまった。

家に帰ると、いつも通り源亮はキッチンに立って料理をし、莉亜は授業参観で張り切って疲れたのか、ソファで寝ていた。

どちらから、というわけではなく私たちは昨晩のことを謝った。ケンカの回数こそ多いが、私たち夫婦のリカバリーは速い。

ご飯を食べながら、今日の参観日のことを源亮から聞いた。別の子供や保護者たちと一緒にお菓子作りをしたらしい。周りの大人は奥様方ばかりだったが、源亮は負けず劣らずの料理の腕を発揮し、他の子供たちから大人気だったそうだ。

でも、莉亜は「ママは?ママは?」と、しきり源亮に尋ねたそうだ。
やっぱり、私も一緒に行きたかったな。

それまで静かに寝ていた莉亜だったが、突然泣き出した。
「お腹空いてるんじゃない?」と、私が言うと源亮は立ち上がり、莉亜を抱き抱え、自分の服をめくって左乳首を莉亜に差し出した。

昨日の妊婦の、いや今日産んだから今はママか。彼女から言われた言葉が頭をよぎる。

「看護婦さん、母乳って本当に産んでからすぐに出るものなんですか?」
「しかもそれを飲んで子供が大きくなるんだから、そりゃ母性くらい芽生えますよ」

などと言っていたかな。
私は母乳が出ない。しかし、神は時にコントのような悪戯を我々に仕掛けるものだ。

莉亜は貪るように、源亮から出る乳を吸っている。やはりお腹が空いていたのか。

あの新米ママに対して、私は何と返したっけな。「踏む場数は多くなる」とか「強くなれる」とか、そんなありきたりな適当なことを言った気がする。嘘はついてないだろう。母乳こそ出ないが、母性はちゃんとあるのだから。

でも、授業参観にも行けない、与えるべきものを与えられない私は、果たして本当に母親なのだろうか。

目の潤みを隠しきれなかったので私はトイレに駆け込んだ。ズボンのポケットには何かが入っている。おばちゃんからもらったキットカットだった。チョコはすっかり溶けてしまっていたが、一人トイレで泣きながら食べるにはちょうど良かった。


☆この「父乳(仮)」は、短編小説として書き進めていきますので、これからもご自愛ください。もっともっと面白くなります。

サポートしていただいたお金を使って何かしら体験し、ここに書きたいと思います。